もしかして話しやすさは救いになる?仕事の不祥事の芽を摘む最善策は厳罰化じゃない。2
同タイトルでの投稿ふたつめになります。
そして、今回が連続投稿40回目の記事になりました。
さて今回は、私ごとながら数年前に外部出向した会社で、コンプライアンス担当として従業員の不祥事案件に対処していたときに感じたことです。
この会社は世の中からするとマジメな部類の会社だと思いますので、このことが全ての会社には当てはまらないかもしれませんが、出向中に対応したコンプライアンス問題の大半は悪意のないミスに近いものだった印象でした。
会社組織全体だと刑法に触れ逮捕や起訴までされてしまう重大な事案、事件が数年に一度発生していました。
これは残念なこと。
こうした事件は再発防止策の作成に時間をかけて取り組み、真摯に対応していきます。
一方で、私が勤務した組織内で起きた数多の事案は、上記のような重大な違反行為というよりは内部規定に抵触する案件。
ついうっかりとか忙しくて手抜きしてしまったという内容がほとんどでした。
事案が発生すると、内部調査に入り必ず当事者に個別聴取、上司や同僚にも聴取して裏取りをした上で全貌を解明し対策を講じます。
ときには現地に飛び、時には呼び出し、事実関係をおさえていきますが、数多の事案のほぼ全てが悪意はなく、むしろ当事者が何とかしなきゃと思い詰めてとった行動が墓穴を掘ってしまっているという内容でした。
この「何とかしなきゃ」の行動が自分の勝手な判断に基づいており、大半は誰にも助言や意見を求めていません。
逆に言うと、他者の助言や意見を聞いていたらそこまでの事案にならなかったという結論もあるのです。
日々、仕事量が多く時間がたりない、家庭の事情や自身の体調不良やコンディションで、どうすべきかの的確な判断ができなかった…。
日常のどこにでもある状況です。
そういう時に助けを求められる仲間やそういう雰囲気がないところが事案に共通していた印象です。
当事者に聴取して、なぜ助けを求めなかったの?助言を求めなかったの?と伺うと、みな、その時点ではヘルプするといった選択肢が頭になかった印象。
自分で何とかしなきゃということで頭の中がいっぱいになっていて対処を間違ってしまっていました。
彼らの話を聴いていると、決して他人事ではなく、私がそのシチュエーションにあれば同様にミスる可能性も感じます。
そういう状況で被害を最大限抑止するには、まずミスすることが悪いことという認識を持たないことかと思います。
これを悪いことと捉えれば、知られたくない、自分で何とかしなければと考えるもの。
周りが見えなくなってしまうものですよね。
もしミスが許されない組織なら、周りの人の気づきが重要になる感じ。
そうは言っても周りの人も忙しい。
なかなか気づくまでの余裕がないかもしれませんね。
常時慌しい中でも少し息をつく時間帯。
そういう瞬間に周りを見渡す意識をもって眺めてみる。
そこに余裕なく、何となく困っている仲間がいたら、ちょっとひと声かけてあげて。
大丈夫?
なんか手伝うかい?
他者のこうしたひと声が、焦って余裕のない本人を正気に戻すことがあります。
悪意から悪いことをするわけではないので、気づけば立ち止まれます。
事案後始末で本人に聴取をすると、泣きながら何であんなことやったんだろうと回顧する当事者もいます。
我にかえれば踏みとどまれるはず。
そのきっかけをみんなで与える意義はかなり大きいと感じました。
ミスったのは仕事が多忙だったからとして片付けられるなら楽ですが。
仕事を減らせませんし、人を増やせないのですから、それでは解決しません。
コンプライアンスの問題も、やはり話しやすさ(声かけやすさ)にあると現場で事案処理を経験し思うのです。
決してルールを厳しくすることでもなく、当たり前のようなことではありますが、話しやすさ、これが一番効きめがあるように感じるのです。
yoitenki4110