いつか誰かをあたためる朝に
直径18cmの鉄のフライパンは、11年かかってようやくわが家のキッチンになじんだ。
何度焼いても焦げついて、どれだけ油を引いても食材は取れなくなった。
使いこなせないとあきらめて、放置すること3回。
1年以上ふれずにいたこともある。
それでもうっすらとサビが浮き、茶色くなっていると胸が痛んだ。
とてもいいもののはずだった。
私が持っているせいで、よさを発揮できずにいる。
サビを落とし、焼き直し、油をなじませ何度も火を入れた。
高価なものでもないのに、どうしてもあきらめられなかった。
使ってもダメを11年くり返しているうち、なんとなく使えそうな兆しが見えた。
今でも使う前は煙が出るまで焼いて油をなじませ、使ったあとも油を引きなおす。
ズボラな私が、なぜか必死で向き合った。
朝5時、鉄器の熱がひんやりとしたキッチンをあたため、するり、とベーコンエッグがお皿に落ちる。
黄身は半熟、サニーサイドアップだ。
必死で格闘した日々がウソのように、フライパンは私の腕以上のものを作ってくれるようになった。
用意した朝食を見ながら、ふふ、と笑いがこみあげる。
たかがフライパンひとつ。私の未熟さそのままの、バカみたいに長い年月だった。
けれどいつか私がいなくなった後も、このフライパンが誰かの朝をあたためるなら、悪くないな、と思っている。
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