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活字中毒と、お手紙のはなし。

「活字中毒だよね?」
司書の友だちが可愛らしい笑顔を浮かべて私の方を振り返る。

まだ正解か否か告げる前なのに、見抜けたことを喜ぶかのようにクスッと笑いながら目を合わせてくる。

「...バレた?」
『親にも打たれたことないのに!』という気持ちと同じ感情を抱きながら、私は彼女の見立てが正解であることを渋々告げる。

私が活字中毒になったのはここ数年でのことで、中毒の血筋は父方の祖父から引き継いだものと思われる。今は亡き祖父の書斎には山ほどの文庫本がずらりと肩を並べ、慎ましやかに息をひそめていた。祖父の中毒性は体内には留まり切れなかったようで、父とドライブに行くと「ナフコ」「ガソリン」「ラーメン」と目に入るもの全てを追いつく限りで読み上げていたそうだ。

大学時代に鬱になったときも、起き上がれるようになってからは本に助けを求めて生きていた。咳喘息で病休中の今も、動けるようになってから最初に足を運んだのは図書館だった。

気分が落ちているとき、枯渇した心を癒したいとき、ちょっと疲れて頭がキーンと痛むとき、ぼーっとしたいとき、生きていくことに嫌気がさしたとき。私は本に救いを求める。本の中には、自分とは違う人生を歩む先達がいて、初めて遭遇する思考や自分と同じような感覚に巡り合って高揚し、気付いたら全身の痛みは和らぎ身体があたたまっている。私はほっとして、珈琲を淹れるために立ち上がったり、出かける準備をしたり、昼寝の態勢を整え始めたりする。

こうして私は活字中毒になった。
本は鬱気味の私にそっと寄り添い、敏感で疲れやすい私に繊細でやわらかな洗練された言葉たちをふりかけてくれる。いつでも欲しいだけ与えてくれて、好きなタイミングで閉じることを許してくれる。

誰にも活字中毒であることは話したことがないし、他人に向けたSNSで本について発信したこともない。

しかし、司書の彼女は見抜いてしまった。
しかも、「活字中毒」という祖父の一肩書と同じ呼び名で。

無理もないかもれない。
そもそも彼女とは、大学の「言葉」に関するルームで共に卒業論文を仕上げるようになった頃から親しくなったからだ。

彼女は司書の道を進み、図書館の司書として勤めながらも、出会った当時から語っていた自分の図書室を開くという夢まで叶えてしまった。カメラや珈琲の趣味も意気投合した私たちは、どうやら好みも似ているようで。彼女の開いた図書室は、私の住みたい空間そのものだった。

隔週くらいで図書室を訪れ、読みたい本をお気に入りのチェアの横に積み上げつつも、最近読んだ本やお勧めの本から派生して、あの作者の表現がどうだの、それならこの本も好きかもしれないだの、それからプライベートな話まで盛り上がる。結局わくわくして話して気づけば2時間千円の時が経ってしまっているのが常だ。

私はなぜか、毎回彼女にお手紙を持って行っていくという習慣ができていて、予め話したいことや伝えたいことはお手紙の中にしたためている筈なのに、彼女と話し始めるとまた違った世界で会話が広がってしまうのだから仕方ない。お手紙がなかったら4時間二千円の時があっという間に経ってしまうのかもしれない。

新年、大人買いしたレターセットたち。

思えば、お手紙が好きなのも活字中毒が祖父から遺伝的に血を巡っていたからかもしれない。そして、幼少期からお手紙が傍らにあったのもお手紙を好きになったきっかけのひとつだろう。

幼い頃から誕生日には、プレゼントと一緒に父と母それぞれからお手紙をもらう風習があり、私も両親の誕生日には当たり前のごとく一人ひとりにお手紙を書いた。もちろん、母も父にお手紙を書き、父も母にお手紙を書いた。忙しくてお手紙を用意できなかった場合は、「ごめん!後から渡すね!」と未払金を納めるかのように申し訳なさそうな顔で必ず後日渡すのが我が家のルールとなっていた。私は父と母からもらうお手紙が大好きだし、今でも大切に保管している。

嬉しいお手紙は両親からもらうものだけじゃない。
友だちからも、恋人からも、知人からも、先輩や後輩からも、誰からもらってもお手紙は嬉しい。

「今年の誕生日プレゼント、何がいい?」と聞かれたら、誰かれ構わず決まって「お手紙!」と無邪気に答えてきた。
大人になってみて考えてみれば、毎回お手紙と言われお手紙を書く羽目になり、結局のところプレゼントも用意してくれるのでお手紙を書く手間だけ増やしているいい迷惑なのであるが。実際、大人になっても繋がっている私の周りの人たちは、ありがたいことに同じようにお手紙が好きな人たちで、私が無邪気に欲しがらなくても暗黙の了解のように必ずプレゼントに添えてお手紙も贈ってくれている。

お手紙は私を喜ばせてくれる言葉たちで埋め尽くされていて、いつでも私に寄り添い、時に励まし、時には涙さえも流させてくれる宝物であり相棒だ。元気がないときにはお手紙に手を伸ばし、勇気をもらう。自責の念で削り落とされた自尊心を、あたたかな言葉たちが補い修復してくれる。

本もお手紙も、どちらも共通して言葉が紬ぎ出されることで形を成している。それも私が欲する言葉たちで。それらには心が込められ、魂が込められている。紙が劣化しても、言葉は生き続ける。

決してぶりっ子しているのではなく、敬意も含めて私は「手紙」を「お手紙」という。ならば、「本」も「お本」と呼ぶべきか ―― 。

たまに鬱っぽくなる私は、活字中毒という依存症によって少しは生きる気力を取り戻し、なんとか生きやすくなる方法を模索している。

活字中毒によって生きながらえ、お手紙が好きで、語りたがりで、こうして今日もnoteを書いて私の心は満たされるのである。


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