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「古代」村落の想像的根拠から「極東の架空の島」へ:まとめと結論



まとめと結論

A.<二分心>の位置づけ

  • <二分心>における神の声は社会統制の機能を果たすものと想定される。だが、<二分心>抜きの説が多く存在する(というより多数派である)ことからも想像されるように、<二分心>概念は、構造的なギャップを埋める必然的なものとして位置づけられるというより、今日、多くは病理的な状態で現れるとされる幻聴が古代においてはごく普通の出来事であったということが文献から読み取れるという事実を出発点にして、逆にそこから、言葉を持ちながら意識を持たなかった段階というのを理論的に設定した仮説である。そして本論での検討の結果は、<二分心>は、言語あり、意識なしの社会脳というものである。そして<二分心>の一般的パラダイムを自然主義的に解釈し、(ジェインズに反して、狭義の)幻聴やトランスを必ずしも必須の要件としない。

  • (a)幻聴は(1)意識への移行過程で生起する、または(2)意識が備わった段階からの或る種の退行で生起する現象と考えられる。いずれにしても「幻覚」には定義上、意識が絡む筈である。純粋な<二分心>では「意識されない」から(「幻聴」としては)存在しない。一方、無意識の幻聴(相当)は存在しうる。

  • (b)幻聴がストレスの結果ならストレスなき<二分心>(=言語あり、意識なし)状態を考えることはできないか?必ずしも意識への移行過程・意識からの退行過程を考えなくても、ストレスがなければそもそも無意識の幻聴相当すら存在しないことになる。もし、幻聴なき<二分心>がないとしたら、高ストレス時のモードとしての<二分心>に対するデフォルトモードの存在を考えなくてはならない。だが寧ろそちらをこそ<二分心>とすべきと考える。

  • <二分心>を言語を介した「規範」の(再)内面化過程と捉える。「規範」の内面化は、言語なし・意識なしでも成立するし、言語あり、意識ありでも成立する。生理的基盤を求めれば、言語獲得に伴う再帰レベルの積み増しが生じたことによる神経回路網の再構成に相当する。ただし<二分心>では「規範」を自覚するには至らない。「規範」を「規範」として認識するのは、<二分心>が崩壊し、反省的・自伝的な意識が確立してからのこととなる。

  • フロイトの超自我の成立過程として捉えた時、意識が覗き込む無意識は<二分心>では最上位レベルであり、超自我を、自己の内部の他なるものと認識する自我は存在しなかった。いわば超自我(神の声)がエス(中核自己)に働きかける構造に相当するのが<二分心>であったと見做せる。自我が分離し、超自我が自己の中の他者として分化することは、規範に無意識に従うのではなく、規範を規範として自覚することを意味する。<二分心>の崩壊による意識の発生により、津田=スマリヤンの推論者の階層において階層の上昇が起き、「正常」である(3型の推論者)だけではなく、「正常」であることを知る(4型の推論者)に至ったと考えられる。

  • ミズンの「認知的流動化」の説との関係では、<二分心>は、言語獲得による認知的モジュールの再組織化の後の「認知的流動化」による社会的・一般化の過程の産物と位置づけられる。反省的・自伝的意識の確立は、モジュール化への逆行ではなく、認知モジュールと一般的知能の関係の再組織化として捉えるのが適切であるように思われる。

  • 心の発達段階には、再帰的な構造の階層化に関わる反復が存在し、そしてそのうちの一度には言語が本質的な役割を果たす。<二分心>はまさに言語獲得の副作用である。意識に先立って言葉があり、言葉の獲得と神概念の成立には相関があり、神はまずは声として、つまり聴こえる言葉として、自己に対して現われたという<二分心>の理論の論点は、ヨハネ伝の冒頭を思わせる。あたかもヨハネ伝の著者は、言語の獲得と神の発生とが発生した人類の歴史の中における決定的な転回点の事を語っており、いわゆる「歴史」意識というのは、そこを起点として、それより前には遡行しないということを告げているかのようだ。

  • <二分心>仮説の成否によらず、意識は、ほぼ必然的に神概念を生み出すような構造を備えている。それは意識が成立するための構造上の条件である再帰性の階層がもたらす、意識の自己表象が備えている自律性、オートポイエティックなシステムとしての自閉性と相補的である。その意味で、意識の極限形態は無神論であり、神は常に「隠れた神」という仕方でしか意識には立ち現れない。だがそれはあくまでも、意識自身の主観的パースペクティブな制約に起因するものであり、その発生の段階においては、意識は自己が帰属する集団内の他者との関わりによって発生するものであり、従って「自己」(の表象)は常に集団的なものである。

B.双分観と三分観

  • 狩俣村落の世界観として本永が提唱した三分観について、村落の地理的構造、祭祀や各種の風習に見られる各種の双分的構造との関わりを検討すると、その双分的構造には幾つもの反転があり、双分観として理解しようとすると矛盾が生じるが、そうした構造上の歪を通して、村落が経てきた変容のプロセスを垣間見ることができ、その到達点として三分観を捉えることが可能である。そしてこの結果は、レヴィ=ストロースが「双分構造は存在するか」で指摘した双分構造と三分構造の間の関係についての理論的な考察を裏付ける事例と見做しうる。

C.社会集団の構造と成員の心の構造の関係

  • 狩俣の祭祀は<二分心>の一般的パラダイムを充たしており、狩俣の祭祀システムと<二分心>から意識への心のシステムへの移行過程には、密接な連関を窺わせる並行関係を認めることができる。狩俣の事例が貴重なのは、この構造が際立って明確な仕方で保存されていた点にあると思われる。即ち狩俣の場合、研究者を瞠目させた「狩俣祖伸のニーリ」を唄う男役は、祭祀においては傍観者に過ぎないが、祭祀の外では村落の指導層の方々なのである。それは確かに「亡滅」以前を今に伝えるものだが、二分心の崩壊と意識への移行のヒュポスタシスという「亡滅」の構造自体を内部に抱え込んでいるが故に、それが可能になったという点が私には重要に感じられる。その意味で「狩俣祖伸のニーリ」は古代性そのものでなく、「古代性」に対する後からの介入の結果そのものなのであり、まさにそれを媒介にし、通路にして我々は「古代性」を垣間見ることが可能となったという構造がそこには存在するのではなかろうか。

  • 狩俣の村落の変容プロセスは、絶えず外部との関わりにおいて自己を維持してきたことを告げているし、村落の構造や神話と儀礼と神歌の内容に刻印された双分観から三分観への移行もまた、狩俣が、自らの構造変容に対する「柔軟性」、即ち動的に変容を重ねることで、重層し複合する構造の内部に、いわば「自覚的に」古代性を保持することを可能にする特性によって「亡滅」を逃れてきたことの証と見るべきである。それは二分心の崩壊と意識への移行のヒュポスタシスの痕跡でもあるが、それを見出すことができること自体が、狩俣が「亡滅」を逃れて古代性を保持し得たことを証言していると考えられる。 

祭祀についての若干の一般的な帰結および三輪作品に関する幾つかのトピックに関する帰結

「逆シミュレーション音楽」の3つの相は、<二分心>の一般的パラダイムと厳密な並行性を示しており、<二分心>の一般的パラダイムの自然主義的な解釈から、「集団内で強制力を持つ共通認識」としての「規則」を生成し、徹底した解釈の身体化による規則生成の自動化を達成すること、つまり「方法マシン」となるという意味合いにおいて「トランス」の生起を「誘導」するべき「解釈」を定め、「古い権威」としての由来を定義する「命名」によって、意識の成立の条件に遡り、<二分心>から自己が都度立ち上がる場としての「祭祀」を仮構することに他ならないというのが本論の重要な帰結の一つである。

そしてこのことから導かれるより一般的な帰結および「逆シミュレーション音楽」とその後の三輪眞弘の作品における「傍観者」の構造上の位置づけや機能に関する帰結は以下の通りである。

(1)幾つかの一般的な帰結

  • 秘儀的な祭祀は、祭祀のシステムとしては<二分心>的であり、それは「外部」を「知らない」が故に、外部に対してある意味では頑健だが、無防備でもある。

  • 「傍観者」を内部に持つ祭祀は、見物人なしで成り立つ。寧ろ、見物人を排除する。それは構造的に、システムとして閉じている(オートポイエティックな系である)ことの帰結である。「傍観者」は「自覚的システム」の完成のための最後のピースであり、システムの内部と外部を区切る「膜」の如きものである。それは意識が外部との高水準インタフェースであるように、祭祀と外部との間に介在し、システムの動作の継続にとって重要な役割を担うようになる。

  • 芸能・音楽芸術は、見物人に見せることで、見物人も含めたシステムとしてみた場合、「傍観者」を内部に持つと言えるようになる。

(2)三輪眞弘の作品における「傍観者」の構造上の位置づけや機能について

  • 「逆シミュレーション音楽」の3つの相自体には「傍観者」は含まれていないように見えるが、そうだとすれば、それは、意識なき、<二分心>の構造と同型の「祭祀」の構造を抽出したものと考えられる。

  • 一般に「祭祀」というのは、意識が成立してしまって以降は、<二分心>の時代と比べた時にその意味合いが変容し、<二分心>の残滓として、祭祀が行われている間だけ起源へと遡行することを可能にする通路、窓のようなものになったのだろうと思われる。

  • 「傍観者」は、そうした意識発生に伴う祭祀の変容の結果というか構造的な証拠である。それはかつて村落に到来し、村落を併呑して服属させた外部の勢力であった支配層の関与の痕跡でもある。「傍観者」は政治的・経済的には支配者であることは、三輪作品において「傍観者」が、作動する「逆シミュレーション音楽」のシステムの外部にあって、その「規範」(つまり「生成規則」)を認識し、必要に応じて、作動するシステムに介入し、教示することができる立場であるというかたちで抽象化されている。

  • 傍観者の存在は、それを要素とするシステムを「自覚的システム」たらしめる。その意味で、狩俣の祭祀の在り方は、狩俣の社会システムが「自覚的システム」であることを示している。必ずしも因果関係はないにせよ、それは狩俣の村落の構成員が「自覚的システム」である(ジェインズ的な意味での)「意識」を備えた存在であることと関連している。そしてまた、狩俣における傍観者の位置にいる男役が謡う「ニーリ」が神話を<物語化>したものであり、反省的な歴史意識の産物であることとも関連している。

  • <二分心>の崩壊とともに発生した意識にとって神は「隠れた」存在となった。祭祀は「隠れたる神」と接するための通路という意味合いを帯びるようになった。だがその祭祀に傍観者が加わって「自覚的システム」となった時、それは既に祭祀の「亡滅」の徴候ではないのだろうか。勿論、傍観者の存在が、祭祀を停止させるわけではない。だが傍観者を含むタイプの祭祀を実施する社会集団は、潜在的に祭祀が停止へと至る可能性をも持つようになったということは言えそうである。傍観者は「神と出会う」ことはできない。それは<二分心>とは異なる、自覚的意識独特の心性の結果として、反復される起源としての<二分心>の代替として、起源の物語化による歴史意識を得ることになる。結果としてそれは「幻聴」や「憑依」のような心的状態の変性によってしか<二分心>の状態を想像できなくなっている。それらは既に「神々の沈黙」の「隠れたる神」を生き延びるための手段であり、結果であろう。そしてそれが支配的になったとき、祭祀は終焉を迎え「神の死」が訪れるのではなかろうか。

  • だが、そのようにして訪れる祭祀の停止(オートポイエティックなシステムにおいて停止はそのまま死を意味する)が<二分心>的心性の、或いはさらにそれを遡る基層的な心性の完全な停止を意味しない限り(そしてそれは技術的特異点の向こう側のポスト・ヒューマンでもなければ、権利上も事実上も不可能なのだが)、傍観者の存在は両義性を帯びているように思われる。傍観者を介して採集され、保存された記録は、自覚的・意識的な仕方で祭祀を再構し、その中で自分の基層としてなお存続する心性へのアクセスパスを確保することを可能にするように思われるからだ。言い替えればそれは傍観者的な立場を一時的にであれ中断することだが、かといってそれは単純な起源への還帰を標榜する無意識への退行、意識の中断によって生じた無秩序の放恣な濫用ではなく、新たに規則を作りだし、自覚的に規則に従うことを通じて意識の手前に到達することに他ならない。そしてそうした可能性の追求、即ち「古代」村落の想像的根拠としての宮古島狩俣から「極東の架空の島」としての「狩俣島」へと至る可能性の追求として、三輪眞弘の活動を捉えることができるというのが本論の結論なのである。

残された課題:狩俣の神歌の詳細な楽曲分析・テキスト分析

神歌のテキストの分析に加え、「音楽言語」(藤井貞和『<うた>起源考』,2020)の相にフォーカスし以下の先行文献をコーパスと見立てる。

  • 『日本民謡大観(沖縄・奄美)』宮古諸島篇(日本放送出版協会、1990)所収の33曲

  • CD『沖縄の古謡 宮古諸島編』上巻(沖縄県文化振興会, 2012)所収の8曲

これまで、神女役が唱える神歌と、男役が唱える神歌の関係の分析、更には通時的な系統関係についての議論もされてきたし(例えば『南島歌謡大成III宮古篇』の外間守善の解説などを参照)、神歌と(語りとしての伝説の形態で伝承される「神話」の関係(例えば居駒『歌の原初へ』第1章神歌と神話 特に 2.ユーヌヌス神話と神歌など)や他の地域の伝承との比較(真下『声の神話』第2部説話の伝播と伝承 第2章始祖神話伝承の形成 および 第3章神婚神話伝承の形成を参照)も行われてきた。また内容だけではなく、節回しや所作などの面での関係も論じられている(先駆的な分析としては藤井貞和「「おもいまつがね」は歌う歌か」『「おもいまつがね」は歌う歌か』所収、『甦る詩学』に再録)があり、それを承けたより詳細で多面的な分析としては、例えば、内田『宮古島狩俣の神歌』第7章 神歌のかたちを参照)。

本論での検討は、この視点を一歩進めて、神歌のジャンルの間の差異に、狩俣の祭祀の構造や祭祀を支えるより一般的な構造を読み取る手掛りを求めるものであるが、基本的には、藤井、内田の検討の枠内での議論に留まっており、神歌の「音楽」そのものや「ことば」そのものに即した分析・検討には至っていない。

「音楽」そのものに関しては、本稿でも主たる参照先とした内田の『宮古島狩俣の神歌』が若干扱っている以外では、『日本民謡大観(沖縄・奄美)』宮古諸島篇 所収の「南西諸島の音楽文化概観」(同書, p.7以降)や「宮古諸島の音楽概観」(同書, p,23以降)「宮古諸島の歌謡―研究略史・形態的分類・歌形」(同書, p.28以降)、更には「神事に関わる歌」の解説(狩俣康子による。同書, p.113以降)くらいしか見当たらない。(なお、内田が参照している狩俣康子のもう一つの論文「狩俣の神歌」は未見である。)こちらについては、三輪眞弘の「極東の架空の島の唄」連作の契機となった柴田南雄『音楽の骸骨のはなし』が日本民謡に対して行った分析を、狩俣の神歌に適用することを初めとして、今日であればコンピュータを用いた様々な分析も可能であろう。

一方、テキストに関する分析は枚挙に暇がないにも関わらず、管見では、藤井貞和が神田秀夫の業績を参照しつつ、『<うた>起源考』あとがきにおいて『古事記』について述べているような、テキストに見られる「地層」に関する具体的な分析は狩俣の神歌については未だ存在しないようである。かろうじて記述が行われているに過ぎない方言の更に通時的な変容を辿ることは事実上、極めて困難だろうし、そうした観点での言語資料の採集も行われているわけではない。一方で既に継承が途絶え、調査の記録のみが利用可能な資料である状況も進んでおり、現在手にしている資料から何を言いうるかを検討していくことになるだろう。だが、神田秀夫が指摘した層が文字記録として残ったものの表記などを手掛かりにしたものであることを踏まえると、基本的に口承であり、文字記録が研究者による採集が行われる近年まで為されなかった狩俣の神歌に関して、同様の手法の適用は極めて困難であるのは明らかなことと思われる。

それゆえ神歌群間相互の関係については、従来の研究では、主として内容に関する分析・考察が中心であった。但し、内容の分析は、神歌の語彙の古さから、そもそも意味内容を大まかにさえ把握すること自体が困難であり、外間守善・新里幸昭の採集時点での解釈(それは概ね琉球方言一般に関する知識を前提としたものであったようだ)を記載した『南島歌謡大成III宮古篇』の解釈と、その後の新里が単著として刊行した『宮古の神歌』の間にすら少なからぬ変更が発生しているし、近年では狩俣吉正『宮古島狩俣民俗誌』のように、狩俣出身者が、狩俣方言に基いて解釈し直した結果として、特にフサ群について従来とは大幅に異なる解釈を提示しており(既に本稿で触れたが、狩俣吉正『沖縄・宮古島狩俣民俗誌』, p.199を参照。)、神歌の解釈については未だに統一的な見解があるとは思えない。また記録されたテキストの差異に関しては、近年の内田、真下、居駒等の研究は程度に差はあれ意識的であるが、いずれについても差異を通時的な層の違いとして把握しようという視点はないように思われる。

そうした現状を踏まえると、現実にはテキストに見られる「地層」に関する具体的な分析は困難そうであるが、部分的、断片的であれ、そうしたことを示唆する手掛かりが得られないか、具体的には、例えば、ジェインズが『イリアス』について行ったように特定の語彙の出現やその意味の変遷について注目することが、狩俣の神歌についてできないものかについては検討の余地があると考える。或いは狩俣の神歌について特徴的な演唱者の性差の区分が、神歌の内容や形式的な諸特徴と何らかのかたちで相関していることはないのか、という視点での検討作業は可能ではなかろうか。勿論、その結果は神田秀夫が見出し、藤井貞和がその重要性を強調する通時的「層」の共時的な断面とは異なったものだろうが、狩俣の神歌の形成過程に関する何らかの構造的な示唆を与えるものとなる可能性はあるだろう。

男役によって謡われるニーリのような周縁部が新しく、後から加わった部分であり、より以前から存在した部分にたいする反省的な意識による再解釈、<物語化>が見られるのは確かであっても、だからといって、今残存しているより古い層に由来すると考えられる部分が、古い層のそのままの状態を残しているとは限らない。寧ろ、それが古い層に由来するが故に重要な部分であるならば尚更、構造的な組み換えによる祭祀の再編成の結果、そうした中核にこそ新たな支配層の意思を反映した、より新しいものが埋め込まれる可能性が高いと考えるべきではないか。一例を挙げるならば、直接的な裏付けとなる史料上の証拠はないものの、大城元に祀られているアマテラスなどは、最も古いと考えられる部分にも後から改変が加わっている可能性があることを示唆する最も顕著な例であるように思われる。

実際、アマテラスの位置づけは興味深い。それが大城元という狩俣の祭祀のまさに中心的な集団の祭神であり、最高神女であるアブンマの次の位格を持つヤマトンマ(大和母)という神女が抱くとされているのだが、狩俣の始祖神としては、ンマディダ(母太陽)であるンマヌカン(母の神)が別にあって、アマテラスはあくまでも大和から到来した外来神として、区別されているのである。(この辺りの記述は、奥濱『祖神物語』に依拠している。同書p.87以降参照。)かりに新しい支配層による書換えが完全で、新しい要素によって古い層が全く上書きされたのであれば、ンマティタであるンマヌカンとアマテラスは太陽神という性格、女性という性別からして習合が起きたという想定もできるのではなかろうか。宮古島統一後、琉球支配下において狩俣は、「御嶽由来記」からの記載に窺えるように、平良の漲水御嶽の宮古大安母を頂点とする祭祀組織に組み込まれ、その痕跡は今なお、アブンマが漲水御嶽への報告を行うといったことに残っているとはいえ、一方では居駒が『歌の原初へ』の第3部神歌の現在の第4章狩俣の神歌と神話で紹介しているように(同書, p.279以降参照)、1767年の与世山親方宮古規模帳のウヤガン祭禁止令に見られる通り、狩俣の祖神祭は形の上では琉球の祭祀組織に組み込まれたとはいえ、完全に統合されたものではなく、基本的には独立のものとして営まれ続けていたことが窺える。ヤマトンマの成立やアマテラスが大城元で祀られるようになった時期が史料によって客観的に実証されるというのは非常に困難であろうが、アマテラスが狩俣の祭祀において占める位置づけそのものが、そうした歴史的な経緯を裏付けるものであると考えることはできないだろうか。そしてもし、この問題について、間接的ではあれ傍証が得られる可能性があるとしたら、それは狩俣の神歌のテキストそのものの詳細な分析を通して、神歌自体の中から通時的な<層>のようなものが浮かび上がってくることによってというのが最も有望であるように思われるのである。

またそのことは、これもまた藤井が『古日本文学発生論』にて「祓い声」に注目(同書、「シルエットの呪謠」の章の中の「叙事の部分」の節, p.78参照)して以来、しばしば検討が行われてきた神歌の人称表現の問題にも関わる。(藤井の指摘を承けた従来の検討としては、例えば島村幸一「琉球弧の神歌の人称表現」があり、内田も『宮古島狩俣の神歌』の第5章 神の思い の5.「私」とはだれか において取り上げて検討している。)ここで「私」とは神自身のことであり、それを神役がよむということは、狩俣の祭礼において文字通り、神役が「神となる」ことを意味するが、ここで「神となる」は何ら神秘的な意味合いでなしに、まずは「神を演じる」ことであろう。勿論それが、<二分心>の一般的パラダイムにおける「誘導」であり、神人一体といった形容がなされる「トランス」状態に至るための戦略であることは確かだが、一人称表現が、固定化されて伝承される神歌の詞章としてあること、つまり島村の言う「定型の言語表現」としてあること自体、「トランス」状態における神人一体の際の前言語的なマントラ的なものや、いわゆる「異言」とは明確に異なる位相に属することを告げている。であるとするならば、そうした「定型表現」が通時的な<層>のどこに位置づけられるかが問われるべきと考えられるのである。論理的にはそれは、ニーリの持つ物語性に比べれば、遥かに基層にあたる部分に由来すると考えられるが、神役が神を演じること、神の言葉を代理で発するという、後日の演劇的な台詞に通じるような表現が可能となるためには、相当程度高度な心性の介在が想定される。それゆえ、このような言語表現の水準も併せて神歌の詳細について検討していくことが重要と思われるのである。

既に述べた通り宮古島狩俣の神歌に関する具体的な分析は今後の課題とする他なく、その実施には大きな困難が想定されるが、宮古島の史歌に関してであれば、ここで課題とされている分析は既に藤井貞和によって行われている。以下でその概要を参照することにより、今後の課題に取り組むための出発点としたい。

藤井は『日本文学源流史』第5章 琉球弧の神話文学において、稲村賢敷『宮古島旧記並史歌集解』(1962)の記述を整理し、稲村賢敷の定義する「史歌」の編年の考え方を以下のように示している。

(1)「にーり」(ニイラ)が史歌発達の最初。
(2)偉人の業績を述べ讃えるのが「あやご」(アーグ)。
(3)多良間島には後世になってできたニイリもある。
(4)仲宗根豊見親の最盛期ののち、叙事詩述作が終わる。
(5)長あやぐ(叙情歌謡)の時代。

(同書, p.123)

その上で、本論でも取り上げた「狩俣祖神のニーリ」に関して、以下のように述べる。

狩俣村ウヤガン(祖神)の史歌である「狩俣祖神のニイリ」は、フンムイに天降りしてきた祖先の事績、村草創の歴史をうたうから、ニイラアグから始まった、とする。(一)~(五)という展開があって、各編は語調も曲調も違う、別個のうたとしてある。ことに「ニイリ(四)」が座ニイリと立ニイリという二様の謡い方からできていて、ニイリ歌謡の最盛期だろう。(一)~(五)全部ができるのに二、三百年またはそれ以上の期間を要した、という重要な推定がある。

(同書, p.123)

そして、上記のような稲村の編年の貴重さを述べつつ、「神話という語を稲村が使うわけではないが、“神話と歴史と”のあいだに“編年”が割ってはいる。」(同書, p.126)と指摘し、その例として上記編年では(3)に属する多良間島のニイリを具体的に取り上げ、「“神話か歴史か”混沌として分けられないのはかれらばかりでなく、われわれにとってもそうだということを強調したい。」(同書, p.126)と述べている。ここではその詳細には立ち入らないが、今後の課題として提起していることとの関係でいえば、神話から歴史へという移行に対応したニーリからアーグへという史歌のジャンルの通時的な変遷の中に、共時的な神話と歴史の混淆を見出すというアプローチを、狩俣のニーリ以外の神歌群に適用できないかということになるだろう。通時的にはニーリから逆に遡行して、フサやビャーシ、タービについて、呪詞的・祈禱的な部分と神話・歴史的な層を見分け、例えばその混淆の在り方とジャンルとの関係を探るといったことが考えられる。

だがここで注目したいのは、宮古島の史歌の検討を承けて、起源の探求の場を日本神話に移した後の『古事記』歌謡の分析である(同書, p.131以降)。そこでは過去をあらわす機能語「き」の連体形といわれる助動辞「し」が出現する箇所に注目して、歌謡の分析を行っている。即ち、まず、歌謡のなかの比喩的表現というべき部位に「し」を配置することで、その部位を起源譚としている歌謡(A類)に注目し、まず、史歌(B類)の代入によって比喩的表現を抱える歌謡(A類)となり、起源譚が成立するという構造を見出す。更にニーリ的とでも言うべき(B類)の進化形としてアヤゴ的な(B’類)を位置づけ、古代歌謡の中に層を見出そうとしているのである。のみならず、比喩的表現を手掛かりに、枕詞もまた起源譚から来ることがあることを指摘している。

ここでは古事記歌謡について、宮古島の史歌の検討を経て、アヤゴ的/ニーリ的という対比を認めることにより、そこに層を見出すことに成功している。本論の課題に照らせば、これと類比的な分析を、宮古島の神歌に立ち戻って行う可能性が考えられるだろう。

だがここで注目すべきは、そのことよりも寧ろ、歌謡の分析の焦点が、歌謡自体が持っている二つの異なる層の結節点にあり、その層序が「比喩」に関わっている点ではなかろうか。そこから直ちに思い浮かぶのは、本論でも言及した通り、ジェインズが『神々の沈黙』において、<二分心>を論じるに先立って、意識の成立に比喩が与かっているという仮説を唱えていることである(同書, 第1部 人間の心 第2章 意識)。

(…)したがって、こうは考えられないだろうか。言語の語彙は有限個の集まりであり、これらの語の比喩によって無限の状況に対処できる。そして、そうすることで新たな状況すら生み出せるのだと。
 (意識がそのような新たな創造物だという可能性はあるだろうか。)

(同書, p.68)

ジェインズは検討の結果、この問いに肯定的な回答を与える。

(…)意識は、私たちの言語表現の<投影連想>によって生成されるときは<被比喩語>だ。しかし、意識の機能は言わば復路だ。復路では、意識は私たちの過去の経験に満ちた<比喩語>となる。未来の行動や意思決定など未知のことや、部分的に覚えている過去、私たち自身がそのもの何者であるか、そして何者になるかについて、たえず選択的に働きかけている。こうして生まれた意識の構造に基づいて、私たちは世界を理解する。

(同書, p.78)

さらにこの点を、藤井の『<うた>起源考』序章における、懸け詞―それが近代において喪われたという点も含めて―を出発点とする、詩の中における屈折・転轍への注目と重ね合わせることはできないだろうか?

(…)一首の前半部と後半部とのあいだに一つ屈折があるとすると、双分的発想では流れるように受け取るかもしれないところを、

前半部― → ―後半部

三分観の発想だとおなじ歌の中間で意識が屈折する。

前半部― (屈折) ―後半部

双分的あるいは三分観とは、私なりに親しんできた構造主義のヒントのもとにある。懸け詞なら懸け詞をつよく意識するとは、そういう中間集中によって起きる何ごとかではなかったか。詩は技巧か、それとも技巧によってもう一つ高めた位置から自由に出入りできる精神的な行為であるか、問いかけることになる。きわめて意図的な言語の凝縮性に根ざした営為としてそれらはあろう。詩の成立を、そのような集中型の行為から導き出すことができるのではないか。懸け詞という中心をつよく意識するか、前半部と後半部との対立と見るか、屈折はそこにある何か―歌の地下にある何か―を覗きこむ装置であって、そこから深く降りてゆくことなる。

(同書, p.19~20)

本論はここで出発点に立ち戻ったことになる。なぜならば、<二分心>から意識への移行と、双分的発想から三分観への移行との間に想定される並行性こそ、本論を導くモチーフだったからである。そして本論では、その並行性を神歌の中に直接見出すのではなく、村落の構造認識、祭祀組織や祭祀の形態、神歌の行為遂行的な側面での分類といった間接的な仕方で確認しようとしてきたことになる。検討の成否についての判断は措くとすれば、その結果として漸く神歌そのものに向かう準備が整ったというように認識している。その出発点の確認を以て、本論を閉じることとしたい。

最後に『<うた>起源考』が上に引用した冒頭から、「深く降りてゆく」その往きつく先を確認してみよう。それは、文語定型からの距離感もまぶしい「<次世代>短歌が引き返し不可能なシーンで二十一世紀を進化させている」(同書, p.431)状況である。そこで実作例を取りまぜて示しつつ藤井は以下のように結んでいる。

短歌に見る二つの文法―意味論的な<文法>とそれを下支えする主体の文法と―が限りなく同一化し自在な作歌へとさらに進化するのだろう。そのことは現代詩においても次世代詩が進行するから、両者のまがきは低くなって、いつか定型と非定型とだけが向き合う終末に至ろう。

(同書, p.431)

これを承けて、当否に是非はあろうけれども、ジャンルの違いを超えることをここでも敢て試みるならば、宮古島狩俣の神歌から三輪の「逆シミュレーション音楽」へと往きついた先にも構造的に同型な状況があるとは言えないだろうか。結局のところ本論は、極めて断片的な仕方、予備的なものに過ぎないとはいえ、そうした道行に誘われて踏み出した第一歩なのではなかったかというのが、本論を終える地点での偽らざる実感である。その実感を噛みしめつつ、更に少しでも前に進むことを期しつつ、ここで一旦筆を擱くこととしたい。


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