母であることの重圧に負けそうになる
保育園の連絡帳がいつも私を凍らせる
4歳の長男タイがおともだちの首を絞めた。
どんなにふざけてだとしても、許されない。お友達のご両親には本当に申し訳なく、ケガなどはないと聞いて、ひとまず深呼吸した。
帰宅後、ゆっくり話を聞くと、タイが「あそぼう!」と誘ったら「いやだ」と断られたことが理由だった。
そんなことでなぜ、、、、と、思ってしまった。
話をじっくり聞き、なぜダメか注意して、眠らせた。
母親の愛情が足りないから子どもは荒れるのか?
しかしながら、なんだか釈然としない。
今回の事件と、「かかとたくさん遊んでいない」は本当に関係するのだろうか?
〝日ごろの寂しさから、お友達にあたってしまった。母親の愛情不足。〟
すごくきれいに理屈が通る気がするし、私自身も身に覚えがないわけではない。
少し前だが、3泊の出張があって寂しい思いをさせてしまった。
前夜に風船バレーをしたいというタイと遊ぼうと思った矢先、次男のナツが洗濯機にオムツを放り込み爆発して、その対応に追われてバレーができなかった。
でも。その前の日も、その前の日も、、、風船バレーをし、プラレールをつくり、会社のファミリーデーに一緒に参加し、、、
これでも足りない?
母としてあるまじき、わたしの解釈
実は気になっていることがある。
数年前から、タイは先生に思いっきり怒られる事件が発生すると、必ず「かかと遊んでないから寂しかった」と言う。
そのたびに私は、タイが荒れてるのは私のせいだ。と自分を責めてきた。
でも最近、ん?と思ってしまう。
タイは、先生に本気で怒られたとき、この言い訳を使うのでは?
先生も、「そっかぁ、寂しかったんだね。。。」と共感してくれるのだろう。
きっかけを作ったのは私という自覚
2歳時クラスの時、タイが大荒れしたことがある。次男が生まれたばかりで、タイと思いっきり遊べない時期があった。
その時の担任との面談で「私との時間が取れていなくて寂しいんだと思います」と伝えた。
そのあとから、タイが何かやんちゃなことをすると担任の先生は「かかと遊びたいの?寂しいの?」と聞くことが多かった。
担任が変わったあとも、とてもよく見てくれる愛情あふれる先生で大好きなのだが、彼女が対応するときによく「今日お友達を叩いてしまって、お母様と遊べてなくて寂しいと言っていました」と報告を受けることがとても多かった。
いつもモヤモヤしながら自分を責めた。
子ども自身が暗示にかかっているのでは?
姉に相談すると、「前もそんなことあったよね?タイ自身が暗示にかかってるのかもよ。言い訳のつもりではなく、思い込んでるんじゃない?先生にも肯定してもらえるし。闇深い・・・」
私は別に、他責したいわけじゃない。自分に理由がないと思いたいわけじゃない。
こんな風に考えるのって、よくないのかもしれない。
でもさ、なんだかシックリこない。
母親ってどこまで求められるのだろう?
母親の責務ってこんなに重いのだろうか?
その辺の男性より仕事をしている自負がある。毎日夕飯を作り、帰ってきたら手を止めて両手を広げて抱きしめてお帰りと迎える。
絶えない兄弟げんかも、どちらの言い分もゆっくり聞いて、寄り添っているつもり。
朝も夜もべったりで、寝る前に絵本を読み、土日は一緒に遊ぶ。
送り迎えはできないけど、朝は行ってらっしゃいと言える環境に変えた。
それでも先生や世の中は何かあった時「母親」を求める気がする。
子供たちを愛しているだけじゃ、足りないのだろうか?
毎日大好きだよ、と伝えるだけじゃ、足りないのだろうか?
ちょっと前も同じこと書いてるや。。
やっぱり私の愛情が足りないのだろうか?
子育てが得意になりたい。
吐露するだけで、なんの学びもないnoteになってしまった。
ごめんなさい。キモチの備忘録です。
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