皿が割れてホッとした話。
夕食を準備していた時のこと。
「あっ…」
手がすべり、皿が割れた。
「あぁ…」
割れた皿、片付けないと。
時間ロスしちゃったな。
以上が皿が割れた時の感想。
つまり、そこに悲しみはなかった。
割れたのは、使用頻度が低い皿。
たまに使っていたけど、なくても困らない。
割れた皿には悪いけど、むしろ割れてよかったのかもしれない。
今までありがとね。
そして「ホッとした」が正直なところかもしれない。
…
だって、もしこの皿が割れなかったら?
食器って、割れたりヒビ入ったりしない限り、何年でも使えてしまう。
いや、何年どころじゃないかも?
人によっては、愛着のある食器の場合
金継ぎするなんて話も聞く。
それはそれでBRILLIANT WORLD
そう、素晴らしい世界。
ただ私にとっては、どうもこの
「ずっと使える」タイプのものは、重い。
一生物のバッグとか、プリザーブドフラワーとか、要は無期限タイプのもの。
あ、重量じゃなくて精神的に重いってことね。
…
以前、洋服に「おわり」のサインが出たらいいのに…という記事を書いた。
同じように食器も、「おわり」のサインが出たらいいのに。
そうか、食器のひび割れは、おわりのサインなのかもしれない。
…
これを書いていて、改めて気がつくこと。
あまり、モノに執着がないのかもしれない。
こう書くと
「自分、モノに執着しないので(キリッ)」
のような、どこか米倉涼子的な雰囲気を感じるが、たぶん単純にモノへの関心が薄いだけ…な気がする。
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当たり前のようにいた皿。
私が手をすべらせたことにより、生活から消えた。
今回の皿は、きっと買い直すことはない。
つまり、欠員補充はないということ。
でも、使用頻度の高い皿が割れたその時は、
新たな皿を迎えるのかもしれない。
食器の話だけど、これって色んなことに当てはまる気がしますね。
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当たり前を見直すって、難しい。
むしろ、当たり前を壊すアクシデントがあるくらいでちょうどいいのかもしれない。
そんなことを考えた水曜日でした。