【152】「2行・2秒」から数万字まで:長短・疎密・濃淡の自在な表現を修得する
「頭のいい人、本当によくわかっている人は物事を簡単に説明できる(しそうすべきだ)」などという言葉が戯れ言でしかないのは、ひとえにそのようなことを言う(あるいは、そう言う者として仮想される)人は、情報の受け手としてそう言うからですし、なるほど、情報を受け取る側がそんな信念を持つとすれば、それは傲慢というほかありません。そういった信念は早々と捨てるべきでしょう。
しかし表現を振りだす側としては——もちろん「幅広い層に訴えよう、と思うのであれば」という限定をつけなくてはなりませんが——様々な濃度・密度の、あるいは様々な長さの文章を書く能力が求められると言えるでしょう。
もちろん文章というものは、形式が変われば内容も変わるものです。内容と形式は決して相互に独立ではありません。詩であろうと散文であろうと論文であろうと、それは変わらないことです。文庫本と単行本では、文字情報がまったく変わっていなくても、伝わるものは当然変わります。要約と本文の間には超えがたい懸隔があります。
とはいえ、近い内容を伝えるために、長さや言葉遣いや密度を変化させるということは、ある種の書き手であれば、獲得することを目指しても良い能力のひとつだと思っています。
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たとえば研究者は、第一に研究者の共同体の中で文章を書く者で、その内部には特有の法があります。そうしたた法に慣れてこその専門家です。
仮に研究者共同体の外部にも訴求するようなものを書こうとするのであれば、それなりの作法や形式を模索する必要があるでしょう。
とりわけ、単に分かった気にさせること、単に読者の楽してお勉強したいニーズを満たすことを目指すのでないならば、なおさらです。(素人や、時にプロが垂れ流す、そうした安っぽいコンテンツのなんと多いことでしょう!)
正しく目指すべきは、単に薄めたものではなく、単に小さく切り取られたものではなく、触れていたらいつのまにか適切な・深い内容が、深刻な誤解なしに学ばれている、といったタイプの、極めて巧妙なテクストを作ることでしょう(「とにかく興味を持ってもらう」というのは、真理に関わる専門領域にあってはよくない戦略で、そもそも読みに来る人間は興味があって来るのですから、「興味を持ってもらう」ことは大きな目的にしづらいものでしょう)。
研究者は専門分野において専門的な語彙や専門的な言葉遣いをしますが、それは専門家同士のコミュニケーションを容易・円滑にするために絶対必要なことです。他方で、専門外の人間に専門的なものを効果的に伝えようとするのであれば、単にうすめて単にわかりやすくしてハイおしまい、では本当はダメで(不誠実で)、極めて知的な努力が必要になるということです。
別に狭い意味での「研究」に限られた事情ではないでしょう。
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皆さんが、「自分の専門分野からは一歩も出ていかないぞ」、と心に決めるのでない限りは、自分の文章の密度・濃度あるいは単に長さといったものを、内容を(あまり)変えずに自在に伸縮させる技術というものは、意識的に磨こうとしても良いのではないかと思われるのです。
極端な言い方をすれば、皆さんが書かれている文章を、仕事であれ趣味であれ書かれている文章の類というものを、それが例えば数千字のものであるとしたら、より詳しく事例や詳細な説明を入れながら数万字単位に広げていけるかどうかということを試してみるのも価値があることでしょう。
あるいは、2行・2秒でまとめられるかな、というかたちで自分の能力や知識をテストしてみるのも面白いことかもしれません。
長く詳しく書くためには、詳しく理解していなくてはならないでしょう。あるいはごく簡潔に書くためにも、何がエッセンスであるか・そのエッセンスをどのような言葉を使えば簡潔に伝えられるか、ということは、対象をよくよく理解していないとそもそもを導き出せないものです。それに、対象を理解していたところで、短く表現する能力は、単なる理解力、あるいは専門に関する知識とはまた別個の能力ですから、専門に浸りながらも徐々に・意識的に学んでいく必要があるように思われるということです。
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哲学あるいは思想史という文脈で、特に短く、「2行・2秒」でまとめる作業をやろうとすると、結構嫌がられる面があるかもしれませんし、私もさしあたって、必要なものを必要な密度で書くことしかやるつもりがありません。広告的啓蒙には興味がないということです(し、なんであれ啓蒙は最も困難な作業ですから、本当に優れた専門家がやるべきでしょう)。
特に、大学かそれに準ずる教育機関で然るべき教育を受けていない素人が「簡潔に」何かを言おうとすると悲惨なことになるので——たとえ市場が許し認めるとしても、世界に余計な情報を増やすことになるので——、やめたほうがいいとは思います。
とはいえ、真理に関わる専門領域に関連しないのであれば、あるいはあくまでも仮のものであることが完全に了解されているのであれば、或る種の(個人的な、たかだか内輪での)練習として「2行・2秒」でまとめてみるのは、一つの試みとして面白いだけではなくて、有用なことであると思います。
それは「何を捨てるか」ということに関わる、極めて知的な負荷のかかる作業で、様々なものを(ときに致命的なかたちで)犠牲にすることであるとはいえ、寧ろそうした犠牲を通じて贖われるものは多いでしょう。それは対象に対する斬新な視座であったり、他の分野との思わぬ対応であったり、取り組みの大筋の方向性に関する新たな発見であったりするかもしれません。
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反面、長く書いてゆこうと思えば、論旨をどのように組むかということがまず問題になるわけですし、その論旨が適切かどうかということも、主題となる対象に応じて慎重に決定されなくてはならないわけです。具体例を入れるのであれば、その例の適切さというものも同じように吟味しなくてはならないでしょう。
つまり、長く書こうと思えば、やはり対象に対する理解も深めなくてはならないわけですし、判断力を養っていかなくてはならないわけです。否、長く書こうと試みることで得られる理解、得られる判断力というものがあるのでしょう。
長く書いていくうちに初めて見えてくるものは、確実にあります。
皆さんのうちのどれほどの方が数万字単位で文章を書いているたことがあるかは知りませんが、とまれ、書いているうちに見えてくるものがある、ということは、皆さんもご存知の通りです。
友達とか同僚とか教師とかと、時間をかけて語り合っているうちに、思いもよらなかった事実に気づくとか、思いもよらなかったベストな言葉が出てくる、という経験は、お持ちではありませんか。
量は質に転化する、という言葉遣いがここで適切かはわかりませんが、量をこなさねば見えないものもあるのですし、一定の規模でまとめなければわからないことがあるのです。
パッとまとめる中での取捨選択が先程見たような意味を持つとすれば、逆に、長々と書く作業のうちにも新たな発見や理解という果実が転がっているのです。
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このように伸縮自在な表現を目指して、伸縮自在に表現を練習してみるということは、文章のあるいは口頭表現の主題になっているものに対する理解を深めることに大いにつながるものです。皆さんも、媒体をお持ちであれば、是非行ってみると良いと思われます。
職業上の専門でなくても、趣味の技術のこととか、好きな小説や映画でもなんでも、様々に長さや密度を言葉にしてみれば、新たな切り口や、新たな事実に気付かれることでしょう。
言うまでもなく、言語表現でなくても構いませんし、「情報」の伝達に全てを賭ける通常の意味での散文でなくてもよいでしょう。写真でも絵でも詩でも、心地よい長短・疎密・濃淡を一度離れてやってみるというのも悪くはないということです。伝え方の技術のストックが増えて、悪いことはありません。
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言葉にしてみるということを既に実践されている方でも、それを短く簡潔にまとめてみる作業と、とことん出来る限り事例や修辞を尽くして伸ばして引き伸ばしてみるという両極端の作業を実施してみると、皆さんが持っている対象に対する理解はもちろん深まるでしょう。
さらに思わぬ副産物としては、読者の幅を広げることになるかもしれません。短い表現を手軽なものとして好んで読みたがる人も、長い表現の長さそれ自体を熱量の表れと解釈して頑張って読もうとする人もいるわけです。
私は読者としては完全に後者ですが、前者に該当する人のほうがもちろん多いでしょう。
前者は表面的な理解に止まるという陥穽に陥りやすい一方で、しかし興味関心を幅広いものに関して持ちやすいという長所があるでしょう。交流を持てたなら、広い世界へと連れ出してくれるかもしれません。
後者つまり長いものを好む人は、どちらかといえば私のようなオタクに多いかもしれず、たくさん読むからといって、もちろんきちんと理解してくれるわけではありませんが、また思い込みが激しい可能性もあるかもしれませんが、読んでくれるようになればありがたい読者です。
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文章を書いたり話したりする際に、あるいはその他の表現を行う際に、長短・疎密・濃淡の自在さ目指し、訓練・実践してみるということは、それだけで自分の対象に対する理解を深める深め広げることにつながるのみならず、多様な読み手に訴求するという意味も持つのではないか、ということでした。
皆さんが何らか表現・発信する立場にあるのならば、(ここでは長短という点にフォーカスしましたが)、長短・疎密・濃淡を様々に変更してみる作業には、なかなか有用な面があるのではないか、ということです。
そうして色々と試してみるなかで、自分の能力もあがるはずですし、思わぬ必勝フォーマットを見つけられるかもしれません。何にせよ、心地よいものをひたすら繰り返すだけでは得られない自在さに、接近してゆくことができるでしょう。