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魔法の鏡・共感覚・盲者の記憶:モリヌークス問題からジッド『田園交響楽』を読む(11)

11.

前哨としての「アンドレ・ワルテルの手記」。2冊の日記風の手帖により、そしてそれのみにより作品を構成するのは、実は田園交響楽が初めてではない。 だが、「アンドレ・ワルテルの手記」が物語風の構成を拒絶した、本来的な断章の集積であるのに対し、ずっと小説作法上円熟した時期に書かれた 「田園交響楽」において、日記というのは或る種の偽装に過ぎない。執筆日付を持つ回想に過ぎず、日付を除去して、日記風の草子地を取り払えば 単なる物語になってしまう第一の手帖のみがそうなのではない。本来の日記に近づくかに見える第二の手帖もまた、それが「アンドレ・ワルテルの手記」と 比して、いわば素材としての「生の」日記から懸け離れていることは明らかだ。その虚構が最早隠しがたくなるのは、第二の手帖の頂点をなす5月19日の夜の部分だろう。 こんな日記の記述がある筈はない。第二の手帖の劇的で動的な性格は、常に単一視点での回顧(行為の最中に日記を書き付けるというのはありえない のだから)でしかありえない日記という形式を裏切る。にも関わらずジッドは「田園交響楽」においては、この視点を最後まで維持する。例えばアリサの日記のような 同じ物語の別の視点での語りなおしという重層化はなく、それゆえ「狭き門」のエピローグのようなものはここでは出現することを予め禁じられている。 「アンドレ・ワルテルの手記」であれば、編者の注という形での出来事についての別の視点での補完があり(逆にここではそれがなければ読み手には、手記の 背後にある出来事を読み取るのは難しいという点で、まだ「誠実」なのだという見方もできるだろうが)、あるいは手記の外側に詩がさらに付加されることで、 重層化され、更には手記の中に埋め込まれた膨大な引用の織物が更に別の層を構成して、生の手記としての不器用な視点の固定にも関わらず、 作為が無い分、却って(意図せず、なのかも知れないが)外部への通路が存在するのだが、「田園交響楽」では、自己欺瞞は牧師のそれであるとともに、 ジッド自身のそれでもあり、ジッド自身の「アンドレ・ワルテルの手記」への後日認められた序文での自らの歓心を買おうとするという批判にも関わらず、 却って「田園交響楽」の方が性質が悪いとも言える。単一の視点により、ジェルトリュードが、アメリーが、ジャックが書き留められるのを読んで、読者は寧ろ、 これが牧師の妄想ではないか、どこまでが現実と確実な繋がりを持っているのかすら疑いたくなるだろう。この牧師の狂気を埋め込んだ、別の物語を 構想することすら可能だろう。第二の手帖の5月21日以降の記述は全て牧師の妄想の産物であり、それが故に時系列が破綻し、本当はまだ手術から戻って 来ていないジェルトリュードを溺死させ、自らは乾ききって、心の砂漠の中に閉じ込められるのだと。この結末は、牧師が見た夢ではないと言い切ることが できるのか?ドゥルーズ=ガタリがカフカの「審判」の「終り」の処刑をヨーゼフ・Kの夢の産物と見做したが、そうした読解が許される地平においてなら、 「田園交響楽」の手帖もまたそうではないといえるのだろうか?もしかしたら全体が。

例えば、「アンドレ・ワルテルの手記」ならば、見かけは本物の手記の体裁で出版されたことから、フィクションのレベルの積み重ねが仕掛けられていることは、 事後的に仕掛が明かされてから見れば明らかなことなのだが、それでも発表当時にはアンドレ・ワルテルを実在の人物と勘違いしたケース(メーテルランク)も あったようだ。それに比べれば、同じ2冊の手帖からなるとはいえ、「田園交響楽」は虚構の物語の中の登場人物が作者であるということは明らか であり、一見したところ、フィクションと現実の境界画定についてはそんなに複雑な要素はないように見える。だがその一方で、この作品の場合、 イロニー的な要素が介在しているのは確かであり、そのイロニーがどの水準のものなのか、複数の水準に渉るものなのかを突き止めようとすると、 実は「アンドレ・ワルテルの手記」と同様の積み重ねが存在していることに気付かざるをえない。否、こちらの方が、虚構の登場人物が手帖の書き手であるという 設定を備えている分、性質が悪いとさえ言えるだろう。一体、本当は何のために牧師はこの手帖を書いたのか、何かを逆に隠蔽するため、 偽証を行うためではないかという疑いを持つことは、ことこの作品に関しては、決して不当で恣意的なこととは思えないし、一つ上のレベルで、 今度は作者ジッドが、かくのごとき作品を書いたのは何故か、何かを逆に隠蔽するため、偽証を行うためではないかという疑いを持つことも勿論可能なのだ。 その一方で、牧師は(作者ジッドではない)実在の人物なのか、といったような問いもまたあっても良く、通常それは「モデル論争」と呼ばれるものになるのだが、 予め架空の話であるという「枠」を作者が設定していて、なおかつレシにおいて主人公は作者自身の分身であるという思い込みを読者がするように ジッド自身が誘導しているが故に、一見したところそうした問いから自由であるかに見えているに過ぎないのだ。

同じように、未完成作品であることが作品外部の事実の水準で明らかであるとされているカフカの「審判」では平気で主張される、ある章がまるまる誰かの夢である、 という想定(ちなみに結末のみが夢であるという主張には根拠がないだろう、その点ではどの章も、断片も等資格であるはずだし、冒頭の逮捕自体が夢であって なぜいけないのかわからない)は、この作品の場合、一見したところは完成している上に、手帖という形式を取っている以上、可能性としては考えにくいように見える。 だが手記であっても「アンドレ・ワルテルの手記」であれば、編集者の注という形で、最後の部分が狂気に陥ったワルテルの妄想であることが示されていることとの比較をすれば、 ここでは牧師の手帖には端的に外側が用意されていないので、それが想定しにくくなるように仕掛けられているだけであって、ここでも同様の狂気や妄想を 疑ってしまえば、「、、、という夢をみた」というのをいつでも追加することが可能であることがわかる。フィクションの形式として手記を用いているという枠がある上に、 作品の内部においては寧ろ手法としては単純化されているがゆえ、一層性質が悪いという見方すらできる。例えば第二の手帖のジェルトリュードが帰還して以降の、 非常に急速に展開する最後の数日の日記は、錯乱した牧師の妄想の産物である可能性はないのだろうか?これは日記だ。だから記述に虚偽はないし、 理性的な自我による反省の記録なのだ、という予断は、かくも混乱と虚偽に溢れかえった手帖においてもまだ維持可能なのだろうかという疑いを、ルール違反であり、 恣意的な読解であるとして一刀両断することができるだろうか?この記述がもし妄想であるとしたら、それは何を背後に隠蔽しているのか?何の根拠もない、単なる 可能性に過ぎないという保留つきで、例えばジェルトリュードは決して自ら身を投げたのではないとしたら?ドラノワの映画における読み替えは、ジッドの原作とは全く異なった エピソードを積み重ねていくが、無限の分岐の可能性のうち、ジッドの原作の手帖に記されたものがドラノワの映画のそれに比べて優越するのは、如何なる点においてか? それはあくまでジッドの作品が「原作」であるという、制度的な保証のみに依拠するのではないか?

更には逆に、「、、、という夢をみた」というのを逆に外さなくてはならない可能性を考えてみたどうだろうか?実際には、牧師の告白を装ってはいるが、 ある暗号解読表を用いて変換すると、これが別の事実の記録であるという可能性は排除できるのだろうか?一般に告白のジャンル、独白の形式において、 フィクションとノンフィクションの境目をどこに入れられるのかは決定可能なのだろうか?あるいはまた、カフカの「掟の門前」論でデリダが述べる、 作品のアイデンティティ、オーセンティシティの問題も、未完成作品であるカフカの「審判」のみには限られないはずである。例えば、この作品の場合には、 普及版と全集版の異同の問題を挙げることができるだろう。かくして、一見したところ古典的な体裁を持っているように見え、単純で簡潔であって 出版当時は、「法王庁の抜け穴」の後にあって、或る種の退行という批判さえ受けたらしいこの短い物語ですら、否、こちらの方が、一見すると仕掛が 明示的なソチやロマン以上にこの短い物語の方が錯綜とした決定不可能な構造を備えているかも知れないのである。

著作権やオリジナリティに関する考え方の全く異なる中世における ペルスヴァル伝説の継承と変容を、クレチアン・ド・トロワ、ロベール・ボロン、ヴォルフラム・フォン・エシェンバハからリヒャルト・ワグナーまで、あるいはそのワグナーの作品に 対する演出による読み替え(音楽が同一性を保証するから、筋の方はどんな改変も可能であるといわんばかりの多様性を示している)の蓄積を思い浮かべると良い。 ジッドの「田園交響楽」は、ある「原物語」のヴァリアントの一つであり、ドラノワの映画もまた、そうした異なったヴァリアントの一つであるというのは、事実に即した言い方では 決してないが、戦前の日本における映画化(これもまたジッド自身、観たらしいことが井上勇の翻訳の後書きで確認できる)も含め、或いは更に、ジッドの「田園交響楽」に ついての様々な解釈に加え、ジッド自身の「オリジナル」に関してさえ、普及版・全集版の差異を含め、クロード・マルタンによって整理されて明らかにされた完成稿の様々な違いのみならず、 その創作の過程が明らかにされるにつれ、創作ノートや印刷に先行する改稿、採用されなかったヴァリアントの存在すら明らかになってきているのだから、そのうちのどれかが決定的な 優位性を持つオリジナルである筈だという予断は少なくとも捨ててかかるべきだろう。更に日本語で「田園交響楽」を読む場合には、訳者の解釈が染み込んだ十指にあまる 翻訳が存在する。どの版に依拠した翻訳かという選択に加え、同一の訳者のものでも、訳者によっては大掛かりな改訳をする場合もあり、ある訳者の翻訳の同一性さえ 決して自明というわけではないのだ。勿論、こうした事情は別にジッドの「田園交響楽」固有のものではなく、多かれ少なかれどんな作品でも、それが複製されて 継承されるときには生じるものではあるけれど、そうした事情が「田園交響楽」という作品に対して持つ意味合いは、この作品が採用したスタイルと、ジッドの創作プロセスに おける改変の(論理的矛盾が生じることを放置するという意味合いでの)杜撰さに起因する問題もあって、決して周縁的で瑣末なものとして等閑視することを 許さないものがあるように感じられる。

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