戦う必要が無いのに、なぜ戦うのか?
それは、楽しいから。
他に何かあるだろうか?
世界平和のためだとか、正義のためだとか、弱い者を守るとか、何とか言っても、
戦いたいと思う人は、結局のところ、楽しくて仕方ないからやってるだけなのだ。
スリルを味わえて、夢中になれて、「ああ、自分は生きてる!」と感じられる…
本当は、何もかもが大丈夫なんだと、深く理解した、その上で。
全ての戦いや争いは、究極には、単なる娯楽なのだ。
全てが至福の中での出来事なのだから。
この人生を舞台にした、ゲームなのだ。
悪人にどういう評価を下すか?
関わりたくなければ、無視すれば良いだけ。
他のハッピーなことばかり考えていれば、そういう人は自分の世界からいなくなる。
それで終了。
だけど、「戦いたい」という望みを持つ人にとっては、
悪人は、この上なくありがたい、重要な役割なのだ。
敵がいるからこそ、戦いができるのだから。
ゲームをプレイしたい人にとっては、敵のバラエティが多ければ多いほど、
そしてラスボスが強ければ強いほど、楽しくプレイできるもの。
それはこの物質世界も全く同じ。
本当は、心の底では、悪人に一番感謝しているのは、
彼らを打ち負かそうと、必死に戦っている人たちなのだ。
彼らは、自分は悪人側の存在としては、生まれたくなかったはずだ。
(今の地球で言えば、多くの地球人にとっての)正義の味方でありたかったはずだし、
「悪を倒すヒーロー」というストーリーを、今世で演じ切りたかったはずだ。
誰よりも悪役に感謝すべきは、そんな人たちなのだ。
事実、彼らのソースは、敵にこの上なく感謝しているし、本当は大好きで仕方がないのだ。
動物や高次の宇宙存在など、多くの地球人よりももっと広い視点で、常に過ごしてる存在たちは、
もっとこの感覚が当たり前なんじゃないかと思う。
野生の動物同士が縄張り争いをする時や、ライオンがウサギを狩る時、
彼らはお互いに合意の上で、至福の感情の中で、物質的には争いという行動をとる。
そして、実は全く苦しくないのだ。
動物が狩られる時や、喧嘩に負けて傷だらけの時、
それを見た人間は、自分の中のネガティブを投影して「可哀想、辛そう」などと感じる。
でも実は、彼らは全く辛くないらしい。
ウサギがライオンに狩られるその瞬間には、もう肉体を離れているから、少しも痛くないらしい。
宇宙存在が争いをするのかはわからないけど、
するとしたら、同じような感じなんだろうと思う。
全員が合意の上で、全員が最高の気分で、楽しむのだろう。
昨日、地球とコンタクトが強いと言われている、様々な宇宙存在についての情報を得ていた。
平和を愛する光の存在もたくさんいる一方で、多くの地球人から見て、最強で凶悪と評価すべき存在もいるらしい。
そんな最強のラスボス的な存在なんて、「戦いたい」という望みを持つ人にとって、どれほどありがたい存在だろうか??
一人の人間という小さな視点から、自分より大きくて強くて威圧的な存在をイメージしたら、脅威に感じるかもしれない。
でも、悟りレベルに大きな視点から見たら、コワモテの存在なんぞ、なんと可愛いことか(笑)
私は彼らのことを、まるでポケモンの「悪いリザードンのマフィア集団」みたいだと感じた(笑)
大きな視点から見たら、脅威でも悪でもなんでもなく、ただの「性質」そして「バラエティ」じゃないか。
可愛らしい存在もいる、美しく輝く光の存在もいる、
優しいメッセージで包み込んでくれる存在もいる、
攻撃的な存在もいる、
彼らの攻撃から、立場の弱い存在を守ろうとする存在もいる。
それぞれが、自分の輝きたい場所で、輝いてるだけなのだ。
それにしても、この世界のバラエティがこんなにも豊かだったなんて知らなかった。
自分の身近な小規模の人間関係だけを見ても、実にバラエティに富んだ、個性豊かな人間しかいない。
それが日本中、世界中を見れば、もっと途方もないほどの豊かな多様性がある。
それが宇宙まで広がると、地球だけの比じゃないぐらいの、膨大な多様性があったことに気付いた。
この多様性の中から、自分の人生に取り入れたい要素だけを、好きなだけ取り入れることができるのだ。
なんと幸福なことだろう。
それと同時に、伝説の存在、霊獣、宗教などで古くから言い伝えられている高次存在、
アニメやゲームのキャラクターのモチーフになったような存在、
それらはきっとすべて実在していたのだろう、と思った。