羊の上でインターネットに救われる
羊たちにエサをあげると、みんな我先にと突進してくるのだけれど、その日は1頭だけ隅にいて食事に参加しない雌羊がいた。気になって観察をしていると、脚を曲げて腹ばいになったかと思うと、にゅっとお尻から小さな頭が出て来た。初めて見る分娩の瞬間だ!
家畜は夜中に出産することが多いので、分娩の瞬間を見る機会はなかなかないのだけれど、まさか羊の出産に立ち会うことになるとは。しかし、カメラを構えてしばらく待ってみても、頭から次がなかなか出て来ない。もしかしたら、子羊が引っかかって出て来れないのかと思いつつ、なんせ初めての体験だから、どのくらい待てばいいのかが分からない。
とりあえず、パリに仕事に行っている家人のファンファンに電話をかけて聞いてみると、「もう少し待ってみて、出て来なければ脚を引っ張って出せ」と言うだけで、仕事中で忙しいからと切られてしまう。仕方がないのでスマホで「羊 分娩時間」を検索してみる。普通は30分くらいで出てくるらしいけれど個体差があり、1時間経っても出て来ない場合は、介助をした方がいいとのこと。次に「羊 分娩介助」を検索してみると、子羊の脚を引っ張るとするりと出てくる動画が見れた。なんだ、簡単じゃない!
その間も雌羊は地面の干し草を前脚で掻いたり、立ったり座ったりを繰り返して力んでいる様子を見せるのだけれど、やっぱり出ているのは子羊の頭だけ。1時間待った挙句、こうなったらやるしかないと、いざ分娩介助を決行することにした。
子羊の頭を出したままで逃げる雌羊を何とか捕まえ、横倒しにする。羊を押さえてくれる人が誰もいないので、自ら雌羊の上に乗って体重をかけないようにしながらブロック。相変わらずの格闘技である。そして思いきって子羊の頭が出ている穴に手を入れ、脚を探してみるけれど、肝心の前脚に手が触れない。脚が見つからなかった場合の介助方法なんて聞いていないよ!
仕方がないので雌羊に乗ったままの体勢で、ポケットに入れていたスマホを取り出し、「羊 分娩 頭だけが出ている」を検索する。すると、図入りでちゃんと解説があるじゃない!
「難産の型と介助法」を見てみると、頭が出ている状態なのは「前肢が屈折して頭だけが産道内に侵入してきた状態の“頭部先行型”」だとか。思いきって手を産道の奥に入れてみると、中部は袋のような状態でゆくゆくと温かく、気持ちがいい。ぐるりと手を回してみると子宮内にいる子羊の体の形がよく分かる。図を参照すると前脚があるのは下の方だから、その辺りを探ってみると本当だ!脚が折り曲がっている。さらにその前に雌羊の固い骨があるのが分かり、引っ掛かっている原因まで解明。
そこで折り曲げている片方の膝の部分を引っ張り出すと、後は自動的に全身がするりと出て来た。もう死んでいるかもと思っていた子羊は、ちゃんと息をして小さく鳴き始めるじゃない! すぐに私は遠ざかると、一度逃げ出した母羊はちゃんと戻って来て子羊を舐めている。
いやはや、これはもう、インターネット様様である。
今までだってネットで調べ物をして、日常的に助かることは多いものの、こんなにもリアルタイムに、一刻を争う場面で役立つ機会はあまりない。しかも、母羊の上で検索して初めて知った介助方法によって、子羊を1頭救ったのだ!
この場を借りて、社団法人畜産技術協会様の情報の共有に、心よりお礼を申し上げます。詳細な記事のお陰で、初体験の介助補助を無事にやり遂げました!
ホッとしたのもつかの間、よく見ると、同じ母羊のお尻から2頭目の子羊の頭が出ている。でもコツは分かったから、もう怖いものは何もない。何頭でも引っ張り出してやろうと意気込んだものの、約30分後に2頭目はするりと自力で出産してくれて安堵。しかし、自然に出て来た子羊の元気な鳴き声に比べ、1頭目の元気のなさが心配になる。その時には1頭目は立ち上がってはいるものの、なかなか歩こうとしないのだ。そして、2頭目はすぐに立ち上がり、歩き出すのも早いこと。
とりあえず母羊と子羊を休ませるためにも、一旦家に戻って2時間後に羊小屋を訪れる。やはり不安は的中し、2頭目は母乳を飲み、他の子羊たちと一緒に歩き回っているのに、1頭目は小さくなってうずくまっている。もしかしたら他の羊に踏みつけられたのかもしれない感じで、目を閉じてしんどそうだ。これはもうダメだなと思いつつも、持ち上げてみると目を開けて動こうとする。それならば一緒に頑張ろうと、先日と同じように母羊と再度格闘して乳を飲ませようとすること数回。
そして、先日と同じように子羊はお乳を飲まなかった。
さっきまで分娩介助の成功で大喜びし、高揚していた気持ちは、一気に寒風が吹き抜けるような虚しさに変わる。ほぼ1日掛かりで格闘していたものは、一体何だったのだろう。もちろん、2頭目は元気に生まれたし、母羊だって無事でいるのだから、1頭目を引っ張り出すことに十分に意味はあった。何も無駄だったことはない。でも、と思う。
毎年、同じような光景を見ているから、今さら死を見るたびに泣くことはない。それでも、自分の無力さにうんざりする。人間は万能な神ではないし、この地球上で生きる一介の生物でしかないことを思い知らされるのだ。
そして結局のところ、これでいいのだとも思う。自然をコントロールして思いのままに操ることができるという幻想が、人間の驕りでしかないことを、度々言い聞かされた方がいいのだ。私たちはそのことをつい忘れがちで、自然に対してしばしば傲慢な態度を取ってしまうのだから。
世の中に確実な生はないし、本来ならば生きていることは奇跡に近い。
そして生のあるところに必ず死はある。
それは決して目を背けることのできない、ただの事実でしかないのだ。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?