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落穂拾い:『人新世の「資本論」』における芸術の価値についてー「ドイッチュ『無限の始まり』における持続可能性批判についてのメモ」余録(2)

公開にあたって:既にマーラーに関して別に、「備忘:mathesis singularisとしての「マーラー学」?―アドルノのモノグラフを手掛かりにして―」という記事をnote上で公開していますが、その中で本稿(1)の末尾で展望した「音楽をはじめとする芸術の価値の扱いに然るべき修正を施すことによって「価値」概念自体の組み換えを行うこと」についての若干の補足を行っているので、この文章との繋がりを確保するための若干の編集をした上で、末尾に追加させて頂きます。その上で、私にとってマーラーに関するマガジンに集積されたアーカイブが「マーラー学」というmathesis singularisであるのと同様、三輪さんに関するマガジンのアーカイブに集積されたアーカイブもまた「三輪学」と命名でき、やはりmathesis singularisであることを申し添えさせて頂きたく思います。(2023.2.23,26, 2024.12.28 noteにて公開にあたり最低限の文言調整。)


(承前)

 それではそのような「価値」概念自体の組み換えは如何にして可能になるのでしょうか?ここではロラン・バルトの作者と作品の関係についての再検討がその入り口の一つになり、更に彼が遺著『明るい部屋』で提起して実践したmathesis singularisがそのための方法となり得るのではないかということについて、極めてラフな仕方ではありますが若干の素描を試みたく思います。

 作者と作品の関係について、例えばマーラー自身の音楽が「自伝的」であるようには三輪さんの音楽は「自伝的」とは言われないでしょうが、その一方で三輪さんには「ノンフィクション作曲」であると規定された作品が存在します。ではそこでの作者と作品の関係についてどう考えたらいいでしょうか?更にはマーラーの音楽が「ありえたかも知れない世界の構築」としての「時間の感受のシミュレーション」である点に対応して、三輪さんの「逆シミュレーション音楽」を始めとした多くの作品が「…という夢を見た」という枠組みを持つ点はどうでしょうか?人とその作品は、両者が分かち難く結びついているマーラーの場合ですら、バルトの批判した作者と作品との間にある心理学的な関係とは全く無縁であるように、三輪さんの場合には心理的な関係が明示的な仕方で一旦切断されていることは明らかです。そしてそのことは更に三輪さんが、既に引用した「369 Harmonia II」のプログラムノートにおいて音楽を「才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのもの」「では決してな」く、「人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法」と考えていることに繋がっていくように思われます。

 その関係は、そもそも生産ー演奏ー消費という記号論的三分法が暗黙裡に前提として疑わない、「ものを生産する」こと、それを「使用」したり「交換」したりすることを範例とするパラダイムでは捉えられないものなのであって、mathesis singularisは一見そう見えたとしても、単に生産の側から消費の側に重点を移し、後者により多くの自由度を付与しただけのものではないでしょう。バルトの『明るい部屋』における「喪の体験」もそうしたパラダイムから逃れでるものの一つであるでしょうが、それは「喪の体験」だけで尽くされるものではなく、ここでの「ノンフィクション作曲」という姿勢、或いは「…という夢を見た」という枠組みもまた、そうしたパラダイムから逃れ出るための方法だったのではないでしょうか?

 しかし、そもそも単に使用価値とか交換価値では捉えきれない独自の価値ということであれば、商品の物神的性格に関して指摘される物象化に伴って現象するファンタズマゴリーもまたそうではなかったでしょうか? バルトの方は記号論的分析によって「神話作用」を告発し、アドルノは『ワグナー試論』において、ワグナーの楽劇がファンタズマゴリーに他ならないことを指摘して見せたのではなかったでしょうか?

 ファンダズマゴリーについてはベンヤミンがパサージュ論で定式化したものが有名で、アドルノの上記の議論もその線に沿ったものですが、そもそもファンタズマゴリーは『資本論』の商品の物神的性格について論じた箇所、物象化について述べたところ(『資本論』第1巻第1章第4節「商品の物神的性格とその秘密」)で、使用価値とか交換価値とは別に物そのものが人々の欲望を掻き立てるという現象を指し示すのに導入した言葉であったことを思い起こすならば、ファンタズマゴリーに注目することは『人新世の「資本論」』への応答というここでの文脈にも合致したものに思えます。『資本論』が交換価値の分析を資本主義的生産様式の基本として捉えたこと自体、既にベンヤミンの時代には商品がとる幻想的形態とそれに対するフェティッシュな関係が支配的となりつつあったことを踏まえれば、既に時代に即したものではなかった可能性すらある訳で、所謂「消費社会」の成立後、21世紀になって書かれた『人新世の「資本論」』がそれを取り上げないことが不思議に思えてきさえします。

 そうした状況に対して、更に技術的特異点(シンギュラリティ)が具体的なものとして議論されるようになった今日の状況を踏まえつつ、ディズニーランドこそがファンタズマゴリーの現代的形態の典型的事例であることを三輪眞弘さんは指摘しています。

「確認しよう・・ディズニー映画からディズニーランドが生み出されたように、現代社会は「あの世」から多大な影響を受け、20世紀「この世」は「テーマパーク」のようになった。つまり、不道徳なものは除いた上で、このテーマパークの中では誰もが、もはや人間ではなく、平等で笑顔で楽しく清潔な「お客様」でなくてはならない。それはアニメ映画のような幼児的世界の模倣である。」

(三輪眞弘「魔法の鏡 または、三浦基氏に宛てた「光のない」の私的パラフレーズ」より一部を引用, 初出はF/Tジャーナル創刊号)

だがだからといって、使用価値とか交換価値では捉えきれない独自の価値が問題であることは確かなのであって、その価値がファンタズマゴリー的なものとは異なるための条件なり、それを見分けるための徴候なりを突き止めることが求められているのではなかったでしょうか?そしてpunctumこそがその徴候であり、「喪の体験」こそがそうした実例の一つなのであり、mathesis singularisは使用価値とか交換価値でもなく、さりとてファンタズマゴリー的なものとは異なる価値を擁護するための方法なのではないでしょうか。

 とはいえその擁護がますます困難になっていることにも留意する必要があるでしょう。上に引用した三輪さんの文章での「あの世」という言葉の用法が物語っているように、全てを特徴量に還元し、徹底的に数量化し、特殊性を統計分布上の外れ値として除外する統計処理が支える緻密なマーケティングと、感性的なものを制御し、現実の拡張や仮想的なものとの融合さえ実現しつつあるテクノロジーの圧倒的な力に浸蝕され、パトス的なものすら制御され回収されかねず、punctumが拠り立つべき地盤がどこにあるかすら危うくなってきている中で、ファンタズマゴリーはしっかりと使用価値と交換価値の回路に回収され、管理と支配の道具となっている現実に加えて、更にはシンギュラリティの向こう側では、「あの世」すらかつてのようではなくなり、「喪の体験」すら徹底的な変容を受けたり、ことによったら消滅したりする可能性さえあります。

 そうした展望を踏まえるならば、具体的な相に関わる部分については再解釈が必要になってくることになるでしょう。それは本稿のもともとの目的を大きく逸脱する作業となるため、後日を期することにさせて頂きたく思いますが、一言だけ見通しについて付言するならば、使用価値でも交換価値でもない価値の領域というのは、三輪さんの実践する「音楽藝術」と「人文学」とが関わる領域であると同時に芸術の姿を借りた「ファンタズマゴリー」の支配によって浸蝕されつつある領域であり、感情までが支配され、制御され、搾取される危険に対して、尚も「音楽藝術」と「人文学」は批判力を有するものであることを示すことがmathesis singularisの役割である、というのがラフなスケッチになるでしょうか。

 mathesis singularisは「喪の体験」を含めた「対象」なり「出来事」なりとの異なった関り方に依拠し、かつそうした異なった関わり方自体を対象としたものなのです。ここでは示唆に留めるしかありませんが、元々のバルトの文脈においてもまた、そこには特定の、個別の「他者」との関りが存在していたこと、否、そればかりがその関りにこそ全てが賭けられ、それ故に「写真のノエマ」たる「それは-かつて-あった」が特別なパトスを偶然に帯びることになったという消息が思い起こされます(「写真論」として『明るい部屋』を読もうとする場合には逆向きに、「それは-かつて-あった」の方がより基本的なものであるかの如くに受け止められがちですが、決して向きは逆ではありません。)。寧ろここではmathesis singularisによって、(mathesis universalisにおいてのように)「他者」を客観的な分析対象とするのではなく、「他者」として迎接し、歓待することが前提となっており、そうした「他者」ーpunctumをもたらす存在ーへの応答こそがmathesis singularisを成立させる必須の契機なのではないかと私には思われてならないのです。

(2023.2.23,26追記, 2024.12.27 noteにて公開)


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