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モノローグ・オペラ「新しい時代」の再演に接して(後半)


(承前)

0.はじめに

以前私はこの作品を含む「新しい時代」の系列の作品群について「ミイラ取りがミイラになる」危険について記したことがある。この作品に先行し、かつ四人のキーボード奏者がフォルマント合成の原理によって「言葉の影」を浮かび上がらせるという側面を共有する「言葉の影 またはアレルヤ」ともども、少年Aの事件やオウム真理教の事件との関わりについてはしばしば言及されてきたのだが、「ノンフィクション作曲」であったり、架空の教団の典礼音楽という体裁を取ることは、そこに批判的な契機があるとしてもなお、批判しようとする当のものに限りなく似てしまうという点に危険があるように感じられたのであった。ただしそれは、たとえ映像や録音の記録を介してであったとしても、実演に接していない以上は所詮は予断に過ぎなかった。

そしてようやく今回実演に接しての印象は、前半部分に記載の通りである。幾つかのその場での誤認と、それを通じて得られた新たな認識も含め、実演に接したことで作品に対する認識が変わった点もあれば、依然として解消されない違和感もまた存在する。私にとって「謎」であり「問題」であったこの作品を可能な限り理解するためには、そうした違和感の拠って来るところ自分なりに突き止めておく必要があるだろう。勿論それらは容易な解決を拒むものであるかも知れないし、そもそも解決できるものであるかもわからない。安易な整除はプロクルステスの寝台の喩え宜しく、受け止めたものを裏切り作品を矮小化しかねないことに注意しなくてはなるまい。

しかしながら、この作品の再演という出来事は一回限りの実演の感想としてまとめて事足れりとはできない広がりを備えていると私が考える。一つにはモノローグ・オペラというジャンル規定が示唆するような作品の複合的な性格があり、その背後には、初演当時の作品が向きあっていた様々な背景が存在する。更に加えて17年を経ての再演によって浮かび上がってくるものもあるだろう。まずもって今日の社会的・技術的状況に照らしてこの作品の持つ射程を再確認すべきだろうし、この作品以来、現在に至るまでの三輪さんの活動からこの作品を振り返ることにより、作品の位置づけを確認すべきだろう。そしてそれは単なる同時代的な問題意識を読み取ることに留まらず、より長大な歴史的パースペクティブにおいて「音楽」とは何かを問うという三輪さんの問題意識をほんのわずかでも辿ってみる試みとなるに違いない。

これも前半の感想で記したことであるが、私はそもそもこの作品の良い受容者たりえないかも知れないのだが、その自覚を踏まえた上で、同時代の人間の義務としての可能な限りの「応答」を試み、それを記録しておきたいのである。たとえそれが誤認を含むものであるとしても、あるいは単なる予感に留まるとしても、それを受容するためにこのようなアプローチが行われたという事実の記録には後日価値があるであろうことを願いつつ、視点の発散を懼れずに、思いつく限りのことを出来る限り記録しておこうと思うのである。

以下、幾つかの切り口からこの作品へのアプローチを試みることになるが、多岐に亘る記述にパースペクティブを与えるべく、まずここで、実演に接した現時点におけるこの作品に対する私の了解の簡単な見取り図を与えておきたい。

前半の感想の末尾近くで記したように、「新しい時代」という作品は、儀礼を仮構し、それを作品の本質的な契機としつつ、だが儀礼そのものではない。「固有の声」が奪われ、「歌」を歌うことができないという自己疎外がまずあって、そうした現実からの救済を求めて、「儀礼」に呼び寄せられ、「記号化」による自己の否定を希求するという運動がある。その疎外をもたらした状況の少なくとも一部は社会的・文化的なものであるけれど、ある部分から先は、恐らくは(ダマシオの意味合いで)自伝的な意識を持ち、延長的な自己を持つようになった「人間」の在り方そのものに由来する宿命的という見方もできる構造的なものであろう。そしてそうした「人間」の存在の構造は、テクノロジーによって支えられている。ここでいうテクノロジーには、言語や道具の発明、文字による情報の共有と保存といったレベルのものから、最新のデジタルテクノロジーによる知覚や自己認識の変容までが含まれる。そしてそうした人間の存在の構造にとって「音楽」はベイトソンの言う「無意識のエクササイズ」であり、構造的に孤立する傾向性を持つ「自己」が、広い意味での「他者」(自分がそこに帰属することを確認することになる社会集団のみならず、自分とは異質の存在により構成される生態系としての「外部」)との関わりを維持するための手段である。だがそれは一方では「洗脳」にも繋がる暴力性を孕んでいて、救済の契機であるはずの「儀礼」が更なる疎外を招く危険が存在する。「新しい時代」はかくして「儀礼」にしか救いを求めることが出来ない存在の「声なき声」を取り戻す試みであるとともに、「自己」からの開放が、「延長的自己」が自分の内部に自分を支えている外部を発見し、無限へのアプローチすることに繋がらず、生物学的な個体の消滅(それは自分自身に向くだけではなく、他者にする暴力ともなりうる)に帰着する危険に対する告発の試みの一つであると考えることができるように思えるのである。つまりここではテクノロジーも、そして常にそれと密接に関わってきた音楽も、その両義性が踏まえられており、それらの儀礼への適用もまた、それらが持つ力の大きさ、効果の大きさが時として危険を孕むこと、だがその危険は決して本来の目的からの逸脱ではなく、時として見極めがつかないほど微細な差異によって、容易に濫用と転化しうることを、いわば「身をもって」示していると考えることができる。

そしてそれは三輪さんの活動を貫く志向であるとともに、単に同時代的な状況の批判であるに留まらず、ジュリアン・ジェインズのような意識の考古学、スティグレールのような技術と意識との関わりの解明のみならず、カーツワイルのような特異点論者(シンギュラリタリアン)が素描する近未来の展望をも含みうる広大なパースペクティヴの中に位置づけられて然るべきと思われる。同時にそれは、上記のような展望のもとで「音楽」を解体して再構築することにより、「ありえたかもしれない音楽」を仮構しつつ、「ありうべき音楽」のデザインを構想し、シミュレートする実践として捉えるべきであると私は考える。

このような了解に基づき、以下、幾つかの視点で「新しい時代」について更に考えてみたい。視点は時として交錯し、重複も生じるだろうし、多くの場合は分析と呼ぶには程遠く、後の分析のための素材を列挙するだけになってしまうだろうが、さしあたりはそれらを整理して、一貫性のあるものとすることは放棄して、同じものを色々な方向からアクセスするといった状態を容認することについて予めご了承頂きたい。

1.テキストについて:その前史と現時点での展望

この作品に接して、或る種のいかがわしさや居心地の悪さを感じ、拒絶反応を示すとしたら、それは表面的には三輪さんが用意したテキストが仮構する「教義」がもたらす部分が大きいのではないだろうか。それは三輪さんが用意したテキストがフェイクとして極めて巧妙に編まれていることを意味するのだが、その直接的な典拠はブラヴァツキーの神智学やシュタイナーの人智学の教義に求めることができるだろう。

例えば世界を書物と見做す発想そのものは決して特殊なものではなく、影響力の大きさからいけば、先ず何よりもマラルメの「書物」が直ちに思い浮かぶし、日本において人口に膾炙したところでは、例えばジッドの「田園交響楽」の一節にも出現し、これはこれで19世紀末西欧の神秘主義、あるいは降霊術を初めとする心霊主義との同時代性を感じさせる。その一方で、20世紀後半のデジタルコンピュータの発達とともに出現し、今やSFのアイデアとしてすっかりポピュラーになった感のあるデジタル物理学のような発想との親和性も認めうるだろう。だが、ここでの「書物」はやはり「アカシック・レコード」のパロディであると考えるのが自然であり、であるとすればやはりブラヴァツキーの神智学ないしシュタイナーの人智学から借用されたものと考えるべきだいうことになる。

西欧音楽の伝統において、正統的なキリスト教の典礼以外の参照先を持つものとしては、私の馴染みのある範囲に限っても、例えばフリーメイソンとの関わりが語られる「魔笛」、中世の神話に基づく「パルジファル」、更にはブラヴィツキーの神智学との直接的な関わりを持つスクリャービンの音楽が否応なく想起される。他方ドイツではシュタイナーの流れというのが音楽の領域にもあり、オイリュトミーとか、その伴奏のための人智学音楽というのが存在し、その流れの中では上述の作品はいずれも人智学音楽の先駆と見做されているらしいし、近年では例えばカルコシュカが現代音楽との融合を試みていることが思い浮かぶ。日本ではシュタイナーは専ら教育の実践的な手法の側面に限定して受容されているようであるが、人智学はドイツでは決して影響力がないわけではなく(有名なところでは緑の党)、ドイツに住んでいたこともある三輪さんがそうしたトレンドを意識することはあっただろう。

勿論それが音楽学者の仕事として重要性を持つことを否定するわけではなくとも、そうした作品成立に関わる事実関係はどちらかといえば周辺的な話であるかも知れず、そもそも私自身は影響関係といったような側面への興味はほとんどないのだが、聞くところによるとオウム真理教の教義の基層にも神智学の影響は認められるらしく、そうであってみれば、三輪さんがここで用意したテキストは、それがどれくらい意図的であるかによらず、17年前の個別の状況に対して極めて戦略的な意味合いを持つことになるだろう。だがそれよりも、こうした発想がいつの時代にも繰り返し繰り返し現われ続けていることの方を重視すべきであって、従ってそれは単に17年前の個別の状況に対する戦略であるに留まらないと考えた方が良いのではなかろうか。

同様に、日本において人智学音楽について言及されているのを私は寡聞にして知らないが、それに限らず、既成の宗教の枠組みであっても、あるいは他のイデオロギーであっても、或はそうしたものへの拒絶の立場であったとしても、結局、西欧の作曲家のやっていることのあるディメンジョンというのは、日本に居る限りほとんど関わりがないのは多分確かなことだ。けれどもその一方で、三輪さんの作品、特に日本に戻ってからの作品を、専ら同時代の日本の世相の文脈でしか語らないこと、それを批判と捉えるにせよ、危険な模倣と見做すにせよ、そうした側面だけをもって作品に接するのは、これはこれで「消費」の一形態に過ぎないのではないかという気がするのである。

さりとて再演にあたり、作品を単に現在の文脈に移し替えてみて、単に、AIブームとかシンギュラリティとかの文脈に嵌め込んでみても(それはそれで意味があるし、勿論やっておくべきではあろうが)「消費」という点では変わり映えしないように思えてならない。それは再演の意味を取り逃し、ひいては「新しい時代」という作品がまさにフィクションとして仮構することによって批判している点を取り逃しているように思えてならない。

例えばパスキネッリは、論文「機械学習の時代における異常な大脳化」において、今日再び流行となっているAIについて、それを「計算アニミズム」であると規定しているようだし、機械に対するアントロポモルフィスムによる擬人化については、それが非常に長い伝統をもつものであることの跡付けは既に幾つか為されているのを確認することができよう。また前田さんがパンフレットにおいてAIを神とする宗教団体について言及しているが、そうしたものとの比較から、この作品のモチーフもまた、それを情報の物神化によるアニミズムと見做すことは不可能ではないだろう。だが錯覚してはならないのは、この作品が現在の空気を捉えて今、産み出されたばかりなのではなく、17年も前に書かれている点である。そうしてみれば今日ますます明らかになりつつある兆候を遥か以前、17年も前の作品が捉えていて、恰も今日の状況のために書かれたものであるかにさえ見えるのは驚くべきことのように感じられる。実際、そのような主旨の解説を、これもやはりパンフレットに伊東さんが寄稿しているし、それが故に今回の再演に向けた取り組みを続けて、このタイミングで再演を実現した伊東さんの慧眼には敬服する他ないのであるが、にも関わらず、私が驚くのは寧ろ、今になって振り返ってみると、今日顕在化したかに見えるそういった状況の兆候がまさにこの作品が作られた17年前にすでに明確に萌していることが確認できるということの方なのである。

一例を挙げるならば、伊東さんも言及している「シミュレーション仮説」は、それをボストロムのものであるとすれば、その発表時期は寧ろ初演の時に近い2002年あたりなのである。勿論、発想だけであれば、例えばレムの「我は僕ならずや」は1971年に出版された著作集「完全なる真空」に収められているから半世紀も前のことになるし、デジタル版でなくて良ければ日本においても、1965~6年に雑誌連載された光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」は、この宇宙全体が宇宙外部の存在が構築した実験設備の内部に過ぎないという着想に基いて書かれているし、更には個体の情報をデジタル化してチップのような媒体に記録して保存することで破滅から逃れようとする都市のエピソードさえ存在する。そういえば「2001年宇宙の旅」だって、AIとなると決まって取り上げられるHALではなく、モノリスに纏わる地球外生命体の進化の方に「デジタル物理学」に通じる発想を認めることができようが、この作品の執筆も1968年であり、これら一連の作品は、1950年代後半に始まる人工知能研究や、これもやはり同時期に本格化した宇宙開発の初期のトレンドの反映であり、最近になって突然出てきたものなどでは決してないのである。

もう一つだけ挙げるとこの作品の初演が行われた2000年あたりの時期というのは、人工知能研究にとってはいわゆる「冬の時代」だったと記憶するが、これまた最近すっかり人口に膾炙してしまった技術的特異点(シンギュラリティ)の提唱者であるカーツワイルが「スピリチュアル・マシン」を出版したのは1999年のことである。従って寧ろやっと世の中が追い付いてきたと見做すべきであって、三輪さんの活動を正しいパースペクティブで理解するためにもこうした状況の確認は必要なことであると思う。

既に述べたように「遅れてきた者」である私が三輪さんの作品に接したのは、この作品の初演に遅れること数年のことだったが、その取り組みを知った当時の私は、自分が見ている風景と同じ風景の中で、分野は違えども問題意識を共有して活動している、本当の意味での「同時代の」作曲家にやっと出会えたという思いを抱いたことを昨日のことのように思い出す。そしてそれは当時の世相に対する反応という点ではなく、敢て単純化した言い方をすれば、機械に作曲させるということを創作の基本に据えることで、逆に人間が置かれている状況が浮かび上がってくるその様相を作品に定着させようとする姿勢においてであった。「新しい時代」が「謎」であり「問題」であるというのも、素材である事件が原因である以上に、それを媒介として仮構された「作品」が含意するものの方にこそその原因があったのである。その認識はその後も変わることがなかったし、ようやく接することができた「新しい時代」の実演の後も変わっていない。

一見したところ、場合によっては誤解を受けかねないようなギリギリの条件に作品を置くことでしか可能にならない原理的という意味でラディカルでかつ具体的な批判をどのように受けとめるのかこそが問われているのであり、それは多分に戦略的に設定されたテキストの表面的な装いへの反応ではなく、それによって示されるものをまずは身体的に受けとめることによってしか可能ではないと考える。であるとするならば、まずなによりもこの作品の上演の性格の問題、即ち、それが儀礼の装いを帯びていた点を問わなくてはなるまい。

2.「作品」が「儀礼」そのものとなる危険

作品の構造の観点から「新しい時代」を三輪さんの他の作品と比較してみると、まず近年の作品として「59049年カウンター」「愛の賛歌」あるいは「算名楽」といったシアターピースが直ちに思いつく。それらは「逆シミュレーション音楽」の系列のパフォーマンスを伴う作品に比べても、あるいは「新しい時代」の母体の一つである「言葉の影、またはアレルヤ」と比べても、舞台空間に関する指示があること等からより複合的ではあるけれど、アルゴリズミック・コンポジションの状態遷移が作品の時間構造を支配する点においてはそれらと共通しており、「新しい時代」との比較においては、より統合的、求心的であると言えるだろう。

「新しい時代」はモノローグ・オペラと題されているが、その時間秩序を支配するものは「式次第」という音楽外の構造であるという点で、音楽作品として見た時、より雑種的であり、その限りで伝統的な「オペラ」との接点を見出すことはできよう。ただし番号付きオペラで見られるような場面展開と番号付けされた楽曲の継起の順序との間の拮抗(多くの場合には妥協に終わり、結果的に劇的な展開に無理が生じ、或いは音楽的に弛緩したものとなるのだが)はここには存在しない。全体は「儀礼」が進んでいく過程に統合されており、その順序に従って幾つかの楽曲が継起するようになっている。ここでの時間秩序は「儀礼」の構造に従属していると言ってよいだろう。それは西欧のオペラが結局のところ「音楽」の優位にあること、ワグナー以降の楽劇においてさえ、音楽的な統合性への意識がなくなったわけではないことを思えば、それとは異質のものと考えるべきかも知れない。寧ろ受難曲やミサ曲、レクイエムをはじめとする典礼のための音楽との類比の方がより適切のようにも思える。

であるとすれば寧ろ感想を書くにあたり類比の為に参照してきた能楽との対比との方がより興味深い。能は、それ事実がどうかは問わず、伝承や物語に取材しているが、その構成は典拠とは無関係な独自の論理を備え、明らかに祭祀的な起源を持っていて、寧ろ自己の論理の中に元の物語を変形・加工して取り込むという特徴を備えている。とりわけ世阿弥により完成された複式夢幻能は基本的に亡霊であるシテの鎮魂を目的としていて、ワキによる追善供養、シテの成仏という枠組みを持つ。テキストについても能は物語の単純な再現ではなく、大抵の場合には元の物語の様々な伝承に加え、様々な典拠からの膨大な引用を含むものが多く、しばしば綴れ織りと形容されることがある雑種性を強く帯びているが、この点においても後にやや詳細に見るように、三輪さんの脚本は、既成の神秘主義の教義などを典拠としたものだから、類似性を見出すことは不可能ではあるまい。

ちなみに逆シミュレーション音楽は寧ろこうした能的な作品の生成の構造を転倒させたものと見ることができるだろう。伝承に取材するのではなく、音楽を生成する手順が先にあって、伝承は後から付加されるのだ。それに対して「新しい時代」においては後から付加される伝承は存在せず、一見したところ儀式が先行し、恰も音楽が儀式に奉仕しているような様相を呈する。結果として逆シミュレーション音楽のコンセプトが備えている自覚的な批評性がここでは一見欠落しているように思われ、しかもそれは上演を「儀式」として演出しようとする意図により一層強化されているかのようである。かくしてここでは「作品」の上演は、「儀礼」の遂行そのものであろうとしているかのような様相を呈するまでになる。

だがそのような、「作品」であり「儀礼」であるような存在を既存の芸能の中に求めることとて不可能というわけではない。数多くの伝統芸能、あるいは相撲のようなスポーツに近いものでさえ、未だにその儀礼性は根強く存続しているし、能楽の周辺であれば「翁」のことが直ちに思い浮かぶ。「翁」は今なお、鑑賞されるべき「作品」ではない。通常の能と異なり、いわゆる筋書きもなく、恐らくは太古に起きた何らかの出来事の記憶を留めた痕跡なのだろうが、その出来事の方は既に忘却され、季節の巡りとともに反復される「儀礼」として固定化されたものと推測される。詞もまた、かつては呪術的な機能を帯びたマントラであったのか、今や意味が定かでない部分を含み持つ。それは例えば新年の最初の催しで演じられるに相応しく、そうした機会に接すれば見所もまた、それに対してまさに「儀礼」として接することになる。それは芸術作品よりも神楽のような神事に近いのだが、「翁」以外でも、能楽においては神格をシテとする「脇能」に分類される作品群もあり、その境界は流動的であると言って良い。

そうした対比に加えて三輪さんが「言葉の影 またはアレルヤ」のことを「ノンフィクション作曲」と自己規定したことを思い浮かべると、「新しい時代」への接し方としても、実は3つのモードが可能であることになるだろう。最初はそれを「出来事」(のドキュメント=ノンフィクション)として捉える立場、次にそれを「作品」として捉える立場、最後にそれを「儀式」として捉える立場。加えて複合的なモード、例えばある時ある場所の「儀式」で起きた「出来事」のドキュメントというような立場も論理的には考えられるかも知れない。

端的に言って、これは「儀礼」なのか「作品」なのか?あるいは「出来事」の記録なのか?注意すべきは、能とて物語を「演じて」いるには違いないし、それは「作品」の上演でしかないが、まさにそのことによって「奉納」たりえているという消息があることだ。では「新しい時代」はどうなのか?こちらは「作品」を装った本物の「儀礼」なのか、それとも能と同様、「作品」の上演がそのまま「奉納」なのか?作品の上演に儀礼「として」接するという時、それは「儀礼」を題材とした「作品」なのか?それともやはり「儀礼」としての「作品」(儀礼=作品)を前提としているのか。もちろん、この場合に想定される答は「儀礼」を題材とした「作品」の上演にあたかも「儀礼」であるかのように接するということになるのだろう。しかも「儀礼」が仮構されたフェイクであるという条件が更に付加された上で。それがメディア・アートないし現代音楽としての「新しい時代」において前提とされている枠組みではなかったのか?

だが私が抱いていた違和感は、そうした「作品」の必ずしもそのようにはなっていないのではないか、あえてそれを攪乱することが意図されているのではないか、という点に存したのであった。三輪さんの場合、この作品に限らず、それが通常のコンサート・ピースであったとしても、そこに儀礼性、祭祀性をもたせようとする意図は明確であるようだが、この作品においてそれは仮構された「儀礼」の「作品」でありながら、一方でその実質において限りなく「儀礼」そのものであろうとする志向を孕んでいるように感じられたのである。それが仮に批判的意図を潜ませたものであるとしたら、戦略的な手段であるはずのミメーシスが、成功しすぎてしまってそのものと化してしまい、その結果、意図を裏切ることになり、ミイラ取りがミイラになる危険を感じたということである。

この「儀礼」のパロディとして「作品」は「儀礼」そのものに似すぎていないだろうか?この作品に較べれば、既にその枠組みが「方法論」として示されている点で誤解の無いはずの「逆シミュレーション音楽」においてさえ、三輪さんが創作した「由来」を実在の伝承と勘違した人が実際にいたようだが、この場合はどうだろうか?さすがに最近はそういうことはなくなってきているようだが、この作品が初演されて以降も、三輪さんの「意図」するところについて早とちりをしてしまったり、あるいはその「意図」を測りかねたりといったことは起きていたように記憶している。とりわけ「新しい時代」系列の作品は、コンサートを「礼拝」、「集会記録」と呼ぶことにより文脈を持たない人間が局所的な情報だけで判断すれば、「本物の」新興宗教のために書かれた典礼音楽であるという誤認を生じても不思議はない。

この作品の背景として語られるオウム真理教は、実際に広範な音楽活動を行っていたことが知られている。私はそれらのうちのどれ一つとして実際に聴いたことはないから、それが音楽としてどうであったかについての予断は控えるべきだろう(ちなみに一般にはプロパガンダのための音楽、とりわけ政治活動を行った際に用いられたものが良く知られているようだが、ロシアでは専属のオーケストラを有し、幾つかの交響曲さえ書かれ、「来日公演」で演奏されたらしい)が、もし仮に「新しい時代」が「本物の」宗教音楽であったとしても、作品としての完成度の高さ、演奏の素晴らしさ故に、それは「成功」したのではないか。いや、実際には良く似た教義を持った新興宗教が既に存在する/した、あるいはこれから存在することだって十分に考えられるだろう。「新しい時代」に教唆されて、そうした活動が生じることさえ想定できはしまいか?

実際、この作品に接した時に感じされる危うさの感覚は決して些細なものではなかった。繰り返しになるが、作品の、演奏の完成度が高ければそれだけ、却ってそうした感覚に対する異議申し立ての、抵抗の意識が抵抗しがたく湧き上がってくるのを押さえることができなかったのである。

そういえば、始まってから割合とすぐにだったと記憶するが、客席を立った人がいたように思う。勿論理由はわからないし、確かめようもないけれど、それが拒絶反応が故であったとしても私は驚かないし、実際にそのようなことが一瞬頭を過ぎったことも覚えている。それを直ちに「禍々しさ」「毒」と言ってしまえばそれはそれで一面的な切り取りになってしまうが、私自身、どこかで違和感をずっと抱えつつ上演に立ち会わなかったといえば嘘になるので、そういう意思表示があったとしたら、(日本ではそうした意思表示に遭遇することは滅多にないようではあるが)それはそれで意味がないことではないとさえ思ったのである。

今回の上演で、「アレルヤ」のパートが終わり、再びれいしうさんの詠唱を経て、神の旋律が鳴り響いたとき、それまでサイン波の合成による「声」を聴いていた私は、れいしうさんの声の背後に、西欧のかつてのオルガン音楽のような響きを聴き取って、一瞬、いつの時代の様式の音楽を聴いているのかがわからなくなってしまってたじろいだことは既に書いたし、生の声、四人の奏者の「合奏」による人力フォルマント合成が浮かび上がらせる声、フォルマント合成により生成された人工合成音声に加え、それらのサンプリングの再生が交錯する音響の空間がもたらす目眩のような効果についても記した通りであるが、何にも勝ってれいしうさんの生の声が響くとき、「電子音響」の利用に代表されるような狭義のテクノロジーに依存することが明白になる遥か以前のそもそもの始めから、「音楽」が人間に対する働きかけの点において根源的にテクノロジカルであることの具体的な開示を、つまり、音楽がもしかしたら初めから備えていたかも知れない、人間の感覚や身体に働きかけて「魔法をかける」という呪術的な側面が、根源的な暴力性を孕んでいること、音楽はその起源から、 知覚を介して意識の奥底にある無意識のレベルに容易に浸透しうる、いわば「魔法をかける道具」として、原初からテクノロジカルなものであるという事実の開示をそこに見た思いがしたのである。

3.「ありえたかも知れない宗教”音楽”」、あるいはデジタル時代の音楽考古学

結局、この作品を単なる批判、告発の「ための」存在と見做すことは、こちらはこちらで行き過ぎであるし、何よりも実演に接して感じた実質を裏切ることになる。受け取ったものは単純な概念化を拒むようなものであるとはいえ、あえてそれを言葉に定着させようとするならば、この作品は「ありえたかもしれない宗教音楽」ではないだろうか、ということになるだろう。

三輪さんの多岐に亘る活動に共通する視点として、それが「ありえたかもしれない」何かを仮構し、のみならずそれを作品として定着させるという点をあげることができると思うのだが、この作品においても、それが適用できる、というよりこの作品こそ優れてそうである、というのが私の現時点での実感の一方の極なのである。三輪さんの作品では、少数の例外を除いて、人間による演奏=上演が必須の契機となっているが、それもまた、三輪さんにとっての音楽とは、「369 Harmonia II」のプログラムノートにおいて自ら規定するように

「音楽とは、才能ある人が抱いた思想や激情や繊細な感覚の揺らめきを聴衆に伝えるためのものなのだろうか? その例をぼくは無数に知ってはいるが、そんな一方的で趣味的なものでは決してない、といつも思っている。そうではなく、人間ならば誰もが心の奥底に宿しているはずの合理的思考を越えた内なる宇宙を想起させるための儀式のようなもの、そこには自我もなく思想や感情もない、というより、そこからぼくらの思考や感情が湧き出してくる、そのありかをぼくらの前に一瞬だけ、顕わにする技法ではないか?もし、音楽がそのようなものではないのなら、J・S・バッハの音楽などに感動できるはずもないし、現代では音楽など単なるイケテナイ娯楽でしかない。」

(三輪眞弘「369 Harmonia II」のプログラムノートより)

といったものだからであり、ここでは音楽は、近代的な自律的な美学の下ではなく、寧ろ儀礼的、祭祀的な性質のもの、これもしばしばそういわれるようにその上演が「奉納」として定義されるようなものなのである。寧ろ中世にそうであったような宗教音楽こそがあるべき「範例」となり、娯楽と気晴らしのための音楽にせよ、自律主義的な美学に支えられた芸術音楽にせよ、その後の音楽の歴史は、そうした本来の機能からの逸脱と見做されることになる。

フォルマント兄弟が、日本語以外の言語の歌唱、しかも西欧の古典的な作品の歌唱に取り組んだ最初の試みはペルゴレージの「スターバト・マーテル」の人間の声と人工合成音声による重唱であったが、その初演に際して、

「ソプラノ、さかいれいしう(人間)とラテン的声格のアルト、中音(なかね)マリア(人工音声)の二重唱による18世紀珠玉の名曲。聖母の如く音楽に跪きその死を悼む「初演」である。」

と作者自身により紹介されたのも、この作品と、この作品が代表する時代とともに何かが終ってしまい、その後の西欧音楽史というのは、 長く、そして華やかではあっても、その死に向かう緩慢なプロセスそのものであったという認識に基づくものであった。

私自身はといえば、岐阜のサラマンカ・ホールでの「電子音響音楽祭」において、上記のペルゴレージのスターバト・マーテルの再演が行われたのに立ち会うことができたのだが、そのときには、フォルマント兄弟の開発したMIDIアコーディオンを岡野さんが演奏した自動音声合成がアルトのパートを担当し、今回の公演で少年の役を演じているさかいれいしうさんがソプラノを担当して、ホール備え付けのパイプオルガンの伴奏で演奏されたのであった。そしてその演奏に続いて、この「新しい時代」の詠唱「訪れよ、わが友よ」が、今度はさかいれいしうさんのソロで演奏されたことは、今思えば今回の再演に向けての周到な準備作業の一環という以上に、「新しい時代」という作品がどのように聴かれるべきかのヒントではなかったかということに思い当たるのである。否、それがヒントではないとしても、百歩譲って、岐阜での公演に接し、なおかつ今回の「新しい時代」の再演にも接した人間であれば、否応なくそのように方向付けされてしまうことを拒むことは恐らくできないだろう。

その時の経験を振り返れば、最もショッキングだったのは、「訪れよ、わが友よ」を聴いた途端に、それまでの「電子音楽」の上演の時とうって変って、更には直前のペルゴレージの作品の人と機械の重唱の時にも増して、ホールが表情を変え、その本来の姿を顕したかのように思えた点であった。「電子音楽」の上演の場としての是非はともかくとして、ペルゴレージ作品こそは、このホールのアコースティックにより相応しい筈であって、そこまでは当然といえば当然のことだが、それを承けて、擬似カルト宗教のための作品において、あたかもそれが演奏されるために用意されたかの如くホールが響くのは、 圧倒的であると同時に「音楽」の、わけても「宗教音楽」の持つ危うさを感じずにはいられなかったのである。

人間と機械が祈りの音楽を重唱するという試みに対して今回は、人間の声がキャプチャーされると自動音声合成による「誰のものでもない」声に変容するという形態となったのだが、その点に関連して、やはり同様に「訪れよ、わが友よ」の演奏の時の印象が思い起こされる。その際には、最初だけパイプオルガンで、次いでサンプリングされたパイプオルガンの音で「神の旋律」が奏され、それが最後にはサイン波に変容するという趣向が凝らされていたのであった。

今回は勿論、パイプオルガンは用いられていないのだが、上演中、恰もパイプオルガンが背後でなっているように錯覚しそうになったことが幾たびかあって、それもまた、感想に記した「アルカイックな印象」に通じているのであるが、その理由を考えると、三輪さんがこの作品のために選択した音響組織の構造が旋法的なものであったことに加え、パイプオルガンが実のところシンセサイザーの原型と見做しうること、つまり(少なくとも理念的には)パイプをドローバーに見立てて、サイン波を加算合成して音色を生成するという発想で作られた楽器であるが故というのも要因として考えられないだろうか。

岐阜での「スターバト・マーテル」演奏の後、確か佐近田さんの発言だったと記憶するが、それまでのピアノでの伴奏と比べてパイプオルガンの音は人間の声に似ていることから埋もれてしまって聞き取りにくく、適切なバランスを見つけることに独特の難しさがあったことをおっしゃっていたが、それもまたパイプオルガンのそうしたメカニズムを考えれば納得できる。

「アルカイックな印象」とはいっても、例えばティンティナブリ様式以降のアルヴォ・ペルトが既存の宗教的な伝統への精神的な回帰を隠すことなく、結果としてそのような印象を与えるのとは異なって、ノスタルジックであったり退行的であるということはなく、テクノロジーに囲繞された現代の状況に即したカルト宗教を仮構するというリスクの上に、まさしく「ありえたかもしれない宗教音楽」と呼ぶのが相応しい「音楽」が実現されたように感じられたのである。音楽のみに聴き入っていると、17年前の作品の再演はおろか、時期と場所が特定できない、恐らくは遥か昔から伝承されてきたと思われる儀礼の、今日のおける復元に立ち会っているような気さえしてくる。優れた能の上演が、過去への遡及の感覚よりも寧ろ、現在は勿論、未来も含めた永遠に漸近する繰り返しの一回に立ち会っているといった感覚を見所に抱かせるのと或る意味では似て、ここでも「現在」の感覚はすっかり麻痺してしまい、装いは違い、権威づけの度合いは様々であっても結局人間は遥かな昔からずっとこうしたことを延々と変わらずやってきたのではないか、今もそれは別段変わっていないし、未来においても人間の存在様態を規定する基本的な条件に変化がない限りは、やはり変わらないのではないか、ということを思わずにはいられなかったのである。

「新しい時代」に示されたような「音楽」のありかたは、それこそ人間の歴史と同じくらい古くからのもので、これはそもそも(狭義の)メディアとかテクノロジーの話ではなく、寧ろ「音楽」こそがここで第一義的に問われていると考えるべきであろう。広い意味合いでメディアとしてテクノロジーとしての「音楽」こそが「神々の沈黙」後の人間の運命の同伴者であったということを、知的な認識という様態ではなく、上演を通して見事に仮構された「ありえたかも知れない」儀礼への参与という様態で、身体性と伴って経験した、というのが少なくとも私にとっての今回の上演の意義であったように思われる。私はその詠唱にグレゴリオ聖歌や中世の音楽の谺を聞き取り、サイン波のポリフォニーにパイプオルガンの音を聞き取りながら、そう感じた、ということのように思う。

4.「救い主の危険」、あるいは音楽自体の「おぞましさ」

私が感じた「おぞましさ」は、単に周到に準備されたテキストが巧みにオカルティズムのいかがわしさを模倣していることへの拒絶反応によるものではない。むしろ「ありえたかもしれない宗教音楽」をまのあたりにしているという感じに含まれる居心地の悪さの方をこそ分析してみるべきなのだろう。それは例えばバッハの音楽を聴くときに受ける印象と、三輪さんが選んだ旋律を聴くときに受けた印象に、このようなフェイクという文脈におかれてさえほとんど差がないことを認めざるをえなかった故の、あるいはまた、多分に批判的な留保を伴い、従って全面的な模倣に化さないまでも、それでも「作品」というフィクションの枠組みの中においてであれ、「ありえたかもしれない宗教」の虚像があまりにリアルに結ばれるのを認識したが故の感覚ではなかったか?そしてそれは恐らく、音楽作品としての完成度が高まれば高まるほど、或る意味ではそれが「成功」していればいるほど増すような構造になっているのだろう。

ここで私が思い浮かべるのは、マーラーの「第8交響曲」に関してアドルノが述べた「救い主の危険」という言葉である。いやマーラーでなくても構わない。人智学音楽の先駆とされる「魔笛」や「パルジファル」を聴いた時に感じる居心地の悪さは、それが纏っていると言われるイデオロギーのいかがわしさと音楽作品としての完成度の高さの共存にあるのであろう。「第8交響曲」「パルジファル」に関してアドルノは、それが形而上学の、あるいは救済の不可能性を示しているといった言い方をしているが、実際には形而上学は初めから常にそのような装いのものであり、救済もまたそのような形で人を誘惑し続けてきたということはないのか?

キリスト教や仏教の「音楽」というのは宗教の権威あって、それらが異端視されることはないし、今更席を立つ人もいないだろう。ある作品に、或はある解釈なり演出なりに逆向きの「冒涜」を読み取って、抗議の意を示すべく席を立つことはあるかも知れないが。一方で「魔笛」はともかく、「パルジファル」とか「法悦の詩」、「プロメテ」は音楽そのものよりも寧ろその音楽が纏っているイデオロギーの方が物議を醸したし、それらを歴史的な過去の出来事として済ませてしまえるわけでもない。否、イデオロギーということなら狭義の「宗教」に限定する必要もないわけで、旧ソ連のプロパガンダ(ショスタコーヴィチの作品の或る部分を思い浮かべれば良い)でも良いし、日本なら戦時中の皇紀2600年の音楽や、こちらは三輪さんが取り上げた「海ゆかば」を思い浮かべても良い。

だがしかし、例えば近作である「海ゆかば」に対する三輪さんの姿勢を思い浮かべるとき、17年前の、逆シミュレーション音楽以前の作品である「新しい時代」における三輪さんの姿勢には少なからぬ差異があるように思える。あるいはまた「59049年カウンター」のことを思い浮かべてみれば、いわば背景をなすシュトックハウゼンの音楽、「暦年」とそれ以降の作品が、例えば彼のカトリックの信仰とどう関わるのかの方は私には判然としないし、その作品の射程について述べるだけの資格を私は持たないわけだが、それに対する応答たる三輪さんの「59049年カウンター」の方はといえば、一方で明確に感じられる3.11を巡る現実に対する強いプロテストという姿勢とともに、「ありえたかもしれない音楽」あるいは「ありえたかもしれない儀礼」の最高度に説得的で豊穣な提示であり、寧ろ実演の印象は、その豊饒さの方が際立っていたのだが、それもまた、ある意味では最も統合されて、隅々まで作りこまれた作品である「新しい時代」に感じたものとは異質なもののように感じられる。

であれば、あくまでカトリックの内側でだが時折物議をかもしたらしいメシアンの活動、その中でも例えば唯一のオペラである「アシジの聖フランチェスコ」との比較はどうか?シュトックハウゼンの「光」にしろ、メシアンの「アシジの聖フランチェスコ」にしろ、そこでは昔ながらのオペラや楽劇同様の登場人物の複数性があり、その一方で作品の展開される場が「外部」を持たず、その意味でポリフォニックではない点でも「伝統的」に見えることが、「モノローグ」でありながら、「外部」を備え、あまつさえその結末において自ら仮構し遂せた筈の「儀礼」の外部を、それしかないような仕方で「幽霊的に」現出させもする「新しい時代」との比較には不十分であると言うのであれば、例えば、赤軍派のテロリストに取材したラッヘンマンのモノローグ・オペラ「マッチ売りの少女」ならどうだろうか?

私のように自分の容量の限界からアンテナの帯域を絞っている人間には、こうした比較を試みること自体、身の程を弁えない試みであって、こうしたことはそれだけの知識と能力のある方々に委ねるべきではあろうが、私が辛うじて対象に馴染んでいると言い得る狭い領域の中からもう一つだけ例を挙げれば、ヴェーベルン後期のカンタータ、あの模倣、紛い物として評判の悪いヒルデガルト・ヨーネの詩に基づく作品、だが他方で、彼が自分の出発点であるフランドル楽派との繋がりを自ら示唆さえした、あの作品群はどうなのか?アドルノはそれらをひっくるめてヴェーベルンの音楽を既成の宗教からは独立しているものの、総じて宗教的であると規定したのであったが、その顰に倣って、三輪さんの活動も、「新しい時代」に限らず、ドイツ時代の初期の作品から近作に至るまでの総体を広い意味で宗教的であると捉えるのは不当なのか?

或る意味では素直に「新しい時代」を三輪さんの個人的な「信仰告白」、ただしそれは特定の既存の宗教に対するそれではなく、カルトが跳梁跋扈する現実と、カルト(実はそれらは構造的には相同性を備えている)の両方への批判と拒絶(繰り返しになるが、それは作品の末尾の「新しい時代」が、儀礼の論理に抗して「幽霊的に」、生の声で歌われることによって誤解の余地無く示されているのだが)の傍らで、同時に「ありうべき音楽」としての「ありえたかもしれない宗教音楽」に対する「信仰告白」であると受け止めるのは間違いなのだろうか。他方それは自らがイデオロギーとなり、代理宗教と化したとしばしばいわれる後期ロマン派の音楽(マーラーの音楽に対するハンス・マイヤーの批判が思い浮かぶ)とどこが違うのか?だが、それらを一括りに代理宗教と決めつけることは、自ら外部への通路を塞いでしまうことになるだろう。「パルジファル」や「法悦の詩」、「プロメテ」に感じられる自閉とそれがもたらす自己中毒的な閉塞と、どこで「新しい時代」が決定的に異なるのかを見誤ってはならない。それは際どい綱渡りであって、ともすれば受容者は見喪いがちではあっても、そこには外部が穿たれ、通路は閉ざされてはいないのだ。

5.儀式の反転。燔祭の犠牲、生贄としての少年

「新しい時代」の教義には反していることになろうが、そうした観点から、私はこの作品自体をキャプチャーして、アーカイブして事足れりとすることに抵抗を感じる。この作品を映像記録で確認することが可能であったとして、そして実演に接した後、そこに見られる繊細だが確固とした制作者の選択に気づいた後であれば、それは再認のための代補となりえるだろうが、幾つかの次元が縮退した不完全な記録のみをもって作品を判断することが如何に危険であるか、改めて今回の実演に接して認識したように感じる。三輪さんが逆シミュレーション音楽以降、特にパフォーマンス作品の映像記録化に対して慎重であるように見えるのも、そのような観点から理解できるように思うのである。

だがしかし、多世界理論は未だ理論上の作業仮説に近いものなので、それに纏わる様々な仮定はここでは措くとしても、特異点論者が予言する技術的特異点の向こう側では、テクノロジーの発達の末にヴァーチャル・リアリティがリアリティと見分けがつかなくなり等価な2つの現実となる日がいつかは到来するのかも知れない。チューリングテストのヴァーチャル・リアリティ版を考えれば良い。或はまた、古くはビオイ・カサレスの「モレルの発明」、比較的最近では、J.P.ホーガンの「仮想空間計画」、グレッグ・イーガンの「順列都市」のような思考実験を思い浮かべても良いだろう。もっとも前二者の場合にはここでの基準においてチューリングテストにパスしているわけではないし、最後のケースはそもそもそこで仮構された理論は、幾つかの自明とは到底言えない前提を含んでいて、従って実現可能性についてはそれを論じるレベルにあるようには思えないのだが。

そうした時が到来するのであれば、そこにおいては、事実上私の抵抗感はその根拠を喪うだろうが、恐らくは技術的特異点(シンギュラリティ)の彼方であろうその時節に私は存在しないであろうし、その時節には、人間の存在の様態や条件が基礎存在論的な水準で変わってしまっているであろうから、現時点での抵抗感など、そもそも意味を喪ってしまっていることだろう。

そのような、到来するかどうか定かでなく、しかも私が経験する可能性はほぼないであろう未来は措いて、今、ここでの話に限れば、現時点でのテクノロジーの延長では、仮にそうできたとしても、再生された「作品」の受容は、既に述べたように、この日の上演に立ち会った経験と同じ出来事ではありえないし、「作品」は孤立して存在し、外部との関係を持たずに自己同一性を保つのではない。なおかつここで、「作品」の内部に取りこまれた「儀式」は、それが虚構であったとしても、それがもし現実に起きるとすれば、その総体が反復可能ではない不可逆性を含み持っていることは明らかである。「儀式」の反復は、それが過去の一回性の出来事の反復であると同時に、常にそれ自体、一回性の出来事であり、反復不可能な要素を孕んでいる筈であり、それはここでは少年の「死」である。もしそれが「死」であるならば、それは反復不可能であって、その事実を通過儀礼(イニシエーション)における擬死再生の神話的図式に回収してしまうことはできない。

寧ろ少年は燔祭の犠牲、生贄のように私には感じられる。燔祭は反復されるが、燔祭の生贄は常に新たに用意されねばならない。「新しい時代」という作品の中で仮構された宗教は、それを自らにとっての通過儀礼(イニシエーション)と了解して、自発的に燔祭の生贄となる少年を求めている制度なのではないか。(ここで例えばアステカ文明のような過去に実在した文明における儀礼を思い浮かべて頂いても良いだろう。)「儀礼」の反復される上演は、そうした少年を再生産すべく「洗脳」する装置として機能することになる。

過去に存在した特定のカルトの場合と異なって、所詮は作品の中の仮構に過ぎないこの場合に一体、生贄を欲しているのは誰なのかを問うことには意味がないかも知れない。だが、この「作品」がもたらす「おぞましさ」の印象は、自分が帰属するこの現代の社会の中の何かが現実にこうした生贄を求めているのだということを感じるが故のものではないのか?ある場合にはパスキネッリの言うところの「計算アニミズム」に対して、一旦は外在的と見做しうる目的で誰かが仕組むということもありえるだろう。その場合には(とりわけても少年の)「計算アニミズム」は悪用され、簒奪されていることになるだろう。だが「音楽」がそうであるように、宗教もまたそれが「人間」のものである限り、その境界は曖昧なものにならざるを得ない。悪用され、簒奪された側は無辜であるということもまた、恐らくは困難であろう。

6.モノローグの背後にあるもの。宗教・テクノロジー・音楽の悪用の危険性

だがそれでもなお、人間が人間を支配したり搾取したりするのに悪用される危険があること、宗教を(そして宗教音楽も、また、更には音楽そのものもまた)それのみ独立して取り出すのではなく、人間の社会集団の中に埋め込まれている現実に即して考えた時、結局それが人間に利用されて、人間が人間を支配したり搾取したりするのに悪用される危険があるという点について、ここで立ち止まっておきたいように感じる。

実はパスキネッリの主張もまた、AIの悪意ある利用の危険への対抗の必要性という点に重点があるように読めるのであるが、人間の社会集団の中に埋め込まれた時の危険性に対する批判ということに限れば、少なくとも「新しい時代」に限れば、そうした側面は視界からは消え、表立っては扱われていないように思えるからである。

例えば転記された筈のデータは単に消去されただけだとしたら?現実には少年の「純粋な」と言われもしよう心の在り方につけこんで、寧ろそうした収奪が、搾取が行われていはしまいか?パスキネッリの想定は、すでに存在するAI、例えばWeb上で人間と対話するヴァーチャル・エージェントが、何者かによってファシズムや人種差別的なバイアスがかかった学習をさせられたような実例に基づいているが、「新しい時代」の神は同じような「計算アニミズム」によって捉えられた「ありえたかも知れない」ネットワーク上と考えることができ、同様の物神化の危険があるように思われる。繰り返しになるが、公平を期すれば、「新しい時代」は既に17年前に、今日のAIが遭遇する状況を予見していたことになるが、このような現実の「人間的な、あまりに人間的な」側面は、相手がAIでなければそれ自体はありふれた出来事ですらあるから、それを取り上げていないことを捉えて批判するのは筋違いのようにも思える。

ましてやここでは個人の信仰の側面にフォーカスして「ありえたかもしれない宗教」を仮構してみているわけで、その側面には固有の危険はやはりあるわけだし、ことここで扱われている問題は社会集団のレベルに回収しきれない、個人の、個体としての「わたし」の次元を無視して論じることができないことを考えれば、一旦括弧にいれてしまうのは、或る意味で仕方ないことだと思われる。こうした傾向は、例えば久保田晃弘さんがパスキネッリを参照しつつ、それを更に反転させて「他者のためのデザイン」について考える場合にも同様に見られるが、一見したところ純粋でナイーブと受け取られかねないそうした扱いは、実際には、そこで扱われている問題には、「この私」の主観性の内部からの視点が欠かせないという判断から出ていると考えるべきであろう。

百歩譲って、社会と個人という枠組みを設定したとして、個人の側から見ればそれが社会的に搾取され、暴力を蒙るというような構図になっていたとしても、少年Aが、オウム真理教の若者がそうであったように、それが強制であれ、病理であれ、或いは気づかないうちに意図せずであっても、自分が暴力を揮う側に立つことになるという点を外すわけにはいかないだろう。

現実の社会の中の宗教は、それが教団を持てば、経済的な側面やら、群れを作る動物の集団内の関係の動力学のようなもの、これまでの対話の中で三輪さんが言及されて、でもここでは一旦不在になっている(無視されているとは思わない、寧ろ設定上、少年の14歳という年齢の設定によって、「通過儀礼」(イニシエーション)がここでは「成人することの拒絶」に転化することの背後に浮かび上がるようになっていると感じた)セクシュアリティの問題やらが纏わり着いて、聖職者の性的スキャンダル、世襲の権利の相続、既得権益の帰趨を巡っての他の社会集団と何ら違わない権力抗争の場に簡単になりうる。オウム真理教にしても、それが社会的な集団として巨大化していくにつれて、結果的に純粋な若者を収奪し搾取したという側面は抜きがたくあるし、そのカルトの異様さ、既成秩序からの逸脱が強調される一方、生産設備を持ち、収益を得る為の企業を傘下に随え、或は軍事力を持ち、祭礼一致の国家を志向するといったことは、より近年の例ならばISISのような原理主義的な(或はそうした装いの)テロ集団でも同様であろう。

もっとも宗教的勢力と軍事力の結びつきを過去の歴史に求めれば、直ちに日本におけるかつての延暦寺、園城寺や興福寺、東大寺といった巨大寺院、あるいは巨大な神社勢力の僧兵であったり、それらとの歴史的位置づけは異なるかも知れないが、一向一揆や天草の乱などもまた思い浮かべることができるし、西欧キリスト教においても、中世の十字軍であったり、あるいはフス戦争、ユグノー戦争、ピューリタン革命といった宗教改革に関連した出来事が直ちに思いつく。霊感商法のような宗教を装った詐欺紛いも、偽山伏、偽祈祷師の類は昔から居るわけで、寧ろ現実の宗教(とその周辺)の方が、宗教性という点ではフェイクめいているとすら言えるかも知れない。寧ろそれは経済的な観点のみからは、人間(の集団)が他の人間(の集団)を支配することによって収奪し、搾取するための装置であるという見方すら成り立ちうるだろう。仮にそれが、今日のテクノロジーの発達を背景に、AIを神として崇拝する教義を持ったとしても同じことで、それはつまるところ、AIを神とする人間の誰かが教祖となった人間の集団が出来るというに過ぎず、そこから先は寧ろ、これまで繰り返されてきた宗教と変わるところがなく、それどころか政治的、思想的なイデオロギーにより形成される集団と違うところがないという視点に立つことも可能に違いない。

AIを崇拝する個人という設定での仮構の外側に、AIを神とする、人間の誰かが教祖となった人間の集団が出来て、そこでは昔ながらの人間集団の行動が繰り返されるという現実があるのだ。それがAIであろうとトーテムであろうと、パスキネッリがより一般の思想的、政治的な側面で指摘しているそうした次元がついてまわるという側面は、彼の発言が或る意味では凡庸でありきたりに見え、彼が見ている同じ現実からより刺激的で大胆な展望が引き出しえたとしても、それを現実の課題として無視するわけには行かないであろう。

そういった観点との対比においては、「新しい時代」は宗教のある側面、しかも音楽と、根源的なところで分ち難く結びついた側面に、メディア論とかテクノロジー批判といった文脈でフォーカスした試みであって、だからこれを現実と単純に結び付けるのはそもそも不当なことかも知れない。情報の物神化のような傾向に対するメディア論とかテクノロジー批判の側面、即ちこの作品の射程と思われる側面に限定すれば、この作品は成功した、受容者が誤解しない限りはその意図通りに正しく機能する作品であるという評価はできるだろうし、それと上記のような昔ながらの社会集団の行動、そして今後懸念されるAIの悪用、神の悪用とは一先ずは別の話であるということにはなるであろう。

だが上演に接して経験した内容を反芻して見れば、そうした断定もまた、そこで受け取ったものを不当に捨象してしまっている感覚を拭えない。一見したところその射程は限定されているように見えても、ここには抽象化されて、いわばエッセンスのような形ではあるが、パスキネッリの主張に通じるものが示されていると考えたほうが、寧ろ経験の内容に忠実ではないか。少年を洗脳された生贄として受けとめ、その背後にあるものの影を感じ取ればこその「おぞましさ」の経験であり、それが「現実」であることを突きつけられるが故の「おぞましさ」の経験ではなかったかと思うのである。

7.モノローグ・オペラの外部

勿論「新しい時代」の作品の内部にも「教団」は存在するし、集団と個人の関係というのは存在する。だとしたら、にも関わらず「新しい時代」が「モノローグ・オペラ」という規定を受けている点はどうなのか?

再び能楽との対比を持ち出せば、能楽はシテ中心主義であり、基本的にはシテのモノローグであるという点において「新しい時代」のモノローグ・オペラという規定に相応する側面を持っている。ただし、モノローグと言っても、能楽は実は多声的であり、物語の内部の人物と物語そのものの語りの層の間を自在に行き来するし、或はシテが物語上の役柄のみならず、他の人物の所作を装束もそのままに演ずることもあり、しかもワキの存在を媒介として既に此の世にはいない人物の「幽霊」が召喚される構造となっていて、実際には寧ろ「他者の声」が交錯する空間と考えるべきであろう。

その点で気になるのは、能のワキに相当する存在、夢幻能においてシテを妄執から開放し、成仏させる儀礼を司る「司祭」たる聖職者の不在だろうか。勿論、形式的にはその役は巫女=キーボード奏者が担っているという見方もできるだろうが、彼女たちの役割は、儀礼の実態に即した時極めて曖昧なものに映る。

「新しい時代」の上演の中で、四人の奏者=巫女に関して私が「あれっ」と思ったのは、恐らく一度きり、彼女たちが「拍手」をする演出の部分であった。三輪さんの近作でも演者の一部が他の演者に対して拍手をする、という演出がある(「火の鎌鼬」)が、「新しい時代」ではそれは強烈な違和感、異化作用として私には感じられた。この四人は一見したところ明確な役割を与えられているように見えるが、その構造上の位置づけは非常にわかりづらい。後付の理屈になるけれど、彼女たちは、近年の作品に見られるような「傍観者」なのだろうか、というようにさえ感じられたのである。「典礼」とはひどく場違いな何か。もし異化効果が狙われたものであったとしたら、それは私に関しては成功していたのだが、終演後に、上演を括弧入れするためのものである筈の拍手が何故ここに、という驚きは私だけのものであっただろうか?

私は寧ろ、この儀式を司式する「司祭」はヘッドフォンの向こう側にいると考えたいし、それがこの儀礼の異様な相貌を形作る重要な側面であると思うのである。他の作品におけるラジカセがそうであるように、ヘッドフォンの向こう側にもう一つの集団が存在するのだろう。三輪さんの、或はフォルマント兄弟の規定によれば、メディアの向こう側は「あの世」であるとされるが、ここでは(丁度ディズニーランドがそうであるように)そちらこそが現実の「教団」であり、もし搾取や詐欺があるのだと考えるならばその主体はそこにあるのではないか。

逆にこちら側、つまるところそれこそが「新しい時代」の空間だが、それはいわば独我論の空間であって、そこからは「現実」こそ「彼岸」「外部」でしかない。独我論が認識論的なものであるとすれば、それはジュリアン・ジェインズの言う「二分心」の崩壊後の、延長的意識を持った自伝的自己としての私の構造的な宿命ということになるが、現実にはそれは「洗脳」によって人為的に作り上げられた閉域でもありうるのであって、そこにはテクノロジーを利用した詐術が介在しているのだ。そうであってみれば、それが一見して「隠れたる神」の声と聴き分けがつかないという状況の告発もまた、ここにはあるように思われるのである。

従ってそこには「隠れたる神」を装った(悪意ある人間の)詐術に対する告発もまた存在するに違いない。従って、後は受容する側の問題意識の側によって人は自分の見たいものをそこに見出すということなのだろう。そして私はといえば、意識を持った個体の宿命的な構造としての「隠れたる神」を巡っての古くて新しい問いかけとしての「ありえたかもしれない宗教」の方を、より強く感じ取ったのだということのようである。そして、繰り返しを恐れずに言えば、最後の詠唱を歌う生の声が、構造的にヘッドフォンとは異なる外部を示していること、それが幽霊的でしかないという在り方とともに示していることを思えば、その内部で仮構された儀礼ではなく、作品の総体の受けとめ方としては、そちらの方が妥当ではないかと思うのである。

8.声から歌へ、「自分の歌」の固有性の起源

結局のところ、一見したところ多岐にわたるこれらの問題系の根は同じものであるのではあろう。だが専ら少年の主観に寄り添うならば、疑似カルト宗教の儀式の仮構によって、ここで寧ろ三輪さんは端的に、いわゆる自分探しの虚構性、「自分の歌」の発見の不可能性、誰のものでもない声による代補という事態を提示しているという側面もまた無視してはならないのではなかろうか。それは単なる批判のための下準備などではないからこそ、ミイラ取りがミイラになる危険を冒してまで、緻密な仮構を行ったというように理解すべきではなかろうか。そしてこの機制は同時代的な状況のようなタイムスパンで捉えるべきものではなく、控え目に言ってもジュリアン・ジェインズの意識の考古学のようなレベルで扱うようなもの、もしかしたら進化の過程を遡った、生物学的な基層に由来するもの、要するに、この地球の生命の在り方に根差した側面すら含まれる可能性があろう。そうした問題系について今、ここで論じつくすだけの備えが私にはない。従ってその具体的な内容については後日を期することとして、ここでは以下の点を指摘するに留めたい。

もう一度、テクノロジーによる「自分の声」のキャプチャーに戻ろう。現在の録音技術の水準ですら、「ほとんどそっくり」な再生は実現できるという見方もあるかも知れない。だが、再びここで「少年」の「私」の視点に立った時、自分の声を聴くことの不可能性ということに思い当たる。この点についても以前、「フレディ―の墓」に関連して論じたことがあるが、自分の身体を介して内側から自分の声を聴くことと、再生された自分と同じ性質を備えた声を外部から届くものとして聴くこととの間には共役不可能な差異が存在し、それがフォルマント兄弟の指摘する「おぞましさ」に通じるのであろう。キャプチャーされた声の再生は、外部で観察する客席の我々にとっては同じものであっても、「少年」にとっては異なるものであろう。それは文字通り「誰のものでもない声」、アイデンティティー無き「声」でしかない。

だがここまでならば、私が身体という「内部」に閉じ込められていて、「内部」から聴いた自分の「声」をもし「外部」から届いたかのように聴いたならばそれは別様に聴こえるということに過ぎないように思われるかも知れない。あたかも「内部」から聴こえるように「外部」から聴こえる声をシミュレートする可能性が論理的に残されているように思われるかも知れない。実際、頭の中で自分の語りなり自分の歌唱を想起するとき、「あたかも」自分が語り、歌っている「かのごとき」内部状態となっている。もともとそうしたシミュレーションの機構を人間は備えているのである。

だが「私の声」ではなくて「私の歌」(私の歌唱ではなく歌の固有性、まさに通過儀礼(イニシエーション)において探し求められる対象としての固有性をもった「歌」の方はどうか?

人間のようなシステムの内部は、一方では遺伝子によって継承された過去という外部に由来し、他方ではエピジェネティックに外部の他者達との関わりにおいて自己組織化したものであろう。一卵性双生児の例を考えればわかるとおり、仮に遺伝子が同一であったとしても、関わりの経歴が持つ脈絡の独自性により、エピジェネティックに構成される構造には差が生じるであろう。だが、事態はそこにさえ留まらない。内部を観察した時に客観的には同一と見做されるパターンでさえ、主観的には異なる意味を持つが故に、他の個体とは共役不可能な空間が内部に構築されると考えるべきなのだ。

その固有性が形成の脈絡によって保障されるものであるからには、結局のところのその由縁は外部にしかない。端的に言えば、「私の歌」の固有性を成立させているのは外部と内部の相互作用であって、内部それ自体ではないのだ。かくして独我論的な自分探しは失敗する運命にある。そのような仕方では「自分の歌」は見出せない。それはいわば自分の背後にあるといった仕方でしか存在しないのだ。

ここで起きているのは、内部状態を含めた完全なコピーを作れたとして、コピーが動作した途端に内部状態が分岐して、オリジナルとは別のものとなるといった事態である。百歩譲って機械がある日、そのような機構を備えたとすれば、機械とそのコピーとの間には、ここで述べたことが起きるだろうが、そのようなシステムであるならば、すでに構成されて脈絡を持つ「私」を別のメディアに移植するという言い方自体が既に不適切なのである。逆にそうしたシステムにしか「私」は成立しないとするならば、コンテンツとメディアの分離はここでは誤った抽象となり、その分離を前提とした、私(というコンテンツ)の(他のメディアへの)移植は定義上、原理的に不可能であることになる。(グレッグ・イーガンはフィクションの形でこうした事態についてアプローチを試みているが、現時点ではそれは概ね小説的な「オチ」として利用されるレベルでしかないように見える。)

かくして固有性を論じようとした時、「声」よりも寧ろ「歌」の方が根源的であるという逆説がここに成立する。そして「歌」の固有性はコンテンツとメディアの分離不可能性に由来しているのである。これは「新しい時代」の内部に仮構された儀礼の教義とは相容れない立場である。だが、これもまた「新しい時代」という「作品」の全体、もちろん上演という不可欠のプロセスも含めた総体が意味しているものであると私は思う。この上演に接して私はそのように受け止めたのである。

9.未来完了的な展望における「新しい時代」:逆シミュレーションの起源

それでもなおかつ、私のこの作品に対する抵抗感、或る種の拒絶反応のようなものはなくならない。感想で既に述べたことではあるが、結局のところ私は、既述の単に聴き手としての訓練不足ということ以上に、この作品の良い受け取り手ではないのかも知れない。何というか、「音楽」というものが、この作品で提示された側面を備えているのは事実だし、それが三輪さんが探究している核心に近い部分であることは理解できるし、それに対して頬かむりをするわけにはいかないけれど、でも、、、というのが素直な心情かも知れない。行きつくところ、結局私は「音楽」に対して、ここで三輪さんが対峙したようなギリギリのところまで突き詰めて接していないということかも知れない。かてて加えて私は三輪さんの他の作品、特にこの作品の後の17年間の取り組みをも知っていて、やはり聴くならそちらを、音楽がまた少し別の位相も持ちうるのだということを確認してほっとしたいのかも知れない。

だが、こうなるとちょっと負け惜しみめくが、それでもなお、私が三輪さんの作品に実演で接し、感想をまとめるようになったこの10年間は無駄ではなかったとは思う。これまで述べてきたように、どちらかというと些細な点かも知れずとも色々と思い当ることはあって、最初にこの作品を知った時の「これはちょっとやりすぎでは」という単純な拒絶反応から比べれば聴き方が変わったとは思うし、その上で逆シミュレーション音楽が出てきたある種必然性のようなものも腑に落ちたように感じたからである。

もう一度繰り返すが、私見ではこの作品は、仮構された「儀礼」であろうとしつつ、最後の部分で「儀礼」であることを放棄している。もしこれが「宗教」であるならば、最後に生の人間の声が「幽霊的な」仕方で出現することは教義の論理上ありえない。だが、「作品」として「新しい時代」はまさに最後の詠唱が人間の声で歌われるべきものとして構成されている。最後の人間の声が持つ意味、それが聴き手に与える印象は、その歌を単独で聴いたのでは把握しようがないし、恐らくは録音記録ではその意味を取り違える危険すらあるだろう。実演においてすら、慎重な音場の設定、間違えないようのない生の声の持つ質にも関わらず、もしかしたら「儀礼」の枠組みの中で、最後の部分で起きた「逸脱」「反逆」に気づかない聴き手がいるかも知れないという懸念は拭い去ることができない。意味を明確にするためには「儀礼」のミメーシスは寧ろ徹底したものなくてはならないという構造が、この作品の根本を規定してしまっている。

更に言えば「儀礼」を全くの虚偽と見做すこともまた、できないだろう。そちらもまた、人間がこれまでずっと繰り返してきた営みであり、それはテクノロジーの発達によってなくなるどころか、新しい形態で蘇り続けるのであろう。それは17年前のこの作品の教義が、AIが再び脚光を浴び、技術的特異点(シンギュラリティ)が人口に膾炙するようになった現在において寧ろ自然なもので、自然が芸術を模倣するかの如く、現実にAIを崇拝する宗教が出現さえしていることにより裏付けられている。否、宗教であるかどうか越え、望むと望まざるとを問わず、現実に我々はテクノロジーに浸食され、時として誰かが仕組んだヴァーチャルな現実に目晦ましされることが避けがたいという現実を直視しようとしたとき、「作品」がこのような危険なミメーシスによって現実を映し出すことは寧ろ、それを作る人間の誠実さの表れであると考えるべきなのだろう。

(私固有の文脈であるが、例えばこの作品と同じ音調が、透谷のある種の作品にあるということに思い当ったことを感想において触れた。この点についてもう少しだけ敷衍すれば、多分それは透谷の自殺と関係があるだろう。彼は「声変わり」を拒否したわけではなく、寧ろ14歳を過ぎてから、民権運動やキリスト教といった外部との接触の中で自分の固有の音調を天才的な素早さをもって掴んでいったように見える。だが変声期は辛うじて乗り越えたけれど、彼が抱えた傷は結局彼を開放することなく拉致し去ったことは、彼の早すぎる自死が物語っている。「筆の虫」の自覚を持った少年は、自ら書物に例えた世界に対して、幾ばくかのテキストを追加したけれど、結局自らを消去する途を選んだ。そうした彼が今生きていれば、彼が「新しい時代」のもう一人の「昇天少年」であった可能性は充分にあるように思われるし、彼の抱えた問題はその時代固有のすでに解決済のものなどではないだろう。)

それは一方では、このような「儀礼」が虚偽であることを示し、他方ではそれがもし真実であったとしたら、今度はそれが最早不可能であることを告げているのではないか。この作品は、そういう意味では否定の極限にあると考えられるように思われる。これは既に隘路であり、しかもその先は行き止まりなのではないか。

それゆえここから更に先に進もうとしたら、この認識に謂わば裏側からアクセスする他ないのではなかろうか。現実のミメーシスではなく、一旦現実を解体し、その要素を抽出し、改めてデザインをし、組み立てなおす「シミュレーション」が求められるのではないか。三輪さん自身、その著作の中で「新しい時代」と「逆シミュレーション音楽」を「同じもののウラとオモテ」という表現をされているが、その真意は措いて、「逆シミュレーション音楽」は「新しい時代」において試みられたことを、まさに逆側から辿りなおす試みであるように思われる。

勿論「逆シミュレーション音楽」においても危険が存在しないわけではない。ゴールデン・ニカの講評のように直ちにそれを「ファシズム」と結び付けることは短絡であるとはいえ、それが新しい身体性を獲得するための「修行」を要求する以上、或る種の「暴力」を伴わざるを得ないし、後付けで付加された「由来」もまた、「という夢を見た」という括弧入れがあってもなお、それを読み落とし、うっかり実在すると勘違いする人が出現することは避けがたい。だが、その「暴力」は既成の制度もまた備えているもので、それが社会的に或る程度は容認されており、それゆえまた或る程度自発的にその「暴力」を受容するが故に問題になることがないのだし、「由来」の方についても、例えばそれが実在の神話の「ありえたかも知れない」変形の一つであるならば、そもそも勘違いであるかどうかの判定基準の方が危うくなる。

それでもなお「逆シミュレーション音楽」は方法論を批判的に鍛え、かつそれを実践することによって、「儀礼」の完成を人間の生の声による歌が裏切るといった内的な破綻を抱え込むことはなく、寧ろ自在に「ありえたかもしれない音楽」を構想することを可能としたことは、寧ろ「逆シミュレーション音楽」後の三輪さんの作品の豊穣さが証明しているように私には思われる。そしてそうした転回は、臨界まで辿り着いたものだけが達成しうるものであろうし、その臨界の経験が「新しい時代」の系列の一連の作品群を通じて獲得されたものであるのは間違いない。

「新しい時代」に対するこうした認識は、或る意味では後知恵であって、三輪さんの作品の実演に接して以降(三輪さんの作品を知って以降ではなく、実演に接することが必須の契機であると私は考える)接してきた三輪さんの数々の作品の経験なしでは到達できなかったものに違いないだろう。それはまた、作者の側からすれば、例えばフォルマント合成をベースとした音声合成技術一つとっても、この作品が、この作品に先行し、いわばマトリクスの位置づけにある「言葉の影 またはアレルヤ」とともに、その後のフォルマント兄弟の活動に連なるデジタル技術と声への興味の、いわば原点にあたるが故に、今回の17年後の再演にその成果を反映させつつ、現時点での総括とすることが可能になったということであろう。

何というか、或る種未来完了的とでもいうのか、17年後の今、初演後の活動の成果をそこに集約することで「新しい時代」という作品はようやくあるべき姿をとったというべきなのだろうか。平凡な言い方をすれば、それらを全てポテンシャルとして備えていた作品であるからこそ、そのような受け止め方が可能になるのだ、ということなのかも知れない。もっとも初演を経験した方々はまた別の感想をお持ちかも知れないが。

10.結びにかえて:身体性を介した修証一等の実践に基づく「無意識のエクササイズ」としての「音楽」

私もまた、この文章をWebに公開することで、私の一部を転記して、アーカイブされることを望んでいることを否定することはできない。その限りで、私もまた(恐らくは三輪さんもまたそうであるのと同様に)一人の「昇天少年」であるということになるだろう。ただし転記は常に不完全であり、その見返りとして私の消去は生物学的な寿命に委ねられている。大いなる「書物」など存在しないのだ。あるのはせいぜいのところミームの生存競争によって布置を変えていく情報のモナド的な星座に過ぎない。存在するのは小さな書物のネットワークなのだ。終末論的・黙示録的ビジョンは消え去り(お望みなら、誰かが仕組んだヴァーチャル・リアリティの中で最終的に無害なゲームとして繰り返しプレイされるが良い。私は拒絶するが。)、「昇天」は夢想された(そして作品の中に仮構された)ような劇的な形態を帯びることはなく、寧ろ「逆シミュレーション音楽」が要求するように、そして「新調性主義」が伝統の蓄積の活用を目論むように、「新しい身体」を目がけた絶えざる「修行」のプロセスに転じるだろう。その「修行」は「悟り」の境地に至ったことを認識し、享受することを目的とするのではなく、寧ろ「修行」がそのまま気付くことのない「悟り」であるようなものだろう。

上演に接した折に、異議申し立ての、抵抗の意識が湧き上がるのを感じたと書いたが、実はその時に思い浮かんだのは道元のことであった。道元は悟りを目的とした修行を否定した。浄土思想、メシアニズムもそうだが、個体を滅するということ、その裏側にある「来世」への希求、いや即身成仏でも、本覚思想でさえも同じだろうが、何が閾を超えると別のより価値のある世界があるという発想、そこに達するために秘儀・奥義があってそれを獲得するために日常性の外に出ることを強制する暴力に対する懐疑に対して、ふと道元こそがその拠り所ではないかということに上演中に思い当ったのである。だがこれは「新しい時代」という作品に限って言えば、外的な批判(ただし、その最終的な着地点に対してではなく、そこに至る経路の選択に関するものだが)という形をとるかも知れないが、三輪さんの活動に対するそれではありえない。三輪さんはこの作品の後、「逆シミュレーション音楽」に到達し、そしてその後は、それと明示されずとも、同じ構想により、「愛の讃歌」「算命楽」「59049年カウンター」といった一連のシアターピースを、或は西欧の伝統が産み出した「身体性」に着目し、かつアルゴリズムが規定する力学系の遷移に対してゆらぎを加えるという方向性を含み持つ「新調性主義」系列(虹がモチーフとなっている)の作品群を、更にはマーチン・リッチズさんの音楽機械と人間とのアンサンブル作品、フォルマント兄弟名義での活動の成果であるフォルマント合成を基本としたリアルタイム人工音声合成を可能にするMIDIアコーディオンを用いた作品群を発表していているのだが、その多様で豊穣な成果から読み取ることができるのは、ここでも人間の身体性への着目、その帰結としての実演の重視である。

偶々たっぷりあった往復の時間、私はフリーマンの「脳はいかにして心を創るのか」を読んでいた。私は職業柄、AIを非常に身近なものとして接してきたし、技術的な細部についてもある程度なら理解しているつもりであるのだが、ドレイファス(フリーマンの同僚であったらしい)のような現象学の哲学者、あるいはワイゼンバウムやウィノグラードのような人工知能研究者の批判的主張には耳を傾けるべきものがあると思ってきたし、高次心的機能の神経科学的解明に関しては、上述のダマシオや、ダマシオに基づきつつ精神分析のような科学的検証が困難で、机の叩き合いになる他ないと考えられてきた分野との架橋を試みるソームズのような立場からの展望に興味があるし、フリーマンのカオス力学系に基づく仮説も有力なものであると考えている。日本では津田一郎さんが提唱しているカオス的脳観に基づいて、自己の研究成果と仮説を一般向けに紹介している書物なのだが、フリーマンはソマティックな側面を重視するダマシオ等と同様、非行動主義・非認知主義(非機能主義)の立場をとっていて、これは個体の情報を抽出してアーカイブするという発想に対する、非常にラディカルで説得力ある批判になっているように思われる。デジタル物理学のある種のバージョンは、まさに「新しい時代」の教義の実質をそのまま認めかねないし、機能主義的な認知主義も、それを可能性として認めるわけだが、フリーマンのような立場では、それは原理的に不可能ということになるようだ。

フリーマンはまた、トマス・アクィナスの「人間論」と並んで現象学やアフォーダンス理論を参照し、人間の心的独立(と裏腹の孤立)と同時に拡張された身体性を重視しているのだが、仏教思想のある側面との親和性も語っている。(のみならず、イスラム経由でギリシア哲学を再受容したとされるトマスに、間接的に仏教思想の影響を想定できるとさえ述べている。)道元については後期のウィトゲンシュタインとの親近性の指摘が従来なされているが、私見ではフリーマンの主張との親和性も高そうである。そして、私はこうした展望の中に、三輪さんの活動を位置づけうると考えている。それは身体性を介した修証一等の実践に基いて、ベイトソンの「無意識のエクササイズ」を実現するものとなるであろう。その妥当性を述べようとすれば、今度は最早一冊の書物のみでは済まなくなりかねなく、この場では示唆に留める他ないけれど、もしそれを試みる機会があるとしたら、その時には再び「新しい時代」が一つの焦点になるに違いない。この作品は三輪さんの活動の中でも最も危険なものに接近した、いわば特異点に位置する作品であって、その射程は初演より17年が経過した今回の再演の時点においても未だ汲みつくされていないと思われる。

それゆえ私は、遅れて、別の場所からとなることをあえて引き受け、再度、「はい」と応答することを期して、既に1週間が経過し、今回の最後の公演も終わってしまった今、一旦、ここの地点で筆を措くこととしたい。(2017.12.10-17初稿、18-25修正稿、26-29改稿、29暫定公開、30改稿、公開, 2024.11.21 noteにて公開)

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