「ゲイ男性は30歳までしか生きられない」年齢と性差別の交差点で。映画『叔・叔』が捉えた周縁化された彼ら【前編】
恵まれたゲイ
(私=筆者)
私はいつも自分がゲイとして恵まれた存在だと思っている。
性的指向が原因で差別されたり傷ついたりしてきたが、自分のことを支えてくれる友達や、カミングアウトした後でそれを受け入れられないが、私を愛してくれる両親がいる。
そして21世紀初頭に生まれたおかげで、私は非常に早い段階でインターネットに接触した。繁栄していくネットクィアコミュニティを通して、他の仲間に繋がることもできている。
そして昔よりもジェンダー平等が進む時代に生きている私たちを、差別して排除しようとする人はまだいるけれども、性的マイノリティを受け入れてサポートするアライも増えてきた。
私の今までの人生は、21世紀初頭にある程度の都市部で生まれたゲイたちの代表例になるかもしれない。
ジェンダー平等の目標に至るまでにはまだ時間が必要だが、数十年前の性的少数者たちに比べると、今の若い世代は十分に恵まれていると言えるだろう。
「ゲイ男性は30歳までしか生きられない」
ネットのゲイコミュニティに長年参加している自分の周りでは「ゲイ男性は30歳までしか生きられないよ」という冗談話が飛び交う。
30歳を超えると、仕事のプレッシャーや年齢が原因で体調を崩したり、肌に不調を覚える人が増えるということをよく耳にする。
そんな中、ゲイコミュニティには外見に狂熱的なこだわりを持つ人は少なくない。マッチングアプリにも「30歳以上の方はごめんなさい」とプロフィールの紹介文に書くゲイ男性はたくさんいる。
そういった意味で、ゲイコミュニティの中にはエイジズム(または年齢差別)の傾向がかなり強いと考えられるだろう。エイジズムとは、高齢者を身体的または社会的に弱い者と考え、差別対象とする思想を意味している(Popenoe、1991)。
プロフィールの紹介文以外にも、中国のネットゲイコミュニティでは「恋老癖」(老けた人を好むという意味で、日本語でいう「老け専」に近い用語)という、誰かをディスる時に汚辱的な意味合いを含むスラングが頻繁に用いられている。
高齢のゲイは、現代のゲイカルチャーに含まれていないという現状がある。
60-70年前の保守的な時代に生まれ、年齢差別と性的指向差別の交差点に置かれた高齢のゲイ男性たちの生活はいったいどういったものなのだろう。
「叔・叔」という映画作品を通して、私たちは現代の主流ゲイカルチャーから排除されてきた年配のゲイ男性が、心の奥底に隠してきた痛みと悲しみを垣間見ることができるかもしれない。
映画「叔・叔」について
「叔・叔」は、タクシー運転手・柏(パク)と定年退職したシングルファーザー・海(ホイ)が晩年に出会い、恋に落ちて愛し合う物語である。
柏と海にはそれぞれ家族があり、「父親」としての役割を迫られている。本当の自分に戻るか、それとも家庭に戻って父の役割を果たすのかーー。柏と海は伝統的な社会・道徳規範の下で選択を迫られる。
柏と海は二人とも香港社会で生活する年配のゲイ男性であるが、家庭背景が異なっている。
柏は、伝統的な社会的価値観でいうところの“幸せな家庭”を持っている。子供たちはすでに結婚しており、二人目の孫がもうすぐ生まれる。父として、彼は人生の半分を家庭に捧げてきた。
タクシー運転手として、1日10時間以上働く生活がほぼ毎日続いており、定年を過ぎても仕事を続けている。一家を養うための手段だった仕事が、今では家族から「逃げられる」唯一の機会になっている。
道路脇に車を停め、公園の隣にある公衆トイレに足を踏み入れ、出会いの機会を探す。長年にわたって、これが柏の欲求を満たす唯一の方法なのだ。
一方、妻と離婚し息子を一人で育ててきた海は、息子一家と暮らしている。柏のように一家の長としての「尊厳」が海にはない。この家の家長に近い存在は海の息子のようにも見える。
キリスト教徒という宗教的背景が原因で、海と息子一家との間には障壁がある。海は教会の集会には定期的に参加しているものの、頻度は息子ほどではない。キリスト教の同性愛を罪として反対する態度は、信者としての海を苦しめる。
しかし、定年退職をした独身男性として、海はある意味で柏より自由だ。息子には言っていないが、海は年配のゲイ男性コミュニティの活動に積極的に参加している。柏に比べ、他の仲間と関わる機会を持つ海は、ゲイに対する社会の見方を自らの努力で変えようとする意欲を持っている。
柏と海が長年維持してきた自分の空間と家庭の空間の微妙なバランスは、2人の偶然の出会いによって徐々に壊されていく。
ハッテン場でしか語れない愛
二人が公園で初めて会った時の対話を通しても、二人の違いは一目でわかる。柏の「一緒に公衆トイレに行ってヤらないか」の誘いに対して、海は「まず友達になりたい」と返した。それを聞いた柏は、立ち上がり静かに立ち去った。
人生の大半を家族と仕事に捧げた柏は、最も直接的かつ簡単な方法で欲望を満たしてきた。一方、妻と離婚してから何年も独身で定年退職を迎えた海は、長期的で安定した関係を望んでいる。初対面の二人が、お互いを理解し合えなかったのは不思議ではない。
デートを重ねる柏と海は、ある日飲食店を訪れる。異性愛者の父親という役を何十年も演じてきた柏は、自分が男性とデートする姿を人に見られることに不快を感じ、じっとすることができない。
それに気づいた海は、柏を別の場所まで連れていった。それは、ゲイ男性だけが集まるハッテン場(銭湯のような施設でゲイ男性が出会いを求める場所)である。この暗いバスルームでは、男たちが抱きしめ合いながら話し合うことが許されている。
狭くて暗く、ぼろぼろで老朽化した空間は、彼らにとって安全で快適なスペースだ。ここでは、彼らは主流社会に存在する価値観の縛りから脱出し、本当の自分のままで愛し合うことができる。
裸になった柏と海は座布団の上に横になって、お互いをしっかりと抱きしめ、相手の体温と脈拍を自分の肌で感じる。セックスの後、二人はお互いに寄りかかりながら、昔の話をした。
生き延びるために一生懸命仕事を探して働いた経験は、柏と海のどちらにも共通する。違う人生を歩んできたが、似ている部分も少なくない。この気づきは、二人の距離をさらに近づけた。
このハッテン場で、柏と海はセックスの後で会ったことのない他の「仲間」と一緒に食事を共にする。冗談を言って笑ったり、お互いをからかったり気遣ったりするゲイたちは、ここではまるで家族のようだ。
隣の客から「お二人は十年以上付き合っているでしょう」と言われ、柏と海は互いをみて微笑み、静かに食事を続ける。。深く愛し合っているにもかかわらず、日常生活に戻れば彼らはまた自分の欲望を抑え、マジョリティ社会から押し付けられた父親の役割を果たさなければならない。
海の息子一家が家を空けていたある週末、海は柏を自宅に誘った。二人は海の家で料理をして、夕食を共にした。食事の後もソファに横になり、抱きしめ合いながらテレビを見た。
自分の空間と家庭の空間の境界線は、この瞬間に消えた。彼らが望んでいる生活は、それだけだ。
他のヘテロセクシュアルカップルと同じように、太陽の下で自分として生き、愛し合う権利が欲しいだけだ。
柏の娘の結婚式は、二人の関係を一変させた。結婚式当日、柏を招待した海は、海がゲートに現れると、直ちに立ち上がって海を迎えに行った。海と初めて会う柏の妻・清に、柏は「昔の隣人」と海を紹介した。
結婚式の終わりにカメラマンが柏家の写真を撮った時、家族の真ん中に座っていた柏が清の手を握っているのを見て、海は目に涙を浮かべた。目の前のこの景色は、「どれだけ愛し合っていても、このように祝福されることはない」と海に言っているようだ。
彼らが自由にお互いへの愛を語れるのは、外の世界から隔離され薄暗く湿った小さなハッテン場でだけだ。
「信者になれば、死んだ後も会える」
「信者になれば死んだ後も会える」
海辺のベンチで往来する船を眺める柏に、海はそう呟く。柏は「俺は神とか信じない」と言い放つが、海はネックレスが入った箱を柏に渡し、無言のままその場から離れた。年を取った二人は、若者のように「君を死ぬまで愛している」と誓うようなことはしない。なぜもっと早く会うことができなかったのかという悔しさは、「死んだあとでまた会えれば」という希望で解消することしかできないのだ。
ある日、退職後の時間をどのように過ごすかを清と話し合っている間、柏は息子が机に残した大金を見つけた。息子に電話し老後の資金が足りていることを伝えるも、相手の言葉に遮られた。
「お父さんはもう、この家のために一生懸命働かなくてもいいんですよ。このお金を使って、お母さんとどこかへ旅行でもしましょう。しっかり休んで、退職後の時間でやりたいことをやってください。」
それを聞いた柏は一晩中眠れず、窓に寄りかかって外を眺めていた。彼の本当にやりたいことは、妻と旅行して家族と時間を過ごすことではない。
退職することは、家庭と父親の規範から逃れるための最後かつ唯一の機会を失うということを意味する。出勤することを言い訳に、海と手をつなぎタクシーを運転して街をドライブすることはもうできなくなった。
薄暗いハッテン場で、海を抱きしめてキスすることもできなくなった。人生の大半を捧げて支えてきたこの家は、最後に自分自身を閉じこめる檻になってしまった。
自治体のコミュニティ活動室では、若いゲイのソーシャルワーカーが年寄りのゲイたちに高齢者ゲイ向けの老人ホームの建設について話している。自分の意見を聞かれた海は、こういう老人ホームができても自分は入居しないと答えた。なぜなら、息子にそれを言い出すことができないからだ。海辺で再会した柏と海。「(中国から)香港に来たとき、俺には何もなかった。今は家族もいてお金もあって、これで十分だ。」柏は話しながら、十字架のネックレスクロスネックレスが入っている箱を取り出し、海にそれを返した。「俺はもう退職したから、お守りとかいらないんだ。」
「でも、一緒に教会に行ってみないか?一回だけでもいいから。」海は目を上げて柏の顔を見て尋ねた。
「俺の家族は誰も宗教を信じていない。」柏のその言葉は、海を黙らせた。
「死んだ後、どこで君に会えるのかわからないよ」と海が言う。
「そんなこと言わないで」
柏は十字架のネックレスが入っている赤い箱を海に手渡し、立ち上がってから何も言わずにその場を去った。海は頭を下げ、柏が向かう反対方向に顔を傾け、一生懸命に泣き出しそうな感情を抑えようとする。
しかし彼の顔にあふれていた悲しみは、一瞬のうちに存在しなかったように消えてしまった。海の上を往来する船が通り過ぎて、海の向こう側はいつも通りのざわめく人の波。
世界は相変わらず、いつものように動き続けている。誰も知らない二人の老人のため息は、誰にも気づかないまま波に飲み込まれて、静かに消えてしまった。
後編は、LGBTQ+当事者の筆者がこの映画をどう考えたか詳しく述べていく。
後編はこちらから。
執筆者:袁盧林コン/Lulinkun Yuan
編集者:田中真央/Mao Tanaka、三井滉大/ Kodai Mitsui