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絶望の後にしか現れない希望

あの時車窓からぼんやりと眺めていた、ただの風景でしかなかった街。

「ここに住めたらきっと通勤は楽だろうな」
「ここに住めたら終電を気にせず遊べそうだな」

気づけば今、その街に住んでいる。

あいにく、終電を気にせず残業をする日々だけれど。

望んだ未来もあれば、望まなかった未来もあった。

そのどちらも確かにあったけれど、今、そのどちらでもないような気がする。

決してシナリオ通りとは言えない、そんな日々を鬱々とした気持ちで埋めたこともあった。

思えば、初めからシナリオなんてなかった。

いつだって、「こんなはずじゃなかった」と実感する時に初めてシナリオができるのだ。「実は、自分の中にはちゃんとシナリオがあったのだ」、後になってそう気づかされる。

憧れ、羨望、嫉妬、自分自身が最も認識したくない感情、自分のシナリオにそれらの感情を入れないよう注意深く蓋をする。

けれど、それではシナリオを書けない。自分自身をき動かしてきたものは常に憧れや羨望、嫉妬で、これらなくして過去も現在も未来も語れない。

「こんはずじゃない」
「本当はこうが良かった」

奥底にある理想やシナリオから目を背け、後になって都合よく過去を解釈し、今この瞬間自分が傷つかない言葉を選び、未来をうやむやにして生きていく。憧れ、羨望、嫉妬、自分以外に矢印を向けてばかりのはずなのに、肝心な時だけ自分に矢印を向ける。

そんな自分の“人間らしさ”に、限りなく絶望に近い失望を覚える。

けれど、どう足掻いてもそれが自分自身で、そういう時に限って、自分自身の輪郭がはっきりと分かり、「自分」という存在を強く実感する。もしこれを「希望」と呼べるなら、希望とは絶望の後にしか現れないのかもしれない。

帰り道、泣きたくなるような感情が込み上げてくるのは、思い通りにならない日々に嫌気が差しているからでも、何者にもなれない自分に失望しているからもでもない。

そんな日々でも、自分でも、何とかやっていけていることがどこか虚しく滑稽で、そして、僅かな希望だからだ。


この街は決して寄り添ってくれやしないけれど、絶望も希望もただ受け止めてくれる。

今日も明日も明後日も、未来で待つ最悪な日も、あの時風景でしかなかったこの街が、僕の帰る場所だ。

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おがたのよはく
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