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1年でいちばん嫌いな日。【誕生日に思うこと】

誕生日3

ちょうど1週間後に、また1つ歳を重ねる。11年前の今日、息子の出産も経験した特別な日というのもあり誕生日について書こうと思う。

突然ですが、みなさんはじぶんの誕生日好きですか?どんな日ですか?



もしかしたら、

「みんなにお祝いしてもらえるハッピーな日!」って思っている人が多いかもしれませんし、

「子どもの頃はお祝いしてもらったけど、大人になってからは別に興味ないかな」なんて人もいるかもしれないですね。

どっちにしても、世の中の雰囲気的には、誕生日って、「ハッピー」「うれしい」こんな感じで、ポジティブに感じている傾向が大きいんじゃないかと思う。

でも、実はわたしは、

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誕生日が1年でいちばん嫌いな日だった。

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・・・なんていうと、たぶん「なに言ってんのこいつ!空気読めねえヤツ」みたいな感じでドン引かれそうで、誰にも言えなかったんだけど。

今日はそういうの無視してぶっちゃけて書いてみようと思う。

すごくセンシティブな内容だから、読む人によって感じ方は様々だとおもうので、あくまでわたしが個人的にかんじてきたこととして読んでもらえたらうれしい。


【じぶんの誕生日が1年でいちばん嫌いな日】

一見するとすごくネガティブに聞こえる感情だからこそ、わたしは40年近く、この気持ちに気づかないように、誰にも気づかれないように生きてきた。臭いものにフタをするかんじで。

でも、ここ数年、この気持ちが言語化できるほどはっきりとバーンとあらわれるようになった。


たとえばSNSとかで、誰かが、友だちからたくさんのお祝いメッセージもらってたり、名前入りのバースデーケーキを持ちながら、友だちに囲まれてお祝いしてもらっているのを見たり聞いたりすると、

胸の奥底のなにかがズキンズキンっとうずきだす。そして押し寄せる感情の波にのみこまれてしまう。じぶんではコントロールできない感情。

″わたしが努力してももらえなかったものを、あの人が簡単に手にしてるから?″

それは、「嫉妬」という感情でまとめるにはちょっと違う気もするし、「虚無感」「悲しみ」のほうが近いのかも。

って、人の幸せを素直に喜べない超イヤな人間!
そんな感情がわきあがるなんて…
なん度も否定しようとするも、否定すればするほど大きくふくらむようで。


…いや、でもホントにそういう感情に気づいたのはSNSがわりと大きく間接的な引き金になっているように思う。

facebook、LINE、インスタetc・・・今やSNSはコミュニケーションツールとしてはなくてはならない存在になっている。でも、時として見たくない、知りたくない情報までキャッチしてしまう。残酷な一面もある。

スマホ

SNSとリアルな人間関係のつながり


あるとき、SNSがリアルな人間関係の縮図になっていることに気がついた。


リア友、リア仲間とSNSでもつながっているとする。メンバーお互いの誕生日にメッセージを送り合ってるのがタイムラインでわかる。他のメンバーの時はたくさんのメッセージが届いていた。でもわたしの時は「あれ?来ない」・・というのが何度かあった。

いや、わかんないよ?もしかしたらメンバーの誰かがメッセージ忘れて便乗してみんなが気づいてないだけかも?

だけど、SNSだけでなく、「わたしがしらないところで楽しいイベントが行われていた」「共有されていない情報を後から知った」なども重なって正直さみしさを感じてしまった。

仕事上とか表面的な関係ならスルーできたかもしれない。でも、また顔をあわせるだろう、つながっていたい人・同じ仲間の1人だと思ってたからこそ、よけい疎外感を感じたのかもしれない。


「お返しするかで友達かを測る心がせまいやつ?」

「わたしにもちょーだい!クレクレ星人?」


…いやいや、そうじゃないよ。


プレゼントがほしかったわけじゃない、SNSでリア充を自慢したかったわけじゃない。



ただ、じぶんがそこに存在していないものとして扱われる=空気のような存在という現実をつきつけられたことが悲しかったんだと気づいた。

そういう現実や感情に気づいたきっかけの1つになったのがSNSだったけど、ふりかえってみると、わたしは「一方通行(対等でない)な人間関係」「どんなに人に囲まれてもアウェイ感」を感じることが多かったように思う。


心の距離は遠かった


生い立ち(過去)のせいだと無理やりこじつけたいわけではないが、毒親育ちということもあり幼い時から「自分の存在を否定される体験」をたくさん重ねてきた。

加えて学校では(いじめ体験で)「いつも余りもの」「どのグループにも属せない」が当たり前だった。


気づいたら、「誰にも選ばれないトラウマ」というのを発症していた。

だからこそ、「選ばれるため」「自分を変えるため」に人一倍の努力を重ねてきた。誰にも気づかれないように。

「お前はダメだ!がんばらなきゃ(追いかけないと)振りむいてもらえないんだ。」という毒親の教えを忠実に守るために。

それが空回りになるとも知らず、逆にじぶんを苦しめるとも知らずに。



だから親友だと信じていた人でも、「あなたにも誕生日メッセージ送るね!」と言って一度も約束が果されなくても、わたしから「会おう」と言わない限りで相手からのアクションがなくても・・・「さみしいという本音」が言えなかった。

心のどこかでは、対等でない関係だと気づきつつも、わたしががんばるのをやめたら相手を失ってしまうような怖れを抱きながら。

でも、あるとき否定されて育ってきたこと、毒親の犠牲になってばかりいた習慣が知らないうちに対人関係でも再現してしまうことに気づいた。がんばるのを辞めたら、「がんばらないとつなぎ止められない関係」だったと気づいた。


わたしは必要としていたと思ってたけど、わたしのことは必要として(見て)いなかった。そういう(信頼関係がない)関係しか築けなかった。

認めるのはすごく勇気がいった。

他人の目にはきっと、物理的にはSNSでもつながってるし、まわりに人がいるのになんでさみしいの?と思うかもしれない。

だけど、心の距離はきっと遠かった。わたしのそういう本音(存在)に誰も気づいてないからこそ、孤独を感じていたのだ。



親、兄弟、友だち、仲間・・・ふつうに40年ちかく生きてたら、しぜんと信信頼関係でつながりあえるだろう、そういうまわりとのギャップにも「じぶんの人生が空っぽ」のように感じた。

冒頭の虚無感はきっとここにつながる。

まとめ

誕生日1

誕生日はうまれてきてくれてありがとう!(母親から見てじっさい息子の誕生日は特別でうれしい!)という、1年の中でいちばん、じぶんの存在を歓迎されているのをかんじやすい日だと思う。


だからこそ、体験から疎外感や孤独感をかんじることが多かったら、そりゃ、じぶんの誕生日がキライだと感じてもムリないな、と今はおもう。

もし人類がじぶん1人だけとか、自分から孤独を選んでいたら決して感じなかったこと。

だって誰かと一緒にいたから感じるものだから。


それにしても、もしこれをネットの悩み相談室とかに投稿したら、「いい歳してさみしがり屋のかまってちゃんだ」とかって一撃されるのかな苦笑。

でもいいんだ。何と言われても、人間らしく生きたい。

さみしいものはさみしい。悲しいもんは悲しい!ネガティブに聞こえることも心でちゃんと感じれてきたじぶんを好きでいたいな。

今日は思ったことをバーっとかいた。なんのオチもない話です。


さいごまでおつきあいいただき読んでくれた人ありがとうございます!

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