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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(1)

1.

ジッドには毒がある、と言われる。そして例えば、日本ではごく普通に読まれている「田園交響楽」「狭き門」といった作品すら、フランスでは、 (法王庁が禁書に指定していたこともあって)とりわけカトリックの信仰篤い家庭においては危険な作家として忌避される傾向があると いうことが言われたりする。一方で、時代は変わって、ジッドは今や過去の作家であり誰も相手にしなくなったという見方もある。 だが、前者にせよ、後者にせよ、それをいうだけに留まるのは、研究者ではなくジャーナリストだろう。だが現実には日本では研究者も 権威の一人の発言がこうなのだから、所詮日本でのジッド受容というのは皮相なものなのかと問うてみたくもなる。 実際、問題なのは、「田園交響楽」のどこがどのように危険で、「毒」とは一体何なのかを突き止めて端的に言うことの筈だ。 私見では、確かに「田園交響楽」には、一読して毒があることが感じられる。誠実さを装った欺瞞が、観念のすりかえの自己正当化が、 フィクションという形式の上に仕掛けられた「罠」と、誠実さを装った(もしかしたら無意識の)「嘘」が読み手を苛立たせるのだ。 そしてその結末は、読者をどこにも連れて行かないし、カタルシスを拒絶する。私見では、「田園交響楽」はしばしば「狭き門」と 対にして語られ、「無害な」ジッドとして文学全集の類にも繰り返し取り上げられる傾向にあるが、それそれが全く異なるベクトルをもち、 その毒のありようもまた、全く異なったものである。「狭き門」には超越性にまつわる、ある危うさが存するが、それは寧ろ目を背けては ならないかも知れないのに対し、「田園交響楽」はその「毒」の何であるかを突き止め、「罠」の構造を明らかにし、 「嘘」の内実を明らかにする必要があるように思われる。そしてそれは、たとえ揚げ足取りに見えたとしても、先天的に視覚の ハンディキャップを負っているということがどういうことであるのかについてのジッドの無理解が、決して瑣末なことではないことを示すことでもあるだろう。 触覚と聴覚による補綴に対する無理解もさることながら、視覚的な色彩と聴覚的な音色の、それ自体は間違っているわけではないシネテステジア、クロスモダリティが 正しく扱えておらず、しかも悪いことに、その無理解の結果として生じた空隙が、独善的なルソー主義的な楽園で埋められている点が、一見するとそうした 次元とは異質の、聖書の自由解釈というプロテスタントの中でも自由主義的な立場を僭称した自分勝手な聖句の解釈による自己正当化と 結びついているのである。それが芸術上の選択であり、レシという形式の拘束であるにしても、たとえば「狭き門」ではアリサの日記を 埋め込むことで多声化を実現していたのに対し、ここでは「アンドレ・ワルテルの手記」以上に手記の形式による「私」の視点への 限定を徹底させることでジェルトリュードの声を排除してしまっていることも問題だ。しかも文学的完成度の点からも破綻が指摘される第二の手帖の後半部分は、 科学的な見地からも出鱈目に近いし、牧師の主観的な歪みに満ちた手記であることを口実に正当化されかねない第一の手帖における ジェルトリュードの描写のリアリティの欠如も、彼女の成長を記録し、神の恩寵を書き留めるという意図に自ら背いているのだ。これが 「田園交響楽」という標題と、雪深いスイスの牧師を主人公とし、牧歌的な雰囲気の中で繰り広げられる、聖書の引用がちりばめられた悲劇という装いをもって 文脈を欠いた人々を欺くのであるとすれば、その虚偽を具体的に、煩瑣を懼れずに指摘することにも意味なくはないだろう。この物語は、今日、 正しい位置づけをもって語り直されるべき素材を含んでいるのだから、それは単なる批難に終始するわけではなく、素材の価値に見合った仕方で語り直されるための 準備作業としての意味を持っている筈である。

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