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最終回 #5 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を軍歴を通して辿る旅を経て、本当の絆を取り戻した私の家族の記録〜

matahari@マレーシアです。
#4では、軍歴照会のため、母方の祖父の長兄でビルマで戦死した私の大伯父にあたる石松清輝の戸籍謄本を取り寄せたことを書きました。

また、大伯父の軍歴から知り得たこと感じたり読み取れたことについて書きました。

この最終回では、#1の中で(- 母娘の長きにわたる不和のきっかけとなった衝撃的な出来事について)でお約束した通り、私の母とその父(わたしの祖父)が、残念ながら母が若い頃に断絶してしまった理由について、母が話してくれた限りの内容を書いてみようと思います。

そして、わたしたち母娘の関係が修復されていく過程に何があったかについても、出来るだけ赤裸々に書こうと思います。親子間の問題に悩む人になんらか伝わるものがあればいいなと思います。必要な方に届くことを祈っています。


- 昭和30年〜40年頃。壮絶な貧困、働かず昼間から酒を飲む若き日の祖父、家計を支えるため奔走した祖母

私の母は、昭和24年生まれ。日本の敗戦から3年半後のことでした。下に歳の近い妹が二人います。

物心ついた頃から、祖父は全く働いている様子がなく、昼間から酒を飲み、時には家族に手を上げることもあったそうです。母がまだ小学生低学年の頃、一家には十分な食料を買うだけのお金も無く、電気まで止められてしまったことすらあったそうです。

母の脳裏に残っている記憶は、学校でお弁当を食べていたら変な味がしたけれど、とてもお腹が空いていたので全部無理して食べたら、しばらくして具合が悪くなり、学校の窓から身を乗り出して全部吐いてしまったのだそうです。おそらく祖母が準備したお弁当のご飯が腐っていました。

長女の母の下に妹が二人。祖母は必死に働いて家計を支えてくれたそうです。

母の話によると、まだ小学生の低学年だったある日を境に、祖母が居なくなり、居なかった期間は記憶が曖昧だけれど数ヶ月とかではなく1年とかもっと長かったと気がするけれど、この間祖母は出稼ぎに行っていて、大きな米俵を抱えて戻って来た!ことを覚えているそうです。

祖母がいなかった期間、祖父とどのように暮らしたのかは全く記憶がないそうですが、一つだけよく覚えているエピソードは、やはり朝から一升瓶のお酒をぐいぐい飲んでいた祖父が、突然男泣きを始めたそうです。その姿を見ながら幼かった母はなす術もなく、子供心に複雑な気持ちだったそうです。まだ幼かったものの長女だった母は、そんな祖父に嫌気が差していて、モーターバイクで出かけて行く父の後ろ姿を見ながら「二度と帰って来なければいいのに。(死ねばいいのに)」と願い、その日遅く祖父が帰宅するバイクの音が近づいてくると心底がっかりした、と話していました。

「親父さんに全く良い思い出が一つもない。」と言い切った母に、かける言葉も見つからなかったのをよく覚えています。

- 初孫の誕生で停滞していたなにかが動き出した!

2011年に筆者が30代半ばで出産しました。

ようやくわたしの母に初孫が出来ました。母が62歳、わたしが34歳の時です。

筆者が10代の頃から母とは微妙な関係の状態が続いていたので、この妊娠出産をきっかけに歩み寄りたい想いが強くなり、父と母をマレーシアに招いて大きなお腹で観光をしました。

マレーシアのクアラルンプールにある、南半球最大と言われるバードパークや、クアラルンプールのアイコンである、ペトロナスツインタワーの夜景が楽しめるスカイバーにお洒落して訪れたり。

とても楽しかったのを覚えています。

その日、母は、わたしのお気に入りの水色のワンピースを着て出かけました。普段着飾ることのない母は、おめかしをしてその夜はとっても綺麗でした。父も母もたくさん笑顔が見せてくれました。それまでのわだかまりが、次第に溶けて行くのを感じた印象的な日でした。

わたしの出産予定日が近付いた2011年の5月には、端午の節句のために立派な鯉のぼりを日本から持って遠路はるばる来てくれました。

ただ、その当時も完全に親子間のわだかまりが拭い切れた訳では無く、まだまだ表面的な関係だったと思います。

その当時のわたしは、精神世界に関心を持ち始めた頃で、偶然手にしたある本の中にこんなことが書かれていました。

「家族間の負の連鎖は永遠と続く。断ち切るための努力が必要。」

母は祖父と20歳の頃に親子の縁を切っていて、しかもその数十年後には、自らの母親と妹たち(わたしにとっては祖母と伯母)とも疎遠になっていたのです。

あげく自らも、自分の娘(筆者)から、同じく10代後半(高校生頃)から遠ざけられて、まともに口も聞くこともなく、極め付けは、娘が30歳を迎える頃にはなんの相談も無くアメリカ人と国際結婚をして、海外に渡ってしまって、仲が修復出来ぬままの日々が続いていました。

そんな状況を母親になったばかりのわたしが、自分自身に置き換えてみると、とてもとても悲しくなりました。

「もし親子間の負の連鎖が続くとしたら、私の手の中にいるこの可愛くてたまらない赤ちゃんも、いずれわたしの元を去ってしまうかもしれない。」

わたしは難産で(マレーシアの私立病院で産みましたが、18時間もかかる、今思い出すだけでも身の毛もよだつような・・・(苦笑)大変なお産だったのです)。

それで、ちょっと疲れていたのもあるでしょうけれど、そんなことを思って、脈々と続く家族間の負の連鎖を、私の世代でなんとかしなければ!と出産の日から真剣に考える様になりました。

- 「綿々と続く家族間の負の連鎖を断ち切りたい。息子には受け継ぎたくない。」 家族間のタブーに向き合うと覚悟し、山口県の実家とマレーシアを頻繁に行き来する。

両親に孫が生まれてからは、休みの度に可愛い孫を連れて帰省するようになりました。フリーランスに転向した2014年頃からは、実家に年に三度も帰っていて、地元の友達からは「東京大阪に住んでる子よりも頻繁に会ってるね。」とからかわれていました。

孫の可愛さもあって、両親も嫌な顔をせずわたしたちを歓迎してくれているようでしたが、ある時ふとした会話の途中に、母からこんなことを言われ悲しくなりました。

- 「お祖父さんの話はもう二度としたくないから聞かないで欲しい。」母から拒絶をされた時に芽生えた思いと、わたしを変えたある行動。

当初は非常に悲しく、そして腹立たしく感じたりもしました。

2017年頃から、ライフコーチングの勉強を通して心理学を学び、精神世界についてもより興味を持ち始めていた頃だったので、当時の師匠や心開ける友人たちに相談しておりました。

やがて、わたしはその方達のアドバイスに従い、母の気持ちを汲んで、祖父母の供養のことや、音信不通の伯母たちの消息については、拒絶する母を煩わせることなく、自分ごととして調べようと考えるようになりました。

その当時大変お世話になったある方のアドバイスで、母の古いアルバムから引っ張り出して来た祖父母の写真を拡大コピーして飾り、即席の神棚を作って日々お水を上げて話しかけるようになりました。(余談ですが、おじいちゃんもおばあちゃんも俳優さんのように美男美女だったんですよ。)

- 「自分が変わると相手も変わる」 母に起きた心境の変化。 桜の木の下で母の壮絶な幼少期の話を聞いた夜。

それから月日が流れ、#4に書きましたが、三世代で東京(靖国神社やスカイツリーなど)の観光に出掛けるほど仲良くなっていました。

その翌年の2017年春に、6歳を迎えた息子を、マレーシアの現地視察のお仕事で、ご縁があった福岡市城南区の理事長先生が運営される幼稚園に招かれ、少し長めの一時帰国をすることに。

私の両親は、私が息子の幼稚園通学のために、城南区に借りた小さなワンルームのアパートに、山口県からはるばる会いに来てくれました。めちゃくちゃ狭いワンルームのアパートで、両親とわたしと息子が雑魚寝をしたのは今もいい思い出です。

その城南区のアパートの隣には、立派な公園があり、ちょうど両親が到着した日に、桜が満開になっていました。

「お母さん、お父さんと息子が寝たら、一緒に缶ビール持ってお花見に行かない?」

母は喜んで、わたしと一緒に行ってくれました。わたしたちの他に誰もいない夜の静かな公園で、ベンチに座って桜を観ながら、肩を並べてコンビニで買ったビールを一緒に飲みました。

その時に、どういうわけか、今まで母が拒絶し、全く話したがらなかった母の幼少期の祖父母との思い出について話してくれたのです。

「それは大変だったね。話したくなかったのも無理はないわ。」

そう心から共感して告げると、娘に理解されたと思ったのか、母は心から安堵した表情を見せてくれたのでした。

その日を境に、時折母の方から祖父との思い出を話してくれるようになりました。

きっとそれ以外にも、到底言葉にできないような経験をたくさんしているのだろう、そう想像すると、胸が張り裂けそうな思いがしますが、少しずつ過去の負の経験から母が自由になれている、そう思うと娘は母の話を黙って頷くしかできませんでした。

わたしの母のような経験をした人々は、当時たくさんいた。
それよりも、もっともっと悲惨で酷い目に遭った人がいた。

そう感じ、私のマレーシア国内での活動に向ける言葉にできない情熱に繋がっていったのでした。

- 日本占領期のマラヤで生きた戦争体験者の証言を聞く過程で、少しずつ理解していった、心の深い傷の癒やし方を知らなかった世代の苦しみ。

昨今PTSDという言葉が定着し、酷い目にあったら外傷以外に心に傷が残ることは周知の事実となりました。精神科や心療内科なども昔ほどは敷居が高くなくなりました。

わたしも実は(カミングアウトになりますが)、20代の若い頃に大きなストレスを抱え、大好きだった仕事を退職し、精神科に通ったことがあります。

前述の久留米在住の私の父の兄(伯父)は、久留米の病院の精神科の看護部長を務めた人で、わたしが20代前半に心を病んでいた頃は、弟一家のことを心配し、久留米から4時間かけて伯母と共にかけつけてくれたこともありました。

話を戻すと、太平洋戦争の敗戦後の日本では、PTSDはおろか、お国のために戦って悲惨な戦場から命からがら戻って来た復員兵に対して「どうせ汚い手を使ってお前だけ生き残ったんんだろう」なんて、辛辣な言葉をかける人がいたり、仲間がみんな死んでしまって自分だけ生き残ったことに罪悪感を感じる人がとても多かったそうです。

わたしの父方の祖父は、#2に書いた通りですが、ビルマで玉砕した(全員死亡した)隊に入隊していて、一人だけ病気のため内地に残って生き残ったことが軍歴から読み取れたので、一人生き残ってしまったことに、戦後にどれほど苦しんだのかを想像すると心が痛みます。それを今はサバイバーズギルトと呼ぶそうです。生き残った自分へのネガティブな感情。想像するだけで涙が止まりまらなくなります。

戦争を生き延びた人々は、長く続いた日本の軍事教育の影響もあり、苦しみを言葉に出すことを許されず、決して消えることのない深い深い傷を、その場で生き延びるために、何らか他の方法で紛らわす必要がありました。

貧困、お酒、暴力、ギャンブル、、、などの枚挙に遑がない解決不可能な依存症が、昭和の時代は常に身近にあったそうです。

その症状があまりにもひどく「戦争神経症」という診断がついて療養所に入れられた人は、入ったら最後、外に出してもらえないまま生涯をそこでひっそり終えたそうです(NHKのドキュメンタリーで見ました)。

私がこれまで、このわたしたちの家族再生の物語について話しをした人々は、口を揃えて「うちの家もね、、、」と、打ち明け話をしてくれます。

どこの家にも程度の差こそあれ、このような話が溢れています。

悲惨を極めた戦争を生き延びた世代の子供たち、いわゆる団塊の世代を親に持つ昭和40〜50年代生まれの私たちの世代は(筆者は昭和52年生まれです)、そんな家族間の負の連鎖に苦しむ人が非常に多い印象です。

- 加害者であり犠牲者でもあった祖父の人生がわたしたちに残したもの。憎しみは自分のために手放すもの。

母にこの話をした時に、やはり母の心の中で何かが動いたのかもしれません。母の父(わたしが、ついに生前に会うことが叶わなkった祖父)は確かに夫として父親として最低な人だったかもしれない。

だけど、また犠牲者でもあったのではないか、と思うのです。

だから、わたしが両家の祖父たちの軍歴に強い関心を持っていた時に、母が申請のために自ら協力を申し出てくれた(#3に詳しく書きました)ことは、わたしたち家族間の負の連鎖を断ち切るために、本当に必要なことだったと思うのです。

かつてマレーシアで苦楽を共にした、当時(2018-2022年)の共同経営者だったソウルメイトである座親美帆さんが教えてくれた、仏教の言葉がいつも心に残っています。座親美帆さんは、わたしたちの両親と同じく福岡県の出身で(太宰府天満宮のある太宰府市)、少林寺拳法の有段者、仏教系の高校に通い九州大学の法学部を卒業された方です。私たちは残念ながら、さまざまな事情で、コロナ期間中に共同経営していた会社を閉じることになってしまいましたが、今でもこれからもずっとソウルメイト、一生わたしが絶大の信頼を寄せる関係です。

ずっと手放せないでいる憎しみや怒りの感情を、自分以外にぶつけようとすると、まるで燃えさかる炭を掴んで投げるかのように、まず自分の手が大火傷してしまう。

かつてのわたしの共同経営者である座美帆さんがかけてくれた言葉


自分が受けた傷には、必ず加害者の存在があるかもしれないけれど、その人もまた被害者であり犠牲者だったのでは、そう考えると、赦し(ゆるし)手放せる心境になれるのかもしれません。

そう、自分のためにその負の感情を手放し前へ進んでいくことが大切なんですよね。

美帆さん、わたしたち親子の長年にわたる不和の根本的な原因に、気付かせてくれて心からありがとう!!!

- 【最後に】祖父たちの軍歴を辿る旅を終えて。自ら動き出せば、奇跡の連続の人生の旅はずっとずっと続いて行くのです。

いやぁ〜〜〜、ものすごく長いこのわたしたちの家族の物語に最後まで付き合ってくださったあなた、どうもありがとうございます!!!

あなたに届いたのには、きっと意味があるんだと思います。

昼間からお酒を煽り、時には大暴れして、最愛の家族から心底嫌われてしまった当時わたしと同年代だったはずの、命からがら満州から復員して来た若き日のお祖父さんの哀しい人生を、違う角度からご紹介してみました。

お祖父ちゃんのことを知りたい!!!

その説明のできない突き動かされるような衝動的な感情がきっかけとなり、両家の福岡県出身の祖父たち軍歴を調べることになりました。

極寒で。零下40度にもなる地のソ連国境(当時の満州黒河省)に、20歳そこそこで若くして出征し、帰還命令が出たらその後命をかけて日本海を渡り、地元福岡防衛のため日々頑張って、そんな日々の中、信じていた祖国の日本軍の劣勢の情報に翻弄され、悲惨極まりない敗戦の日を迎え、その敗戦後の日々を自ら志願して傭兵としてGHQに管理された陸軍跡地となった久留米で過ごした祖父。

前線で死を覚悟をしながらお国のために機関銃を握っていたであろう若き日の祖父の勇姿を想像する度に、目頭が熱くなり涙がこぼれてしまいます。

今の時代の日本国民のの子供達は、兵役もなく、平和を享受しているように見えます。ただ、わたしがこの地マレーシアで知り合った様々な国出身の人々は、当然のように祖国を守るための兵役(軍事訓練)を受けています。

敗戦後、アメリカの傘の下で、戦後80年もの間、日本は国民に兵役を強いることなくなんとか過ごして来たけれど、これからの時代も本当にそれで大丈夫なのだろうか。

2010年生まれのアメリカと日本国籍を持つ、愛してやまない可愛い13歳の息子を持つわたしは、胸騒ぎが止まらないのです。



おじいちゃん。

戦後、最愛の家族(妻や娘たちに)ずいぶん嫌われてしまっていたようだけど、、、、

孫の私は、少しは汚名を返上するお手伝いができたかなぁ?

あの日、満州から無事に死んでしまわずに帰還し、戦後も続く苦しい戦争をなんとか生き延びてくれて、わたしたち孫やひ孫に命を繋いでくれて本当にありがとう。

昼からお酒を飲まずにいられなかった心境を私は理解できるよ。

苦しかったよね。

生きてくれて本当にありがとう。

この14年間のマレーシア生活で出逢った人々とのご縁を紡いできた結果、なんと、、、晩年の祖父のことを知る方に繋いでもらえたという、もう一つの奇跡を体験しました。(2019年にわたしが通訳として派遣された福岡市の姉妹都市イポー市での記念祝賀会にご参加される福岡市からの皆様に同行中に起きた出来事でした。2回目の靖国神社参拝から1ヶ月半後に起きました。)

家族に断絶されてしまった後に、40代の祖父がどんな人生を送ったのか・・・。当時の祖父を知る現在80代後半の方に聞いたお話しは、また別の機会にお届けしたいと思います。(祖父はもし今生きていたら100歳です。60代でお酒の飲み過ぎが原因だったのかな、肝臓がんで亡くなったそうです)。

「 自ら動き出せば、その時に本当に必要な出会いを手繰り寄せ、奇跡が起き心から願う方向に人生が向かって行く」

この両家の祖父の軍歴を調べる旅を通して、わたしが学んだ教訓です。

筆者は現在46歳ですが、人生100年時代と言われているこの時代のちょうど折り返し地点に立った時に、心からご先祖様に感謝できる心境になれたのは、大きな収穫でした。

これは、一番に読んで欲しかったわたしの両親、伯父伯母のために書きました。そして、縁あって最後まで読んでくださったあなたにも、心からのありがとうを贈ります。もし良かったら、あなたの家族との物語も書いてください。そしてわたしに教えてください。

それでは、また!

江頭陽子(matahari@マレーシア)
マレーシアクアラルンプールにて
2024年5月31日(金)

更新履歴
加筆修正:2025年1月24年(金)

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Matahari @マレーシア
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