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アドバルーン
大きな風船が、夏風に揺れていた。
「お母さん、あの大きな風船はなぁに?」
「あれはね、アドバルーンっていうの。今日は大型スーパーが開店する日だから、宣伝の為に揚げてるの」
「ふ〜ん」
「そうか。雛が、アドバルーンを観るのは、初めてね」
私が、うん。と返事をしようとした時、
パンッ パパンッ パンッ!
「こわい」
「大丈夫よ。お店が開店しますよって知らせてる音なの」
小さな煙が幾つも空に出来ていた。
「今度の日曜日に、お父さんと3人で、あそこに行きましょうね」
「ホント!やったー」
母は、笑顔でキヌサヤの筋を取る作業に戻った。
私は飽きずに、アドバルーンを観ていた。
ワクワクしながら。
ゆっくり漂う大きな風船。
アドバルーン。
今度の日曜日、行くからね。
「あったあった、アドバルーン。俺も好きだった。いつの間にか、見かけなくなったな」
夫の陸が懐かしそうな顔を見せた。
「ああいう広告もいいのにね」
「いまはスピードとインパクトを求められてるからね」
「ゆったり空に浮かぶアドバルーンは、消えたのかな。何だか寂しいな」
初めてアドバルーンを観た日から、もう40年経つ。
早かったのか、遅かったのか。
「蚊に刺された。リキッドのコンセントを入れないと」
ひと夏、蚊を退治してくれるなんて便利になったものだ。
けれど……。
私には、失った物の方が大きく思えるのは、齢を取ったからなのだろうか。
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ゆっくりがいい
「雛ちゃんの線香花火、すごくもってるわね」
「本当だな。頑張れ頑張れ」
ポト……
「あ〜ぁ、落ちちゃった」
「でも雛ちゃんのが、1番長持ちしたわね。さぁ片付けましょう」
水の入ったバケツから、お父さんが、使った花火を拾う。
「雛ちゃんは寝る時間よ」
「スイカ食べる」
「さっき食べたでしょう。また明日食べましょうね。ほらほら、歯を磨いて」
「は〜い……」
「ふてくされないの」
「そうだぞ雛。お父さんと一緒に歯磨きするか」
「するする〜」
ゴロゴロ
「今夜も雷だわ。でも雨は降らないのよね」
「カミナリ嫌い。怖いんだもん」
「お母さんも、お父さんも居るから大丈夫だよ」
ピカッ
バリバリバリ
「うわぁ!」
「なぁに、あなたまで」
そう云って、お母さんは笑った。
「雛、早く歯磨きして布団に入らないと、おへそを取られるわよ」
「おへそなんて、取られてもいい」
アッハハハハ
「雛が変なこと云うから、お父さんが笑ってるでしょ。
ほら早く早く」
「あなた、お中元のことなんだけど」
「うん」
「今なら早割りで、送料が無料で商品も20%引きなの。
カタログがあるから決めて欲しいんだけど」
私はカタログを、陸に差し出す。
「毎年毎年、面倒くさいな。どれ貸してみ」
「あなたの会社の人には、ビールでいいかしら」
「いいけど、面白みに欠けるな」
「主婦としては、商品券が嬉しいんだけど」
「商品券て嬉しいよな」
「あ、お母さんを起こして来る。トイレに連れてかないと」
「僕はカタログを見てるよ」
私にアドバルーンのことを、教えてくれた母。
キヌサヤの筋を取ってた母は、1年前から失禁をするようになった。
紙パンツは絶対にイヤ!
母は頑なに紙パンツを拒む。
だから夜中に1度、寝ている母を起こしてトイレに連れて行く。
「お母さん、トイレに行く時間よ」
「う〜ん、寝てたのに」
「だったら紙パンツを履く?」
「いや。トイレに行くわ」
「お中元が届いたわよ」
その言葉を訊くと、私はソワソワした。
カルピスだったらいいな。
「残念。雛ちゃん、石鹸だった」
お中元と訊く度に、カルピスカルピスと願う。
「あ、風月堂のゴーフル」
「やった。それも好き」
カルピスなら、フルーツカルピスがいい。
オレンジカルピスがいいな。
「洗剤だわ」
「お父さんの為のビール」
悲喜交々のお中元とお歳暮。
考える側になってみると、結構大変なのが分かった。
去年と同じのは贈りたくない。
そして金額との、折り合い。
「行って来たから、寝る」
「うん。おやすみなさい」
母は再び布団に入る。
「雛、テレビ観て」
夫がそう云った。
画面には、アドバルーンが映ってる。
「まだ健在なんだ」
「嬉しくなるね」
あの日3人で開店したスーパーに行く途中、空にはたくさんの風船が、お店の人たちによって放たれていた。
色とりどりの風船たち。
そして、アドバルーンが見守っている。
子供たちは、はしゃいで飛び跳ねる。
ゆっくりでいい。
ゆっくりがいい。
急がなくとも、いつか皆んな、天に昇る日が来るのだから。
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