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言葉の宝箱 0217【積み重ねよ。ある日、いっぺんになにもかもが良くなるってもんじゃないわ】

『春朧(上)』高橋治(日本経済新聞社1992/11/25)


岐阜県・長良川河畔で老舗の旅館を営む日野家の嫁、沙衣子は主婦業に専念していたが、夫が急死したため、素人同然の身で若女将となった。悩みの種は姑の松乃。伝統や格式にこだわり、客よりも旅館側の都合を優先する松乃の考え方は沙衣子と相反するものだった。やがて沙衣子は理想のもてなしができる旅館を新たにつくろうと決意するが、その道のりはあまりに遠く険しかった。自分の無力さを痛感した沙衣子はかつて恋心を抱いた建築家、宗野徹也への想いを蘇らせていた。その想いが通じたかのように沙衣子は十数年間行方知れずだった宗野との再会を果たす。共に歩む運命を予感した二人は出会いから長い時を経てようやく結ばれた。宗野は沙衣子のひたむきな心に動かされ、素晴らしい旅館を築きあげる。しかし沙衣子は、ある決意を固めていた。

・積み重ねよ(略)
ある日、いっぺんになにもかもが良くなるってもんじゃないわ P34

・形から入れと剣はいっているのだと(略)
新しい器を造ってしまえば、
その中に盛りこむものも新しくせざるを得ない(略)
それが出来るか出来ないかは、また別の問題なのだ P58

・「朝が空しいって話だがね」(略)
「お宅に泊ったとして、なん時に起こされるんだい」
「そうですね、チェック・アウトが大体十時ですから」(略)
「チェック・アウト?
旅館にそんなものを作ってくれと誰が頼んだのかね」(略)
「自分たちの都合だけ考えて、ホテルのシステムから盗んで来た。
しかも、勝手に二時間も繰り上げた。
十時に出て行けなんてホテルは一軒もないだろう。
大体正午だが、最近では、少しでも客にゆっくりして貰おうと、
一時にする、メンバーなら三時まで自由に使える。
そんなホテルがたくさん出来て来ている」(略)
「十時に出て行けというんだったら、起きるのは八時前か(略)
少しでものんびりしようと出て来て、
金まで払っている客が、
なぜ会社に出て行くのと
同じ時間にたたき起こされなきゃいけないんだい(略)
で、寝床から追い出されて、朝食にはなにを食わせてくれるんだい(略)
生卵か(略)菓子みたいに甘い味附海苔か(略)
ニュージーランドの辺でとれた、
身の真っ白なアジの干物を機械で焼いて(略)
味噌汁はぬるくなってる。メシは不味い。
香の物は真黄色な甘い沢庵と、科学調味料まぶしの京都の柴漬け」(略)
正直なところ、
どの旅館もこんなものだから仕方がないと考えていたのだった P82

・明日はなん時におたちですかということだけは、
誇りにかけて客に聞くことはならん。常々からそういってあります(略)
だって、なん時に出発するかは私たちが決めることじゃありませんもの。
そうじゃないですか。
御客様の御都合次第、それに合わせて朝食を御用意するのが、
私たちの仕事だとこの人はいうんです P95

・折れる決心がついたのは(略)
この人を一人にすることは出来ないと、
ごく単純なことに気づいたからだった P99

・超豪華な民宿をやる。宿の精神は本来そこにあるんだからな P106

・感心することなんかないでしょう。
当り前のことを当り前と思わないんなら、
いくらそうする人間の方が多くても、
間違ってるのはそっちの方じゃないですか P122

・「決断を迫られるというのを待っていては駄目です(略)
受け身になるからですよ」
「つまり、自分を守る方が先になる。
どうしても、判断がしゃっきりと立ったものではなく、
傾いたものになりがちなんです。
だから、決断は自分で引き寄せなきゃいけない」(略)
「それは時期の問題じゃない。
大抵のことは、少し先送りにしても、たいして変わりはしないんだが、
自分はこれをするんだと(略)
怒った猫が体をふくらましているようにしていないと、
自分自身が崩れて来る」 P126

・その家に住む人間への配慮がなされていることは、
建築にとって最も基本的な条件である。
だが、それだけで十分だとはいえない。
木は切られ、削られてからも呼吸し続ける。
ねじれや歪みも、木が個々の宿命として持って来たものである以上、
あるところで止まることはない。
更にねじれようとし、ますます歪みを大きくしようとする。
有能な大工はそれを計算し尽くして材として使う P128

・他人を批判するのは易しい。
しかし、批判する以上、
自分がしっかりしたものを持っていなきゃ、子供と同じだ P281

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