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映画『トラペジウム』の味がわからなかったあなたへ

トラペジウムというアニメ映画を見てきた。実は映画館が好きではないので映画館に行ったのは約2年ぶり。なんでわざわざトラペジウムのために足を運んだかというと、X(旧Twitter)で悪評がバズっていたからだ。

別にクソアニメやB級映画ファンというわけではない。逆張り気質であることは否定しないがそれは動機の1割くらい。ただ悪評で揶揄されていた主人公の在り方はおそらくちゃんと描かれていれば私にとって好みの「汚さ」だと思ったし、脚本の柿原優子さんには過去作からの信頼があったのでちゃんと描かれている可能性が高いと思ったから見てみようと思った。

実際に見てみてどうだったのかというと、期待以上に面白かった。アイドルに妄執する女の狂気を味わえればいいと思って見に行ったが、思ったよりもずっとしっかり歯ごたえのある作品だった。ただ、アイドルという概念に想いを馳せることのない人には噛み方がわからないかもしれないし、女性同士の関係性(有り体に言えば百合)に特別な関心がないと無味かもしれないとも思った。

そこで、私はこの作品をこう咀嚼してこの味がいいと思った、というのを言語化することで誰か一人のそれでもこの作品に対する客観的な印象をポジティブな方向に動かせればと思いnoteを書くことにした。そのためこれは未見の人におすすめするための文章ではなくすでに見た人向けの文章なので、これから見るつもりの人は注意してほしい。

アイドルは「なる」ものではなく「される」もの

この作品には一貫したアイドル観がある。それはアイドルは努力による自己実現ではなく他力による祭り上げであるというものだ。この観念がこの料理を食べるためのナイフとフォークになる。

何度もオーディションに落ち正攻法ではアイドルになれないと思った主人公のゆうは、草の根から話題性によってアイドルになるべく東西南北の美少女を集めることから始まるいくつもの計画を立てていた。

美少女を集めるところまではよかったが、そこから先はボランティアで4人が別々になってしまったり、学祭で一緒にライブを見られなかったり、4人揃って意図したようにTVに取り上げてもらうことができなかったりと、ことごとくゆうの計画は水泡に帰している。そうしてTVを通じて視聴者に見つけてもらうという計画が頓挫したかに思えたそのとき、新人ADの古賀が4人を見出すという流れで活路が開ける。

ゆうがそれに至る状況を作ったとはいえ、最終的には古賀というゆうの想定にない他人に見出された結果、4人はアイドルになった。

さらに4人がアイドルになったあとの人気の差は歴然で、ゆうがアイドルになるべきと身勝手に見出してアイドルになった3人にくらべて、自薦をもってアイドルになろうとしているゆうの人気は大きく劣る。さらには一人だけ生歌にこだわり自力で「アイドル」たろうとするゆうの人気が下降していく。

とにかくこの作品は「アイドルとは自分で頑張ってなれるものではなく誰かに見出されて初めてなれるもの」であるということを繰り返し強調しているように見える。

そしてそれは同時に、アイドルは周りの人間が思い描く偶像の押し付けであるという側面も描出しており、その乖離に精神を病むくるみをもって象徴されている。この作品においては、このような自分の思い描く自分とは異なる、他人の思い描く自分という偶像こそがアイドルなのだと言えるのだ。

東ゆうはアイドルだった

くるみが限界を迎えたのをきっかけに他の二人もリタイアするが、そのときゆうは「アイドルはみんなを笑顔にできる最高の仕事」というようなことを熱弁し止めようとする。それに対し美嘉が「近くにいる人も笑顔にできないのに何がアイドルか、『今のゆう』はおかしい」という主旨の非難をゆうにぶつける。この非難が料理を乗せる皿である。

その後ゆうはかつての同級生でもあった美嘉に対して昔の自分がどんな人間だったか問う。そこで美嘉にとってゆうがヒーローだったことが明かされる。いわく、いじめられっ子だった美嘉にゆうだけが話しかけてくれたというのだが、当時のゆうの発言は助けるつもりというよりは単に必要だったからというニュアンスに聞こえる。

もちろん必要であればクラスの空気に逆らっていじめられっ子にも話しかけられる芯の強さに救われたという意味で、ゆうは確かに美嘉を助け憧れになったのだろう。しかしゆうは別に美嘉にとってのヒーローになりたいと思ったわけではない。それにも関わらず美嘉はゆうをヒーローとみなした。ゆうは美嘉を笑顔にし、自分と他人の間で「東ゆう像」の乖離が生まれた。

そう、東ゆうは亀井美嘉のアイドルだったのだ。

「主人公がいかにしてアイドルになるか」という作品の主題が二人の少女の関係性に帰結されたこの瞬間。

東ゆうがずっと探していた幸せの青い鳥は「近くにいた」亀井美嘉だっという事実への興奮。

キャラクター同士の関係性というものに興味がない人には伝わらないだろうから、そういう視点でみるとものすごくよくできた作品らしいということだけわかってほしいのだが、この部分が本当に巧くて旨い。

単に一人の少女が別の少女を救ったという事実だけでも普通に旨いがこれ自体は比較的安直に描き出せるし、実際よく見かける。しかしその事実が物語の主題に対するアンサー、ミステリのトリックの開示に相当するような核心として供出されることで旨味の濃さが何倍にもなる。その構造が本当に巧い。

そういう意味で、この作品は人間の関係性に旨味を感じられる味蕾と、アイドルという概念に対する思想的素養がある者にとっては本当に素晴らしい作品だったのだ。

「友達」という偶像

さて、物語の主題としては「実はすでに東ゆうはアイドルだったのです」でまとまったとも言えるが、ゆうのアイドルへの想いは別にそういう観念で満足できるようなものではない。エピローグ扱いで詳しくは描写されないものの、改めてオーディションを受けちゃんとアイドルになっている。

わざわざオーディションという経緯を台詞にしている辺り、やはり誰かに見出されることの必要性という意味で一貫しているといえるだろう。

そのエピローグの手前、物語の実質的なクライマックスは簡単に言うと4人が友情を新たにするシーンであるわけだが、実はこれもまたゆうがアイドルになる上で必要な儀式だったのではないかと見ている。

ゆうはかつてそのつもりなく、ただ自己中であったがゆえに美嘉を救っていたわけだが、実は蘭子とくるみに対しても物語の中で同じことをしている。ゆうはアイドルとして利用するために近づいたにすぎないが、蘭子とくるみにとってゆうは、閉ざされていた世界を開いてくれた初めての友達だ。

ゆうの認識と蘭子、くるみの認識は食い違っており、つまり二人にとってゆうは「友達」という偶像だったと言える。

だとすれば、あの高台で友情を確かめ合うシーンは、ゆうが美嘉も含め3人の抱いていた「友達」という偶像を受け入れることでアイドルになったことの象徴だったのではないだろうか。

「主人公がいかにしてアイドルになるか」というのがこの作品の主題であるならこのシーンもまたアンサーであり、ゆうは美嘉にとっての偶像になった瞬間からアイドルだったし、蘭子とくるみにとっての初めての友達という偶像になってその3人の偶像としての自分を受け入れることでアイドルに「された」のだということになる。

つまりこの作品は、「とある自己中心的な女の子が3人の女の子と出会い絆を結んだことで変わって夢を叶えました」という、ガールミーツガールズとしてとてもよくできた作品なのである。

おわりに

強いていうと、ゆうがなぜアイドルに固執するのかという原点の解像度がもう少し高ければ、より魅力的だったし多くの人の共感を呼ぶ物語になっていたのではないかとは思う。それでも私はこの作品がすごく好きだ。

冒頭で悪評が流れてきたという話をしたものの、正直に言うと感想や評価を積極的に見たりはしていないので実際にどう受け止めた人が多数派なのかはわかっていない。このnoteで書いたことも見た人の大半がわかっているような当たり前のことかもしれない。それでも悪評を見て興味を失ってしまった人が少しでもいたとしたら悲しいことだし、好意的に捉えた人間がいるという表明を一つ増やすことは、ほんの少しだとしてもこの作品に対する印象の良化につながると思い書いてみた。この作品が届くべき人のもとに届くことを祈っている。

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