【154】十全な入試の解説は「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」:怒りや不満を昇華するためのエトセトラ(と涼宮ハルヒ)
日本の大学受験というと、詰め込み式で良くないなどということを言う人がおり、ときにフランスのバカロレアと無節操に対比するなどしていて面白いものです(それにしても、バカロレアの数ある科目のうち、哲学の、しかも小論文課題のみがクローズアップされるのはどうしてでしょうね)。
そうした側面がどの大学においても、またどういった試験の形態においても存在しない、ということまでは言い切れないにせよ、大学の多くは記述式の試験を課しています。良心的な大学であれば、客観式つまり選択式の問題においても、十分に思考できなければ答案を作ることができないように問題を作っているはずでしょうし、あるいは抜けがちな・差がつきやすい部分を狙って知識を問うてくるはずでしょう。
あるいは発音やアクセントは旧センター試験でも多くの私立大学でも課されているものであり、これはなるほど知識問題ですが、リスニングやスピーキングを一律で課すことが現実的ではない以上、少なくとも平素の学習で音の部分を軽視しないでね、という教育的なメッセージをこめたものとして受け取るべきでしょう。
歴史科目などは、揶揄も込めて「暗記科目」と呼ばれがちです。それは一面の真実で、採点の困難という点からごく単純な穴埋め式あるいは知識短答式の問題にせざるをえないという面があるとは言えるでしょう。また、そうした最低限の知識を確実に埋めるだけでもほんとうは難しく、最低限の知識を持っていることこそが——曖昧な言い方にはなりますが——一応は歴史的にものを考えることの基礎になるのであってみれば、詰め込みはそもそも悪いものではありませんし、最低限度を成すものです。
どのように「詰め込」まれているかは重要ですが、そもそも事項の有機的な連関なしに詰め込んだところですぐに抜けるのですから、念入りな暗記を要する、「詰め込み」を要求するかに見える問題に対応できる能力は、事項の名の背後の有機的連関に関する理解と連続的です。
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こうして、大学受験において意味のない丸暗記などというものは必ずしも要求されていない、ということを踏まえるにせよ、その対蹠として、大学受験が常に確実に徹底的に考えることを要求しているかといえば、必ずしもそうではない、ということは、上に述べたことから既に明らかでしょう。
英語の試験を解くにしたって、勉強法というものはある意味では大学受験に向けてカスタマイズされたものにならざるをえず、時間も絶対的に限られているわけで、謂わば不徹底な段階の人々を点数によって振り分けるわけですから、単なる知識問題の類が出題されるのも無理からぬことでしょう。
先日見たところでは、某有名私立大学の試験で、単に正しいスペルの英単語がどれかを問う問題がありました。たしかrhythm及びilliterateの正しいスペルを問うものでしたが、正解以外は、存在しないスペルを提示していました。こうした「単なる知識」を問う問題でもしっかり差がついてしまうからこそ、そうした問題が出されているのでしょう。
知識が(入学以降の)応用・実践に必要であり、また知識の有無が、大局的には経験・学習歴の有無を如実に示すからには、単に知識を問う問題が出題されるというのは実に合理的なことです。
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そうした構造があるからか、参考書や、過去問の解説というものもまた、多くの場合には(意図的に?)不完全なものにされているケースが多いように思われます。
それも、単なる知識問題に関する解説ばかりでなく、めちゃくちゃに深い思考と慎重な手続きを要求するはずの問題に対する解説まで、おそらくはバランスなどの都合もあるのでしょうが、(受験生としての過去の私にとっても、また現在の私から見ても)不完全・不十分にとどまっているように思われるのですね。
どういうことかといえば、私がやってきた英語の入試問題の解説というものは、次のようなものだったということです。
例えば、この問題文の内容に合うもの内容説明した選択肢はどれかという問題に対して回答する時に、選択肢の訳を提示して、あっている選択肢はこの箇所に合致するから正しい、として終わりにするということが非常に多いわけですね。
あるいは空所に適切な単語をあてはめようというものであれば、選択肢がいくつか提示されている場合がありますが、その場合に、正解でない選択肢を入れてはいけない理由というものが説明されていないことが極めて多い。
間違った選択肢を選んでしまった人は、知識が足りないとか、誤読していたとか、色々な理由で間違えているわけですが、どうして間違えたのかを突き止めるための梯子はほとんど外されているわけです。
ふつう誤答にいたる場合には、確信を持って誤った選択肢を選ぶことは多くなく、(正解を含む)複数の選択肢の間で悩んで、曖昧な仕方で選びとることが多いのですから、その曖昧さに気付かせるような解説が求められる、つまり誤った選択肢を選んでしまった人間の思考プロセスを一定程度トレースしたうえで、なぜそのプロセスが誤っているのかを複数の側面から記述する必要がある(ように思われる)のですが、そうした「解説」は実に少ない。
それに、「正しい単語を入れてみると、ほら、正しいでしょ?」という「解説」も多いのですが、これでは明らかな論点先取になるわけです。現実的にはそうした場当たり的なプロセスを経て解くのでしょうが、それは解説でなく知識の提示でしょうし、知識が欲しいなら辞書を引けばよいのです。周辺の文脈から、そして統辞の観点から、適切な選択肢をひとつに絞るプロセスを示す(同時に、他の不可能な選択肢を抹殺する)、というのが本来の解説でしょうし、そうした泥臭い地道な態度を示す中でこそ、受験生は自分の弱点に気づき、而今の方針を立てやすくなるのではないかと思われるのですね。
もちろん、参考書や解説などにおんぶ抱っこになるのはよくありませんから、あまりにも親切なのもよくない、というのは真理かもしれません。
大学受験というのは——特に、入試用に切り刻まれて語彙などのレヴェルを切り下げられた英語の文章が問題になるなら——ただの通過点に過ぎないわけですから、そんなに細かく入試問題を読むくらいなら原書を読んだほうが良いでしょう。特に意欲があって、粘り強い受験生なら、Penguin Classicsの類を数十冊くらい読むはずです。
とはいえ、過去問の解説の類に不満を持つ人はいるわけです。私のように。
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ある意味ではこうした不完全さこそが私を怒らしめ、奮起させたわけですから、参考書が(私の目から見て)不完全だというのも悪いことばかりではありませんでした。
私はひねくれた受験生だったわけですし——不遜にも、予備校の解答にケチをつけるということはよくやっていました——、大学に入ってからは——やはり不遜にも——金銭を対価に教えていましたから、こうした点に非常な不満を覚えて、どうにか解決しようとしたわけですね。
間違える人間というのは、もちろん単に単語を知らなかったとか、単にうっかりしていたとかいう理由で間違えてしまうこともあります。正解と正しい思考プロセス(ないしは単に関連箇所の訳)を見せつけられ、納得できる可能性はあります。
しかし、間違えた人間が解説を読んだときに、自分はこの文を解釈できなかったから、あるいはこの単語を誤解していたから間違えたのだな、ということを納得できないような解説というものには、ほとんど意味がないと思っていました。
なぜなら解説というものは、特に過去問の解説というものは、分からせて終わりではなくて、その次に繋げるべきものであるからです。過去問は、それを解いて正解するのが目的ではなくて、別の問題がでても対応できるようにするための手段に過ぎないのですから、その次に生きる、(つまり非常に近視眼的に言えば)入試本番に生きるレベルの解説をしなくては意味がない、と私は思っていたからです。入試本番に生きる、ということは、自分の間違いかたが明かしているクセを暴く機会にならなくてはならないわけですし、辞書や文法書に外注できない、学習の方針を与える機会にならなくてはならないわけです。
それに、記述問題——内容説明や、訳出をさせる問題——の解答については、どうしてこの訳語をつかったのかとか、どうしてこの表現ではなくてあの表現を採用したのか、ということが入念に説明されていないことが非常に不満でした。
あるいはもっと根本的なことで言えば、説明問題においてある要素を入れて・ある要素を入れない理由というものを必ずしも明確にし説明しきっていない解説が非常に多かったのですね。
問いの副次的要求や、解答欄の大きさや、他の設問との関連に応じて答案に書くべき範囲は著しく変わってくるわけですが、多くの場合、本文の対応箇所を示してはハイ終わり、です。
もちろん良心的な解説であれば、中核は示されます。例えば第何段落の第何文が含めるべき要素にあたる、ということは示しているのですが、諸々の付随的な要素、つまり主たる部分ではないにせよ、主たる部分同士をつないだり、全体を解答として成立させたりするために必要な要素というものについての解説というものが、非常に不十分であるように思われていたのです。
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こうした不満は受験生の時からありましたから、私はどうしていたかというと、「ないんだったら自分で作ればいいのよ!」という涼宮ハルヒの教えを受け継ぎました。
自分で「解説」を作ったのですね。
勿論全部書き起こす時間はありませんから、(受験生の持つ限定的な能力で、ではありますが)能う限り緻密に読んで、口頭で解説をしながら取り組みました。
もちろんこれは万人がやるべきことではありませんし、英語の受験勉強に割ける時間などというものは人によってはかなり限られますから、もちろんこんなことはやらないで、できる範囲のことをできる範囲でやるというのがよいのでしょうが、私は納得できなかったので、ブツブツやっていたという次第です。
この方針は、特に英語をメインで予備校やら学校やらで教えるようになってからは、より際立っていたように思われます。
もちろん、人に向けて喋ろうという態度を確実に持つようになったわけですが、問題文の理解および選択肢の理解———どうしてこのような選択肢が提示されているのか、またそれぞれの選択肢がどうして正しく、どうして・どの程度誤っているのかということに関する理解——、そして答案の表現の細部に関する理解などというものを全て網羅してこその授業だと思って授業をしていた節があります。
もちろんこれは細かすぎることですし、生徒一人ひとりの実践に委ねるべきことなのかもしれませんが、私は実際そうして実践に委ねられる部分というものが多すぎてかえって混乱する——というか怒る——人間がいるということは理解していたのですね。それは私がそうだったからです。
ですから、私のような生徒が出ないようにと思って、進学校の高校生とかに授業をしていたつもりですが、それは功を奏していたな、と思っています。
大学院に入ってからは人前で教える機会は減りましたが、幸いそうした緻密な「解説」が必要だ、というポリシーを持つアルバイト先に恵まれて、一定のやりがい(と金銭的な見返り)を得ながら取り組むことができるようになりました。
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私は、欲しいものがないことに不満を覚えたうえで、「ないんだったら自分で作ればいいのよ」という精神で作ってきたわけですが、
翻って皆さんは、何かがないというときに、あるいは広く言って不満があるときに、フラストレーションを覚えながら何もしない、ということがありませんか。
給与が安いでも、残業が多いでも、モテないでも、何でも良いわけです。
私も全くないとは言いません。スーパーに高い肉しか売っていないということで不満を覚えることありましたし、あるいは家の周りの——というか街にあるすべての——レストランが私の求める質に達していないということに大きなフラストレーション覚えていた時期はありました。
が、果たしてそしてフラストレーションを覚えているのが、そしてフラストレーション覚えていながら何もしないということがよいことかしら、ということは一度振り返ったほうがよいでしょう。
何かがないということでフラストレーションを覚えるのであれば、「ないんだったら作ればいいのよ」と言うほかありません。あるいはない状態をむしろ良い方向に考える——『アイカツ!』の氷上スミレが姉とともに提唱する「いいこと占い」です——ことも可能ですし、そうして問題をなかったことにするのは十分にありうることでしょう。
何にしても言語に落として、広い意味で表現・実践に移っていくことが必要になるでしょう。
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よく言われることではありますが、怒りとか不満とかいうものは、ただ持っているだけでは割と意味が薄い。それどころか破壊的な効果を持ちうるものです。
怒りとか不満に基づいた行動というものは、必ず生産的であるとは言えずとも、広い意味で価値を持ち得るものです。しかし怒りや不満を不分明なままに、自分でもよくわからないかたちに留めておいては、おそらくは負の効用しかもたらさないものです。
解決策に至らずに、怒りや不満をただ表明するということでも別によいのですし、それはそれで大切です。怒りは不満というものは、言葉にして発散することで一切解消されるという面もあるからです。もちろん表明する場は選んだほうがいいかもしれませんが、少なくともまったくダメなやりかたというわけではないでしょう。
あるいは私がやったように、個人的なレヴェルで怒りの根を断ってしまってもよいでしょう。私は怒りの根ないしは原因を抹殺したわけではないかもしれませんが、少なくとも望むべき解説がないという状況のほうは抹殺したわけです。
あるいは、特に大きなものに対する怒りや不満であれば、表明することによって周りに怒りを伝播させて環境を変える可能性もあるでしょう。戦略的に怒るということです。これは政治・社会史においては当然生じてきた、そしてミクロなレヴェルでは生じつづけている現象ですし、妨げる理由もありません。
私は概して「アンガーマネジメント」などという横文字を見るとどうしても抵抗を覚えるクチですし、怒るものはしょうがないだろうし、怒りがあるということは(個人的なレヴェルではともかく、こと社会にあっては)絶対に無視してならない、という立場です。怒りや不満を表現することがカテゴリカルに良くないとも思いません。
何にせよ、表現しないよりは、(でたらめであっても)言語化したほうがまだ健全だな、と思うのです。もちろんその表現は、環境を作り変え、怒りの原因を消滅させるような方向へと戦略的に編まれているほうが望ましいとは言えますが。
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迂回しながら色々と申し上げてきましたが、皆さんは何かがない、あるいは何か嫌なことがあるというときに、怒りや不満というものを、大して言語化せずに滞留させたままにしてはいないでしょうか。
自分でその怒りの根を断ちにいくことが必要であるかもしれませんし、あるいはそうした怒りが生まれないような環境を自分で作るということが必要になるかもしれませんし、あるいは自分が身動きを取れない状態にあるのであれば、何らかの戦略的な表現を行って、環境の方を変革して、ゆくゆくは怒りの原因を断つということが必要になるのかもしれません。
何にせよ、何らかの外的な行動をしなくてはそのままでしょう。
そのままでありたいのであれば別ですし、そのまま怒りを燻ぶらせることが誠実であるように感じられる人もいるかもしれず、それが間違いであるとは決して言い切れませんが、少なくとも怒りを強いてくるような状況から脱したいのであれば、何らかのごく明晰な表現や行動が必要になるということは、一度思い返しても良いのかもしれません。