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あんべわりことを話したら心理的安全性が高まった話

「えっ! ほんとですか?」

思わず小児科からの電話に聞き返した。念のための検査でまさかの陽性。

小学校の入学式の日の夜だった。疲れたのだろう、早めに眠そうにしていた娘の額に何げなく手を当ててみたら、熱い。

知恵熱か? 入学式では緊張しただろうし、なにより保育園の自由な雰囲気から一遍、義務教育に入った感に親も一緒に疲れていた。

ここ数日ほとんど出かけていないはず。ただ、今のご時世油断はできない。念のためPCRが無難かな・・・と次の日の朝一で小児科の予約を取ったのだった。


一晩で熱は下がり小児科を受診するころには平熱に戻っていた。咳も鼻水もない。陰性を証明できれば来週から安心して学校に行けるかな、そんな感じで受けたものだから、まさかの陽性にビックリ!!!

と同時に、いろんな後悔と不安が出てきた。

「春休みの間、義母に預けっぱなしで、ちゃんと見てあげられなかったからかなぁ」

「保育園が終わってからのさみしいと泣いたりしていたのにメンタルケアができなかったからかなぁ」

「いろんな変化で免疫下がっていたのかなぁ」

「この地域で第一号になってしまった、なんていわれるか恐ろしい」

「入学式出席しちゃった・・・お友達ともたくさん接触しているし、感染が広まったらどうしよう」




そんなピンチの時に、学んだことは生きてくる。
自分がどうしたら幸せでいられるかを考える。

『心理的安全性』と『地域』

これは私の永遠のテーマ。
「田舎は」と一括りにするといけないが、とりわけ私の住む地域では「他人の目」が怖い。それゆえ、必要な情報でも隠すこともある。隠すというと語弊がある。あえて知らせない、ということだ。

例えば、救急車を呼べば村のものにバレるからと、緊急を要するほど具合が悪くても消防署まで送って行ってから緊急搬送することもあるらしい。家の前に救急車が来たらなにかと困るからだ。必要なことよりも周りの目を気にする。

「あんべわり」(都合が悪い)ことは嫌なのだ。


だから、そういう意味では、すべてが筒抜けの小さなコミュニティでは、心理的安全性は夢のまた夢だ。

「心理的安全性がある」とは、(中略)つまり、「チームのメンバー1人ひとりが安心して自分のままでいられ、意見を言いやすい、よい関係であること」そして、そこからは挑戦も生まれます。
松村亜里.心理的安全性の高め方.WAVE出版, 2022, p.19



今回の検査結果を聞いて、真っ先に考えるのは小さなコミュニティの中でどう噂が広まるのかという、ちっぽけなこと。その行動は、どう考えたって「愛」からではなく「恐れ」からくるものだ。


気付けたら行動できる。

「恐れ」を見つめて、正直に話す。

まずは、入学式で一緒にいた保育園が同じ13人のお母さんグループラインに連絡する。探り合いの前に、事実をちゃんと伝える。

「体調の変化に気づかず入学式に出るなんて・・・」
そんな言葉は、もちろん私のネガティブな妄想でしかなかった。

「だれがなってもおかしくない状況だから、責めないでくださいね」
「早く連絡をくれてありがとう」
「体調注意してみます」
そんな優しい言葉が並び、少し勇気を出して伝えて良かったなぁ、と思う。(どうかこのまま広まらないでほしい。)

そこには、卒園式で担任の先生にサプライズをするまでの「関係性」の花がちゃんと咲いていた。

秋田に来てから、私がずっとほしかったものかもしれない。
「ない」と思っていたけれど、確かめる行動をしなかっただけで、いつのまにかもうすでに「ある」。

同じ集落の子どもがいる家庭にも自ら連絡。
地域の特性上、きっとこれは伏せておく案件だった。少なくとも、感染した理由が他所になければならなかったように思えた。

でも、それって疑念以外のなにも生まない。

事実として、我が家はこの村で第一号だ。
別に罪を犯したわけでもなく、普通に生活していただけ。
そこに、理由はいらない。

それよりも、子どもが安心して日常生活に戻れる基盤をつくらないといけない。

「買い出し行くから必要なものあったら言ってね」
お隣さんからのLINEに涙が出た。

よそでは、休園で卒園式が延期とか、延期になったことで出席できない保護者がいたとか、子どもが責任を感じているとか、そんな愛のない話を聞く。そういう話には相槌を打たないことだ、そんなものとらえ方次第で事実かどうかわからない。


過去と他人は変えられない。

だけど、せめて自分の行動と思い描く未来だけは、心理的に安全な環境につながっていてほしい。


安心して自分のままでいること。ありのままを見せられること。

ほかの誰かが、ではなくてまずは自分が幸せでいること。



ちょこっとだけ、私と地域の関係性が進歩したと思う。ある意味、「あんべわりこと」(=弱み)を見せることができて、信頼してるんだよって伝えられたのは、今回大きな一歩だったんじゃないかな。

ただ静かに時が過ぎるのを待つこともできたけれど、わざわざ我が家が震源地ですってお知らせすることが安全かどうかは一概にいいとは言えないけれど、今の関係性なら伝えてもいいんじゃないかな、信頼していいんじゃないかな、って思えたのは関係性の成長

やればできるじゃないか、って思えたし、「恐れ」からではなく「愛」から自分で行動を起こせたし、伝えることの目的と意味を考えられたし、いろんな考え方があっていいんだよって自分にも地域の人にも思えたし、これはまさに、直前に読んだ本のおかげ!


まずは自分から、を実感したピンチな出来事。

まだまだ、心理的安全性の花を咲かせて、生産性やパフォーマンスを上げて、挑戦できるようなコミュニティには程遠いけれど、村社会も人の集まり。愛をもって誠実にいられたら、まずは自分の幸せに、それから家族の幸せに、地域の幸せに貢献できるんじゃないかな。

そんな機会に感謝!

引き続き、学びを活かして家族の健康観察につとめます~


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