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意思をなくした、あの時の自分へ
会議室で一人、抜け殻のようになっていた。
「自分は一体、何のために働いているんだ」
誰のために、どこを向いて目の前の仕事をしているのか、分からなくなった。
クライアントと会社に挟まれて、どちらの意見も大切にしたくて、無下にしたくなくて、いつしか自分の意思はどこかへ行ってしまった。
「何も考えてないよね」
当時は理解できなかったその言葉の意味も今なら少し分かる気がする。
「考える」とは、自分の意思を持つことだ。
決して、目的やメリットを整理することではない。それらを踏まえたうえで、自分ならどうするか、自分はどうしたいのか、明確なスタンスと意見を持つことだ。
クライアントから課題を吸い上げて社内に共有したり、会社の決定事項や方針をクライアント先に伝えるだけの、伝書鳩のような存在なら必要ない。
それは自分でも分かっていた、頭では。
クライアントと会社、その間に自分が入る意味とは何だろうか。
この状況で、自分自身はどんな価値を発揮できるのだろうか。
皮肉にも、その答え合わせは、会社を辞めた今になってしまった。
クライアントにとっても、会社にとっても、ベストな選択や決断は難しい。
時には、どちらかが譲歩したり、ぶつかったりする時だってある。
それでも、自分に課せられた役割は、関わる人全員がハッピーになれる選択を模索すること、そしてそれをやり切ることだったはずで。
関わる人たちがハッピーになれるビジョンやゴールを限られた時間の中で考え尽くし、それを伝え続ける。
それらをやり切るために、自分自身の確固たる意思が必要だったんだ、きっと。
ただ、自分の意思の精度は初めから正確なわけではない。
だから、時には間違ってでも、自分で考えて意思決定をすることが必要で、特に、事業においては「どんな選択をするか」以上に「選択した後にどれだけ頑張れるか」が大切だと思う。
自分で考えず、クライアントや会社に流されるがままに仕事をする、その末路は言うまでもない。
そこまでやって失敗して初めて、その失敗を「学び」と言えるのだろう。何も考えずに失敗したら、それはただの失敗になってしまう。
これだけテクノロジーが発達してもなお、会社が「人」で構成されているのは、人が意思を持てるからで、意思を持ったコミュニケーションをすることで、データや想像以上の成果を生み出せるからかもしれない。
意思がなければ仕事じゃない、意思がなければ人間じゃない。
やっぱり、こういう暑苦しさ全開の言葉が、何やかんや自分の性に合っているのかも。
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