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思い出の記 「予科練日記(2)」

三重 桑 山 忠 一

昭和18年7月から同年12月の三重空の予科練時代の日記帳が出てきました。厳しい生活の中での生活の一部でも理解してもらえるものならと、終戦後30余年を経た今日、投稿することにします。(続編)

〈7月31日(土曜日)〉
 夕食後から8月10日の夕食まで夏季休暇が発表された。当直分隊士の持物点検は何事もなく終り、吉田と松阪へ行った。トランクと風呂敷包を持っていたので重い。
 吉田は俺の2倍もあるトランクを提げていて、すごく重いらしい。
 吉田は東京に行くのである。それを思う俺はのんきで、あと一時間も電車に乗ればわが家に帰れるのである。松阪でぶらぶらしたので家に着いたのは九時前だった帰る車中、偶然にも駒倉中尉と会い、「今夜は行くぞ」ということで、その夜は父と3人でよくしゃべりくつろいだ。

〈8月1日(日曜日)〉
 目覚めて、眼の横に畳がみえてびっくりする。ハンモックのぶらぶら睡眠になれると、眼の前に畳があるのは不思議に思われる。

〈8月4日(水曜日)〉
 父母は私のためにご馳走してくれる。それなのに毎日寝てばかりいて、父母は「最後の休暇」と思っているらしい。同級生の庄四郎君は、二年目になるのに未だ一回の休暇もない。すまないような気がする。その兄の庄平さんも、今年中には征くとのことだった。

〈8月7日(土曜日)〉
 野和(旧期)と2人で伊勢神宮に詣でた。近くの小学校には毎朝行った。相撲の練習をやっているからである。八朔の村祭りには相撲大会があり、15年8月1日の大会では2等、16年も2等、17年は優勝とのことである。私は15年度は主将として出場していたのである。
 規律正しく元気なのに感心し、先輩の残した成績を恥しめないように頑張っているのだろう。

〈8月10日(火曜日)〉
 帰隊第1夜。夢のように過ぎた10日間が、走馬燈のように浮んでくる。隊門を四時までに入るため送ってくれた母や弟妹の思いやりに気がつかず、すまないことをしたと思う。

〈8月15日(日曜日)〉
 分隊の編成変えがあり、私は第塊42隊4班、5兵舎の第一区である。班員はもとより分隊員も全部変った。

〈8月17日(火曜日)〉
 温習止め後、喧嘩で相手にキズを負わせてしまった。41分隊の者が主であった。相手の後頭部に重傷を負わせたのである。当直将校や分隊士に訓戒や注意を受け、調べを受けた。当直将校が「やった者、前へ出ろ」といわれても、一人も出なかった。悪いと思ったら男らしく出ろと何回もいわれたか、結局誰も出なかった。

〈8月19日(木曜日)〉
 一日中陸戦で、弁当持参で野外である。香良州町から香良州橋付で遭遇戦、続いて追撃離脱戦、われわれは黒帽で追撃だった。炎天下できつかったが、一人の落伍者もなく「さすが上級生だ」と分隊長からほめられた。
 温習はなく洗濯、銃拳手入れ。空砲を使用したので特に入念な手入れ。さすがに疲れたのか、すぐねたらしく巡検も五分前も不覚。

〈8月20日(金曜日)〉
 午前は受信の考査、速度82字/分だった。少し慌てて評点を六つもとられ、5点だった。送信は消信3で97点。

〈8月23日(月曜日)〉
 通信の組別が発表されたが、私はかろうじてA組に入ったらしい。
午後の釣床点検より
 一、毛布覆は必らずしてねる事
 二、洗濯はよくやり蚊張に名前を記入すべき事
終って被服点検後の注意
 一、新分隊名を書いておく
 二、みだりに形を変えるべからず
 三、洗濯は概ねよく出来ている
 四、当破れたままの物が多い
続いて所持別点検の結果より
 一、直接関係のない物は捨つるべし
 二、私有物には名を記入の事
 三、トランには鍵をかけておく事
先任教員、分隊士からの注意事項も右(上記)の通りである。
 この頃は毎日食卓番だ。水を沢山飲みすぎたためか、通信の時間に腹痛をおぼえて困った。

〈8月24日(火曜日)〉
 午後は遊泳の予選。横泳ぎは五等で、バックは二等で予備員となった。三日後の土曜日午前中に、分隊対抗の遊泳競技が実施されるのである。予備(補欠)だが選抜された。

〈8月26日(木曜日)〉
 中西先生(小学校の恩師)からの手紙によれば、8月19日に見学に来たと書いてあった。当日われわれは野外演習のため出掛けたのである。会えないで残念であった。
 朝食時に凄い勢いで雨が降り、陸戦はないと思っていたら、そのうちに雨はやみ、むっとした暑い中での陸戦、小隊教練だった。白い事業服はすぐ土色になった。
 大君の醜の御楯と
      身をなさは
    水漬く屍も何かいとはむ
        伴林光平

〈8月28日(土曜日)〉
 午前、遊泳競技の予定だったが雨のため延期になった。午後は大掃除、甲板士官作業員で農園の草取りである。松林の中にあるので風もあり気持がいい。明日はひさしぶりの外出で、夜おそくまでズボンに霧吹きする音が聞える。

〈8月29日(日曜日)〉
 松阪へ外出。帰隊点検・軍歌終了後、当直将校の令で射撃場まで駆足競争が突然令ぜられた。夕飯のすぐあとなので途中腹が痛くなったがとにかく走った。一着18期、二着18期、三着11期、12期の成績である。

〈8月30日(月曜日)〉
 8時から遊泳競技である。混泳(背、横、平、自)200メートルは第二予戦で敗ける。遠泳二千メートルも振わず飛び込みは五位だった。11期が優勝し、二位53分隊、三位52分隊でわが42分隊は七位である。
 私は来月から指導練習生である。63隊の先任教員から注意があった。

〈8月31日(火曜日)〉
 化学の写真実験である。実験要領を聞いて班員で写真を撮り合い、暗室での実験である。仲間の顔が真黒で事業服だけが、白く出てくる。引き伸ばしたり縮めたり、濃くしたり淡くしたり、自由自在である。
 今日は八朔だ、宵宮である。天気もよいし賑わっていることだろう。ガス燈の臭いまでしてくる感じである。相撲大会も頑張ってくれ、優勝してくれと願っていると月が顔を出した。明日も天気だ。

〈9月1日(水曜日)〉
 いよいよ八朔の当日である。後輩達も夏休みに練習したのだから頑張ってくれるだろう。夜7時半、温習中に突然警急呼集があり武装して整列。43分隊が黒帽軍で車庫方面から、42分隊は神社から攻める遭遇戦が行なわれた。

(海原会機関誌「予科練」51号 昭和55年10月1日より)


 予科練の所在した陸上自衛隊土浦駐屯地にある碑には以下の碑文が残されている。

 「予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ケ浦の湖畔に移った。

 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。

 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね、太平洋戦争に於ては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或は航空母艦から或は潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。

 創設以来終戦まで予科続の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一片の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛のために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈って、ここに予科練の碑を建つ。」

昭和四十一年五月二十七日
海軍飛行予科練習生出身生存者一同
撰文    海軍教授 倉町歌次

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