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坐禅とは、【問いを生み出す】エネルギーではないだろうか!


はじめに)

毎月実施している私どもの第6回センスメイキング道場では、10月14日に、坐禅を体験する会を実施しました。

 禅は現在、第2ブームと言われており、「心の科学」としての側面が国内外で注目されています。

6世紀に南インドから,アフガニスタン中央アジアなどを経て、中国、そして、8世紀に栄西とその弟子道元により日本に伝わった禅は、伝来後、臨済宗,曹洞宗、黄檗宗と分派して、ターゲットを変え、コンセプトも変えていきます。
臨済宗はかなり上流階級へ、曹洞宗は庶民へと流布します。
ここで私の問題意識にあったのは、

1.日本に何故(坐)禅が伝わってきたのだろうか?
2.日本では、中国よりも坐禅を日本の文化の創造を展開できたのはなぜだろうか?
3.その後日本に流布してから、更に1500年を経過して1950年代になって、日本人鈴木大拙を通してアメリカに伝わったのはなぜだろうか?

(あのスティーブ・ジョブズやシリコンバレーの企業にまで影響を与えているのはなぜ!)

※鈴木大拙は、仏教哲学者で、世界に禅を広めた。禅と浄土,仏教とキリスト教、あるいは仏教と心理学ななどさまざまな分野、世界を、架橋した人物


これらの問題意識を持ちながら、今回のセンスメイキング道場を開催しました。

 結論から申し上げますと、禅の活用目的が変化したことが大きいと思います。
当初日本に伝わった時は、天変地異、社会不安、心の不安を取り除くというストレス除去を目的にしていました。
しかし、現在では、マインドフルネスのような形態に変化し、ものを考える時に予定調和ではなく、自分をゼロクリア(何ものにもとらわれないで)にして、創造性を養ない、構想力を付けることになると考えるからです。


センスメイキング道場の鍛錬の目的は、新しい視点【知のイノベーション】により自ら気づきを得るものです。

※知のイノベーションを引き起こす方法論として、崩して作り直すことがあります。
経済学者シュンペーターによる
イノベーションの本質は、「新結合」であり、既にある要素を「組み替える」こと、分解して再構築して組み替える。
(予定調和ではなく、違和感を覚えてそれを反転させながら組み替えることで新しい要素を創出させること。)
その為には【徹底した対話】が必要になります。
それを【対面で共創する相互主観】と、現象学のフッサール、さらにその研究をしている野中郁次郎名誉教授はいいます。
【徹底した対話】は、日本人はどちらかというと不得手であります。

【知的コンバット】と言われます。
しかし、師は、知的コンバットができるのは、ある程度の暗黙知の高質化をしている人間同士がすることでより効果があると言われます。



当日はメンバー10人が参加(他メンバーは、別日にて参加)。
浅草にある臨済宗妙心寺派の禅寺にて、並木泰淳住職の指導による
講話と坐禅体験(10分✖️3回)です。

金龍寺

今回の狙いは、【暗黙知を高質化】することにあります。

※暗黙知とは、
言語や文章で表現し難い主観的・身体的な経験知であり、特定の文脈ごとの経験の反復によって個人的に体化される認知スキル(信念創造、メンタル・モデル、直観、ひらめきなど)や身体スキル(熟練、ノウハウなど)を含んでいます。
これに対して形式知は、特定の文脈に依存しない一般的な言葉や論理(理論モデル,物語,図表、文書,マニュアルなど)で表現された概念知です。

「直観の経営」野中郁次郎、山口一郎著KADOKAWA p205


大事なことは、我々の「知る」という行為と方法は、暗黙知統合という能力だと、野中先生は、おっしゃいます。



ここでの坐禅体験は、まさに身体知を鍛えることです。
身体知とは,言葉だけで理解するのとは異なります。

私どもでは、以前から、4つの目的を設定して各企業さまと
プロジェクトを組んでおります。

①自分ゴトで考える力を養う。
②従来までのあたりまえを疑ってみる。
③感知・・・ありのままに観る力を基本にする。
④違和感を大切にする。


この内容は、今回の座禅体感により習得されることと考えて実施いたしました。

1.坐禅体感での感想・・・時間の概念の変化


メンバーと坐禅を共にした後、浅草寺に歩きながら、感想を話しました。
10分間の坐禅を3回とその間にあった休憩の2分で、メンバーはそれぞれに感じ取ったと思います。

私と一緒に歩いて話した方は、時間の概念についての変化を感じたとのことでした。
「最初の10分間の坐禅よりも、最後の10分間は、何故か短く感じられる。」
確か呼吸法は、3つ吸って,7つ数えながら吐くを繰り返して、100まで数える。それを終えたら、また最初から繰り返す。
我々の前を住職が、肩を叩く警策棒を持ちながら、ゆっくり歩く。
最後の10分間が、短く感じてあっという間に終えてしまう。
何故なんだろうか。3回目の集中度が高まっていくからでしょうか。

2.坐禅は時間のリズムを引き起こす


あの坐禅の呼吸法には,時間的リズムを引き起こす作業があるのはなかろうか!
生命科学者 柳澤桂子のいう
「生物に潜む〈繰り返し〉を求める本能をDNA配列から天体の運行に至る」("リズムの生物学"柳澤桂子 講談社学術文庫)


地球上のあらゆる生物は,生まれ落ちた瞬間から、太陽の周期や月の満ち欠けなど,天体の動きに同調しながら35億年以上、体内でリズムを奏でてきたものと,坐禅の呼吸法は、関係しているのではないだろうか!
つまり繰り返しによる心の安らぎと脳内エンドルフィン(体内にあるモルヒネの意味)の関係が生じるのでしょうか。

3.この繰り返しの中から【ゆらぎ】をもたらすものへの進化・・これが文学になり音楽なり、我々の商品開発の新しい創造に繋がる背景


この坐禅は、時間的空間的繰り返しに安堵感を与えるとする。
しかし人間は,それに退屈して、飽きる。
繰り返しは,揺らぎを求める。
柳沢桂子さん(御茶ノ水女子大学名誉教授)によれば、

生命現象にみられる色々なリズムに存在する【揺らぎ】についてあまり触れないできた。
しかしこれらが全て、素粒子の、あるいは原子の集合体におきる確率的な現象であれば、揺らぎがあって当然と言える。全ての平均値を中心にしてわずかに変動している。
心臓の鼓動や脳波ばかりではなく、星の輝きや川の音、風の速さなどにも揺らぎが見られ、その揺らぎの中にも単純な法則性のあることがわかっている。
このゆらぎが、1/f揺らぎである。

私達の心も文化や環境の中に揺らぎを求める。掃き清めらた、庭に数枚の落ち葉,活け花にみられる非対称性、たちまち
散ってしまう桜への恋慕。日本人は特に環境の中のゆらぎを大切にする民族に思える

「リズムの生物学」栁澤桂子 講談社文庫 p183


4.禅のゆらぎから生まれた日本文化


 禅とは初唐8世紀に中国から発達した仏教形態です。
その真のはじまりは、6世紀の初め,南インドから中国にきた菩提達磨から起こったと言われます。
現在、三井記念美術館にて、
「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」のイベントが11月12日まで実施されています。


これをみると、インド→中央アジア→中国の仏陀の精神の流れが明確に分かりますので、機会ありましたら、ご覧いただくとよろしいかと思います。

私が注目したのは、中国などに伝播するよりも、日本にだけ国民の文化形成に深く寄与したことです。

今回の浅草の金龍寺にもさまざまな書や拓本が本堂内にありました。

一般諸美術,武士道の発展、儒教および一般教育の普及と茶道の興隆に、日本文化および日本的性格形成上に禅が大きな影響をしたことは、鈴木大拙が、「禅と日本文化」岩波新書で,明確に書いています。(この書物は,欧米人の為に英文で表しており、禅が日本人の性格と文化にいかに影響しているかが分かります。)




私の仮説では、3.で書いた坐禅が日本の文化形成に寄与したのは、穏やかに自分を見つめて、時間的空間的安心感を得ることで、退屈するところからの【ゆらぎ】が発生する脳のリズムにあるのではないかと考えています。
もちろん,日本風土が変化に富むことと、異質なものを取り組む独自なスタイルを古来からDNAとして持っていることが合わさっていると思います。

5.「暇と退屈の倫理学」からみる新しいアプローチ

話変わりますが、スピノザ研究で有名な國分功一郎さんの
「暇と退屈の倫理学」(新潮文庫)というユニークなな哲学的考察があります。東大と京都大で2023年に1番読まれたそうです。



この書籍の面白いところを抜き書きしてみます。

(暇と退屈の説明)
・【暇】とは,何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は,暇の中にいる人の在り方とか感じ方とは無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わってくる。

・【退屈】とは,何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。
それは人の在り方や感じ方に関わってくる。
つまり退屈は,主観的な状態である。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎

この後、國分先生は、「暇がある」「暇がない」「退屈している」「退屈していない」をマトリックスに分けている。

そして20世紀の大衆社会は、より大きな問題をもたらしている。それは、ヴェブレンのいうブルジョワジーのみならず大衆もまた、暇を手にすることになったからだという。
暇を生きる術を知らないのに、暇を与えられた人が大量発生したからだという。

A「暇がある」「退屈していない」は、有閑階級で、暇を生きる術を持っている階級
B「暇がある」「退屈している」は、暇を生きる術を持たない大衆
C 「暇がない」「退屈していない」は、労働階級、労働を余儀なくされている階級
そして、
D 「暇がない」「退屈している」 は、 ?

國分先生は、Dを?として空欄になっています。
しかし、このD区分は,大切な要素が入っているのではないでしょうか!
例えば、暇がない、忙しいといつも仕事でいいながら、同じものをルーティンでこなす。もしくは、どうでもよいようなブルシットジョブをしている人は、他人には、退屈していないように見えて、実は、生産的創造できる作業をしていない。
本当にやりたいことではなく、自分がどうしたらよいかわからない、ワクワクしない。

Cが問題意識がない方だとしたら、Dは、問題意識があり、自分がどうあるべきかを考えている方ではないでしょうか?
この暇と退屈の分割で考えれば、現代における禅の対象者は、このDではないかとさえ考えてしまいます。
このDの中に、現代の解明できない社会,家族,人間関係,メノポーズなどの諸問題が内在しているのでは思うのですが、いかがでしょうか。

 言い換えますと、忙しい方であるが、自分モードで考えていない方が大多数であり、新しい発想をしたり、粘り強く考えたりする力がなくなっている方に、今回の坐禅が最も効用があると考えています。

6.まとめとして


冒頭に、提示した3つの問題意識は、日本人の独自のDNA中に、もしくは脳の中に刷り込まれたリズムに関係するのではないでしょうか。
日本の風土の変化に富んでいること、その背景にある無常観を感じる力、常態の存在しないことにあるのではないかと。

野中郁次郎教授の経営論は、26歳の時から、坐禅いわゆる参禅による修行をしていた西田幾多郎哲学を敷衍しています。
西田は、実在や実践を重視して禅体験を哲学的思索に普遍化したと言われます。
西田哲学の「純粋経験」や「知的直観」は、野中理論では,暗黙知と呼んでいます。
どちらも、知行合一を解き、実践知を重視しています。
そして部分最適ではなく、全体適合に向かうことを力説しています。
全体像として世界をいかに認識することができるか!

西田がいう、「知」は頭、「識」は身体全体という【知識】。
あたまだけでなく、こころのはたらきなどが、認識になることなど、マーケティングや経営の領域にも数多く示唆があります。

最後になりますが、坐禅は、「問いを生み出す」「問いを深める」ことになるのではないかと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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