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8月15日の終戦記念日に想う

長 峯 良 斉 = 百年後の神風評価 =  もう1年半くらいにもなるのだが、テレビのあるクイズ番組のシーンで、今もなお強烈な印象として残っていることがある。  それは「日露戦争における日本海海戦の日本の連合艦隊の司令長官はだれ!?」という問題であった。5〜6名の解答者はみな20歳代から30歳代前半と思える秀才タイプの青年たちばかりである。その1人がパッとボタンを押して「山本五十六!」と答えた。  司会者が「明治時代の日本海海戦ですよ・・・。次に(ボタンを)押している方・

    • 飛練39期赤トンボ戦記

      大 村 正 治(甲13期)  鹿児島海軍航空隊の第13期甲種飛行予科練習生約4千名は、僅か10力月で盛り沢山の教程と猛烈な訓練を終了し、昭和19年7月25日全員卒業した。操縦分隊(33〜42分隊)、偵察分隊(43~62分隊)の各分隊は、ばらばらに分解されて約2百数十名のグループに分けられ、指定された飛練に向って巣立っていったのである。  台湾の虎尾航空隊を指定されたわれわれグループは、緒戦でカクカクたる戦果をあげた台南空、三亜空のあとを継ぐのは俺達であるとばかり、共に訓練に

      • 琵琶湖の畔

        太宰信明(甲14期)  「太宰練習生、お待ちかねですよ」  「ありがとう」と礼は言ったものの私の体は腰掛けたベッドのへりから離れなかった。  面会許可時間がきて、私の両親が隊門脇に急造された第三仮兵舎に到着したことを知らせに、この当番兵が最初の呼び出しに来てからもう十五分はたっていたろう。  一年二カ月ぶりに会う両親。明日は実施部隊に転属する俺。もう二度と顔を合わせる機会はないだろう親子に特別に面会が許可されたこの日。 「お願いしますよ。あんまり待たせちゃ気の毒ですから」年

        • 予科練習生制度について

           村松豊(丙飛会々長、丙4)  搭乗員は任務の性質上、充分な戦術的知識を要求されるので、特に優れた素質と充分な教育が必要であった。そのため将校搭乗員の員数を増加するのが理想であったが、人事行政上の制約から、大部分は下士官兵あるいはその出身者に頼らざるを得なかった。  大正2年に搭乗員および整備員に下士官兵も採用する制度がとられ、7月17日から横須賀航空隊で下士官兵に対して教授がはじめられた。  第一期航空術練習生は大正9年5月に横須賀航空隊に入隊し、8名の操縦練習生が卒

          思い出の記 「予科練日記(2)」

          三重 桑 山 忠 一 昭和18年7月から同年12月の三重空の予科練時代の日記帳が出てきました。厳しい生活の中での生活の一部でも理解してもらえるものならと、終戦後30余年を経た今日、投稿することにします。(続編) 〈7月31日(土曜日)〉  夕食後から8月10日の夕食まで夏季休暇が発表された。当直分隊士の持物点検は何事もなく終り、吉田と松阪へ行った。トランクと風呂敷包を持っていたので重い。  吉田は俺の2倍もあるトランクを提げていて、すごく重いらしい。  吉田は東京に行くの

          思い出の記 「予科練日記(2)」

          思い出の記 「予科練日記(1)」

          三重 桑 山 忠 一  昭和18年7月から同年12月の三重空の予科練時代の日記帳が出てきました。厳しい生活の中での生活の一部でも理解してもらえるものならと、終戦後30余年を経た今日、投稿することにします。 〈昭和18年7月6日 火〉  雨で朝礼は舎内である。いよいよ通信兵器の取り扱い方の試験が行われる。九六式空三号無線電信器で受信器の調整である。少しあわてて一カ所間違えたらしい。操縦の方は電話器の方だった。午後の遊泳は取り止めで、気象体操で、体操では騎馬戦と棒倒しが壮烈に

          思い出の記 「予科練日記(1)」

          男のロマン

           大 西 貞 明  甲3期  「家族のためには汗を、友のためには涙を、国のためには血を流せ」と空の男の友情で駆けつけてくれた俳優の鶴田浩二少尉が壇上から訴える。昭和54年5月、京都での予科練まつり。人生は別離の歴史である。昭和13年、甲種予科練3期生として海軍に入った240名の友は、真珠湾から沖縄までの航空戦を戦い抜き、僅か36名が生き残った。私は一期一会の友を再び得たいと念じ、予科練15万人の全国会長となった。  戦後の“特攻くずれ”は、千差万別の思想や職業を生み、知友

          男のロマン

          特別攻撃隊を語る《座談会》(後編)

          今回のテーマは特攻を語る。零戦など航空機での特攻はよく知られているが、余り世に知られていない「桜花」「回天」「震洋」「伏龍」についてである。「桜花」「回天」は他の二つに比べるとかなり知られてはいる。だが「震洋」「伏龍」は耳新しい。それぞれ三十四年以上前のことを思い起こして、当時を語っていただいた。二度と戻ってこない青春を、後生に正しく伝えてもらうために――(前編・後編の二回続きの後編)  出席者=加藤輝人氏(特乙1期、桜花攻撃隊、旧姓木原)、河崎晴美氏(甲13期、回天攻撃隊

          特別攻撃隊を語る《座談会》(後編)

          特別攻撃隊を語る《座談会》(前編)

           今回のテーマは特攻を語る。零戦など航空機での特攻はよく知られているが、余り世に知られていない「桜花」「回天」「震洋」「伏龍」についてである。「桜花」「回天」は他の二つに比べるとかなり知られてはいる。だが「震洋」「伏龍」は耳新しい。それぞれ三十四年以上前のことを思い起こして、当時を語っていただいた。二度と戻ってこない青春を、後生に正しく伝えてもらうために――(前編・後編の二回続きの前編)  出席者=加藤輝人氏(特乙1期、桜花攻撃隊、旧姓木原)、河崎晴美氏(甲13期、回天攻撃

          特別攻撃隊を語る《座談会》(前編)

          『若鷲の歌」歌碑建立

           作曲家の古関裕而先生へお手紙を差し上げた。内容は「-若くして国難に殉じた予科練出身戦没者の鎮魂のために『若鷲の歌』の歌碑を建立したいと思いますが、御意見を賜わりたい-」というものである。  早速ご快諾の返事を頂き、去る二月十五日東急文化会館で私達(三瓶副会長・相原理事)三名でお目にかかった。温顔に終始笑みをたたえられ、とつとつとお話しになられる先生は真に親しみやすくもう何回もお目にかかっているような錯覚をおぼえるのである。そして先ずおっしゃった言葉は「あれ(若鷲の歌)は生

          『若鷲の歌」歌碑建立

          ああ 同期の桜

                           福 地 周 夫 (海軍大佐) 第三期甲飛予科練首席卒業     海軍一等飛行兵曹 宮沢 武男君  日米の風雲急をつげる昭和十六年十一月十七日、大分海軍航空隊で挙行された連合卒業式に於て、海軍二等飛行兵曹宮沢武男は、幾多優秀人材の揃った第三期甲種飛行予科練習生の首席優等卒業生として、御臨場の高松宮殿下より恩賜の銀時計を拝受した。身を軍職に奉ずる者の光栄これに過ぎたるはなく、この栄えの日に彼は一恵君恩に報ずるの覚悟を更に親らたにしたことと思

          ああ 同期の桜

          財団法人海原会 盛大に設立記念式典

           財団法人・海原会の設立記念式典は、七月十六日午後四時から、東京・千代田区の日本武道館に、高松宮・同妃両殿下のご臨席を仰ぎ、約六千人の参加者が見守るなか、成功裡に式典を終え、出席者は口々に大成功を祝い、慶び合った。  式典は、午後四時きっかりに高松宮・同妃両殿下がご臨場。観衆は全員起立して両殿下をお迎えした。つづいて国歌「君が代」の斉唱。そして、空に海に散っていった戦没者のみ霊に心からの黙祷を捧げた。ついで、さる四十一年霞ケ浦湖畔に「予科練之碑」が建立された折、高松宮妃殿下か

          財団法人海原会 盛大に設立記念式典

          ある友の死

          理事(当時) 中村義三  ちょうど十年前、土浦の慰霊祭に行ったとき、私たちクラスのところに、乙十六期の人が、石井正行君の遺族を訪ねてこられた。石井君の特攻最後の様子を遺族にお傳えしたいというのである。このときの慰霊祭に、母親のヨシ子様が参列しておられ、さっそくクラスの一人が会場に探しに行ったあと、私は、石井君の最後の様子を聞かせていただいたのである。  この人は「終戦以来、機会があったら、御遺族にお会いして、その時の模様をお知らせしたいと思い、もしや今日の土浦慰霊祭で会え

          ある友の死

          日本の名機物語①「九六式陸上攻撃機」

           「戦争の全期間を通じて、これほど衝激を受けたことはなかった・・・」(チャーチル大戦回顧録)  南シナ海。太平洋戦開戦わずか二日後の昭和十六年十二月十日、英国東洋艦隊の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」の二隻は、日本海軍機の猛攻の前に、沈んだ。その攻撃の主役となったのが「九六式陸攻」だった。「マレー沖海戦」と戦史に著されるが、海戦とゆう言葉から連想されるような艦隊同士の砲戦があったわけではない。それは航空機が主力艦を沈め得る、という事実を世界で初めて立証し

          日本の名機物語①「九六式陸上攻撃機」

          私の戦記から 「シドニー偵察と特殊潜航艇」

           潜水艦に飛行機を搭載して局地偵察、或は艦隊決戦の際に敵の意表をついて効果を揚げる構想は如何にも帝国海軍らしい発想であった。今考えてみるといぢらしいような涙ぐましい構想に思えてならない。敵地に近ずくと、丸く長い格納塔からバラバラの部品を次々に引出し、胴体と翼、エンジンとプロペラ、脚とフロートの順序よい組立てが手ぎわよくおこなわれる。  その間に艦長よりの飛行命令を受けた搭乗員は、完了と共にカタパルトから発射出発する。  この潜水艦搭載専用の二式小型水上偵察機(編注: 以下

          私の戦記から 「シドニー偵察と特殊潜航艇」

          私の戦記から 「紫電改の空戦」

          狩 野 至(丙3期)  松山海軍航空隊といえば、343空の紫電改の戦斗機隊で、源田実司令を中心に大東亜戦末期に前線各地に生存していた古参戦斗機隊員を集合させ、編成された海軍最後にして、最強の部隊であった。その隊は「新選組、天誅組」などの別名をもち、本名は301飛行隊であった。  20年3月中頃、呉港を空襲した敵戦斗機隊の大群が帰路についた瀬戸内西方上空での戦斗は、待ち伏せた343空の攻撃で、またたく間に50数機が撃墜され、以後この方面の空襲はなくなった程、敵の心胆を寒から

          私の戦記から 「紫電改の空戦」