【レビュー】近藤康太郎著『宇宙一チャラい仕事論』 好きが袋小路に合う理由
「あいちゃんは、いつも何かにハマってるよね」。
20代のころ、中学生のころからの親友Nちゃんに言われた。わたしには、何かに夢中になるたびに、Nちゃんに熱く語るという習性があった。凝り性の歴史を知る、生証人。
若いころに、夢中になったものはいろいろだ。ネイルが上手なお姉さんに心酔してお宅に入り浸ったり、ローソンに売っているレーズンパンを365日、朝昼晩と食べ続けたり(お願いしていないのに、店員さんがお取り置きしてくれてた)。
さんざんハマったあげく、パタっと冷めるのがお決まりのパターン。ネイルのお姉さんには、あれっきり会っていないし、レーズンパンも金輪際食べていない。そのあと、石窯パンのお店の胡桃パンを365日食べつづけた。
結婚し、母になってからも同じだ。子どもが小さかったときは、家でできる趣味にハマった。お菓子作り→ パン作り→ 手芸の順に。とことん突き詰めたくなり、洋菓子とパン作りの教室に通い、師範クラスまで受講した。パンが膨らまない原因を解決するために、化学の専門書さえ読み込んだ。
手芸の趣味でも妥協を許さなかった。リネンの布で、小さながま口の財布を作った。何だか物足りなくて、動物の刺繍を施した(このあと、刺繍にもはハマる)。このがま口財布を、子どもが首にかけられたら可愛い!と思い、パッチワークを施したネックストラップも作った。
これが、長男の幼稚園のママ友の間で人気になり、いくつもオーダーを受けて販売することになった。
2年ほど前にも、求められるがまま、焼き菓子や手芸品の販売をしていた。焼き菓子は、気に入ってくれた人が全部買っていくから、焼いても焼いても間に合わなかった。コロナ禍では、マスクやマスクケースをいくつ作っただろう。気がついたら、手芸もお菓子作りも嫌になっていた。長年かけて揃えたお菓子作りの道具も、ミシンも手放した。
「好きなことを仕事にしないほうが良いっていうけど、本当だったな」と、感じていた。遊びと仕事を分ける。それはそれ、これはこれにしとかないと、ダメだ。
今日、近藤康太郎先生の『宇宙一チャラい仕事論』(CCCメディアハウス)を読了した。
そして……わかってしまった。私の「好き」が、いつも袋小路に合う理由。
近藤先生は著書の中で、「仕事」「勉強」「遊び」の関係について語っている。「『仕事』と『勉強』は直接結びついている、『遊び』はその合間にやるもの」だそうだ。
「遊び」と「仕事」についての言及が面白かった。
近藤先生は、「遊び」を遊びでするな、真剣に集中してやれ、と言う。逆に、遊びでするのが「仕事」である。眉間に皺を寄せて仕事をせず、いつも笑えるネタを探せ、と。
そして近藤先生はこうも言っている。真剣にやっていると「遊び」は「勉強」に接近する。そして、何らかの事故が起こり、遊びが「仕事」になることがある、と。そうすると「遊び」がなくなってしまう。
お菓子やパン作り、手芸も、最初は「遊び」だった。もっと上手くなりたくて書籍を読み、何度も実験を重ねた。「遊び」がいつの間にか「勉強」と同化して、ひょんなことで人に求められて「仕事」になった。
何が、いけなかったのか。
「遊び」が「仕事」になったとき、笑えるネタを探さなかった。眉間に皺を寄せて真剣に、求められるものを作り続けた。いつのまにか「遊び」の星が消滅していたのに、気づかずそのままにしていた。だから、面白くなくなった。
「遊び」が、ナイスな毎日の鍵だった。仕事や勉強に結びつかない、ゆとりやなぐさみ。
私の頭上で今、「仕事」「勉強」「遊び」の3つの星が、恒星のように輝いている。「遊び」が「勉強」に接近し、軽く衝突して「仕事」になる。「遊び」はどんどん昇華されるから、どんどん注がないと。
明日は何して遊んでやろう。