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「感情的になれない」と感情的になる週末

週末は決まって、行ったことのないカフェに足を運ぶようにしていて、そこでこうして文章を書いている。

SNS映えするような何かを食べるわけでもなく、おしゃれな空間を写真に収めるわけでもなく、友人と一緒に時間を過ごすわけでもない。

ただ気になる場所へ一人で足を運び、アイスコーヒーを注文し、パソコンを広げ、文章を書き、ネットの海へ放り投げる、言葉にしてみると何とも味気なく、そんな自分の人間性がどう伝わるのか、いささか不安である。

感情をあまり表に出せない。

いや、出せないのではなく、「出そう」という気になれない。

感情を表に出せないことに決して悩んでいるわけではなく、そもそも出そうという気になれない、というより、“うまく出てこない”という感覚が最も近いかもしれない。

嫌味でも何でもなく(という枕詞がかえって嫌味っぽくしてしまうのだけど)、人目をはばからず感情を表に出せる人が、たまに羨ましく感じられる。

喜びも、悲しみも、怒りも。

自分は人並み以上に気を遣える方だと思っているし、協調性もかなり高い方だと思っている。だから、たとえ嫌なことや面倒に感じられることがあっても、相手に悟られないよう決して表情や言葉に出さない。

喜ぶときも同様、と書こうと思ったけれど、最後に喜んだときの映像、自分の喜ぶ顔が、なぜか鮮明に思い出せない。

きっと、大中小にかかわらず、自分にとって喜ばしい出来事はたくさんあったはずで、自分の“喜びのハードル”が極端に高いわけでもない。

思い出と感情はいつもセット、だから、思い出は「思い出」になれる。

日常の出来事に対して良くも悪くも感情的になれないと、やがてそれは「思い出」ではなくなっていくのかもしれない。

何をしたのか、何に気づいたのか、どこへ行ったのか、それらよりも「どう感じたのか」が実は大事なのだ。どう感じたって良いし感じなくて良い、その感じ方こそが自分らしさでもある。


無意識にでも、ある程度反射的にでも、感情を表に出せたり自分の感情に気づけるなら、それはそれで良いとして、自分みたいな人間はきっと言葉にした方が良い。

せっかく文章を書いているなら、気づきや知見、アイデアなんかより自分の感情や感覚と向き合って、それらを一つひとつ丁寧に言葉にした方が良いのかもしれない。

僕にも感情はあるし、感情のない人間なんていないと信じている。

窓際のカウンターテーブル、飲み口の薄いグラスに注がれたアイスコーヒー、左隣の空席、右隣のタイピング音、後ろで聞こえるシャッター音、予定の決まらないカップルの沈黙。

いつも通りで何があるというわけでもない、そんな週末でも、今日この文章を書けたささやかな喜びとアイスコーヒーの軽やかな酸味を、しばらくの間、忘れない気がした。

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おがたのよはく
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