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最終回 #5 〜福岡県出身の亡き祖父たちが生きた戦時中から戦後の時代を軍歴を通して辿る旅を経て、本当の絆を取り戻した私の家族の記録〜

matahari@マレーシアこと江頭陽子です。
#4では、軍歴照会のため祖父の戸籍謄本を取り寄せて初めて知った若くしてビルマで戦死した祖父の長兄の軍歴から知り得たことについて書きました。

それから、予期せず靖国神社に三世代で参拝した2016年頃からの私の家族との関係やキャリアに起きた大きな変化について、「ミエナイチカラ」の存在を感じるエピソードをたくさん盛り込みました。

この最終回では、#1の中で(- 母娘の長きにわたる不和のきっかけとなった衝撃的な出来事について)でお約束した通り、私の母と祖父が残念ながら断絶してしまった理由について、母が話してくれた限りの内容を書いてみようと思います。そして、わたしたち母娘の関係が修復されていく過程に何があったかについても、出来るだけ赤裸々に書こうと思います。親子間の問題に悩む人になんらか伝わるものがあればいいなと思います。必要な方に届くことを祈っています。


- 昭和30年〜40年頃。壮絶な貧困、働かず昼間から酒を飲む若き日の祖父、家計を支えるため奔走した祖母

私の母は、昭和24年生まれ。日本の敗戦から3年半後のことでした。下に歳の近い妹が二人います。物心ついた頃から、祖父は全く働いている様子がなく、昼間から酒を飲み時には家族に手を上げることもあったそうです。母がまだ小学生低学年の頃、一家には十分な食料を買うだけのお金も無く、電気まで止められてしまったことすらあったそうです。母が印象に残っている記憶は、学校でお弁当を食べていたら変な味がしたけれどとてもお腹が空いていたので全部無理して食べたらしばらくして具合が悪くなり、学校の窓から身を乗り出して全部吐いてしまったのだそうです。おそらくご飯が腐っていたのだろうと。母の他に娘が二人。祖母は必死に働いて家計を支えてくれたそうです。

ある日を境に祖母が居なくなり、居なかった期間は記憶が曖昧だけれど数ヶ月とかではなく1年とかもっと長かったと気がするけれど、この間祖母は出稼ぎに行っていて(たぶん住み込みの旅館の仲居さんとかじゃないかと思うと)大きな米俵を抱えて戻って来た!ことを覚えているそうです。

祖母がいなかった時、祖父とどのように暮らしたのかは全く記憶がないそうですが、一つだけよく覚えているエピソードは、やはり朝から一升瓶のお酒をぐいぐい飲んでいた祖父が、突然男泣きを始めたそうです。その姿を見ながらなす術もなく子供心に複雑な気持ちがしたそうです。まだ幼かったものの長女だった母は、そんな祖父に嫌気が差していて、モーターバイクで出かけて行く父の後ろ姿を見ながら「二度と帰って来なければいいのに。」と思い、バイクの音が近づいてくるとがっかりした、と話していました。

「お父さんに全く良い思い出が一つもない。」と言い切った母に、かける言葉も見つからなかったのをよく覚えています。

- 初孫の誕生で停滞していたなにかが動き出した!

2011年に筆者が30代半ばで出産し、ようやくそんな母に初孫が出来ました。

筆者が10代の頃から母と冷戦状態が続いていたので、この妊娠出産をきっかけに歩み寄りたい思いが強くなり、父と母をマレーシアに招いて大きなお腹で観光をしました。バードパークやお洒落してツインタワーの夜景が楽しめるスカイバーに行ったり、とても楽しかったのを覚えています。

出産予定日がちょうど5月だったので、端午の節句のために立派な鯉のぼりを日本から持って遠路はるばる来てくれました。ただその当時も完全に親子間のわだかまりが拭い切れた訳では無く、まだまだ表面的な関係だったと思います。

その当時のわたしは精神世界に関心を持ち始めた頃で、ある本の中で「家族間の負の連鎖は永遠と続く。断ち切るための努力が必要。」と書かれてあるものを読んだのです。

母は祖父と20歳の頃に親子の縁を切っていて、しかもその後は祖母や妹たちとも疎遠になっていました。あげく自らも娘(筆者)に10代の頃から遠ざけられてまともに口も聞かずに、そのまま勝手に結婚して海外に行ってしまって、仲が修復出来ぬまま数十年も過ぎてしまっていました。

そんな状況を母親になったばかりのわたしが、自分自身に置き換えてみると、とてもとても悲しくなりました。

「もしかしたら私の手の中にいるこの可愛くてたまらない赤ちゃんも、いずれわたしの元を去ってしまうかもしれない。」

産後でちょっと疲れていたのもあるでしょうけれど(笑)そんなことを思ってそれはなんとかしなければと考えたのでした。

- 「綿々と続く家族間の負の連鎖を断ち切りたい。息子には受け継ぎたくない。」家族間のタブーに向き合うと覚悟し実家とマレーシアを頻繁に行き来する。

孫が生まれてからは、休みの度に帰省するようになりました。フリーランスに転向した2014年頃からは、実家に年に三度も帰っていて、地元の友達からは「東京大阪に住んでる子よりも頻繁に会ってるね。」とからかわれていました。

孫の可愛さもあって、両親も嫌な顔をせずわたしたちを歓迎してくれているようでしたが、ある時ふとした会話の途中に母からこんなことを言われます。

- 「お祖父さんの話はもう二度としたくないから聞かないで欲しい。」母から拒絶をされた時に芽生えた思いと、わたしを変えたある行動。

当初は腹立たしく感じたりもしましたが、ライフコーチングの勉強を通して心理学を学び、精神世界についてもより興味を持ち始めていた頃だったので、当時の師匠や心開ける友人たちに相談するように。やがて、わたしは母の気持ちを汲んで、祖父母の供養や音信不通の叔母たちの消息については、母を煩わせることなく自分で調べようと考えるようになりました。

ある人のアドバイスで、母の古いアルバムから引っ張り出して来た祖父母の写真を拡大コピーして飾り、即席の神棚を作って日々お水を上げて話しかけるようになりました。(余談ですが、おじいちゃんもおばあちゃんも俳優さんのように美男美女だったんですよ。)

- 「自分が変わると相手も変わる」母に起きた心境の変化。桜の木の下で母の壮絶な幼少期の話を聞いた夜。

それから月日が流れ、#4に書きましたが、三世代で東京観光に出掛けるほど仲良くなっていました。家族をとても大切にする夫の提案からでした。

その翌年の2017年春に、6歳を迎えた息子を日本で幼稚園に通わせるため、少し長めの一時帰国をすることに。山口県から会いに来てくれた両親。めちゃくちゃ狭い借りてるワンルームのアパートでみんなで雑魚寝をしたのは今もいい思い出です。

その幼稚園の近くにエアビで借りた福岡市城南区のアパートの隣には、立派な公園があり、ちょうど両親が到着した頃に桜が満開になっていました。

「お母さん、お父さんと子供が寝たら一緒に缶ビール持ってお花見に行かない?」

母は喜んで一緒に行ってくれました。他に誰もいない夜の静かな公園で、桜を観ながら肩を並べてビールを飲みました。

その時に、どういうわけか、今まで一切話したがらなかった幼少期のことを話してくれたのです。冒頭に書いた通りです。

「それは大変だったね。話したくなかったのも無理はないわ。」
そう告げると、娘に理解されたと思い、母は安堵したようでした。

その日を境に、時折母の方から思い出を話してくれるようになりました。きっとそれ以外にも、到底言葉にできないような経験をたくさんしていることだろうと思います。

- 戦争体験者の証言を聞く過程で少しずつ理解していった、心の深い傷の癒やし方を知らなかった世代の苦しみ。

昨今PTSDという言葉が定着し、酷い目にあったら外傷以外に心に傷が残ることは周知の事実なりました。精神科や心療内科なども昔ほどは敷居が高くなくなりました。わたしも実は若い頃に大きなストレスがあった時にかかったことがあります。

ただ敗戦後の日本では、PTSDはおろか、お国のために戦って悲惨な戦場から命からがら戻って来た復員兵に対して「どうせ汚い手を使って自分だけ生き残ったんんだろう」なんて、辛辣な言葉をかける人がいたり、仲間がみんな死んでしまって自分だけ生き残ったことに罪悪感を感じる人がとても多かったそうです。

長く続いた軍事教育の影響もあり、苦しみを言葉に出すことも許されず、決して消えることのない深い深い傷を何かの方法で紛らわす必要がありました。

お酒や暴力やギャンブルなどの依存症が昭和の時代は常に身近にあったそうです。症状があまりにもひどく「戦争神経症」という診断がついて療養所に入れられた人は、入ったら最後、外に出してもらえないまま生涯をそこでひっそり終えたそうです(NHKのドキュメンタリーで見ました)。

私がこれまで、このわたしたちの家族再生の物語について話しをした人々は、口を揃えて「うちの家もね、、、」と、打ち明け話をしてくれます。

どこの家にも程度の差こそあれ、このような話が溢れています。悲惨を極めた戦争を生き延びた世代の子供たち、いわゆる団塊の世代を親に持つ昭和40〜50年代生まれの私たちの世代は(筆者は昭和52年生まれです)、そんな家族間の負の連鎖に苦しむ人が多いのも頷けます。

- 加害者であり犠牲者でもあった祖父の人生がわたしたちに残したもの。憎しみは自分のために手放すもの。

母にこの話をした時に、やはり母の心の中で何かが動いたのかもしれません。祖父は確かに夫として父親として最低な人だったかもしれないけれど、また犠牲者でもあったのではないか、と。

だから、わたしが祖父たちの軍歴に強い関心を持っていた時に、母が自ら協力を申し出てくれた(#3に詳しく書きました)のは、わたしたち家族間の負の連鎖を断ち切るために本当に必要なことだったと思うのです。

かつて苦楽を共にした当時の共同経営者だった友人が教えてくれた仏教の言葉がいつも心に残っています。

ずっと手放せないでいる憎しみや怒りの感情を、自分以外にぶつけようとすると、まるで燃えさかる炭を掴んで投げるかのように、まず自分の手が大火傷してしまう。

仏教を学んだ友人の言葉

自分が受けた傷には、必ず加害者の存在があるのだけれど、その人もまた被害者であり犠牲者だったのでは、そう考えると、赦し(ゆるし)手放せる心境になれるのかもしれません。そう、自分のために手放すことが大切なんですね。

- 【最後に】祖父たちの軍歴を辿る旅を終えて。自ら動き出せば、奇跡の連続の人生の旅はずっとずっと続いて行くのです。

いやぁ〜〜〜、ものすごく長いこのわたしたちの家族の物語に最後まで付き合ってくださったあなた、どうもありがとうございます!!!

あなたに届いたのには、きっと意味があると思います。

昼間からお酒を煽り、時には大暴れして、最愛の家族から心底嫌われてしまった当時私と同年代だった40代のお祖父さんの哀しい人生を、違う角度から見てみたい。そう思ったのがきっかけとなり、軍歴を調べることになりました。

零下40度にもなる極寒の地のソ連国境(当時の満州)に出征し、命をかけて日本海を渡り福岡に戻り、前線で死を覚悟をしながらお国のために機関銃を握っていたであろう若き日の祖父の勇姿を想像する度に、目頭が熱くなります。

おじいちゃん、少しは汚名を返上するお手伝いができたかなぁ?
生き延びてくれて本当にありがとう。

この14年間のマレーシア生活で出逢った人々とのご縁を紡いできた結果、なんと、、、生前の家族と別れた後から晩年の祖父のことを知る方に繋いでもらえたという、もう一つの奇跡を体験しました。(2019年に通訳として派遣された福岡市の姉妹都市イポー市での記念祝賀会に同行中の出来事でした。2回目の靖国神社参拝から1ヶ月半後に起きました。)

妻と娘三人に去られた後に、祖父がどんな人生を送ったのか・・・。こちらは、また別の機会にお届けしたいと思います。

「 自ら動き出せば、その時に本当に必要な出会いを手繰り寄せ、奇跡が起きて心から願う方向に人生が向かって行く」

この旅を通してわたしが学んだ教訓です。

筆者は現在46歳ですが、人生100年時代と言われているこの時代のちょうど折り返し地点に立った時に、心からご先祖様に感謝できる心境になれたのは、大きなご褒美でした。

これは、一番に読んで欲しかったわたしの両親、伯父伯母のために書きました。そして、縁あって最後まで読んでくださったあなたにも、心からのありがとうを贈ります。

それでは、また!

江頭陽子(matahari@マレーシア)
マレーシアクアラルンプールにて
2024年5月31日(金)

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