マガジンのカバー画像

#アラサー #20代

22
きっとあなたも。
運営しているクリエイター

#自分らしく生きる

"何者かになりたい"という暇人の欲求

何となくモヤモヤして、何となく自分と向き合っているうちに、都合よく連休は終わってくれる。 そしたら、またいつもの日々が始まって、目の前にある仕事をこなしていればそれで良い、そんなどこか物足りないようで実は満ち足りた日常が戻ってくる。 飲み屋で愚痴をこぼす人も、朝の電車でSNSに憂さ晴らしをする人もみんな、嫌だ嫌だと言いながらもちゃんと仕事をする。連休で時間ができて、このままで良いのかな?なんて考えてみるけれど、結局何も変わることはなく、日々を過ごしていく。 人生とはきっ

まだ社会人という仮面を被っただけの、青くて不安定な僕ら

あれだけ「今か今か」と満開を待ち侘びていた桜も、いざ散ってしまえば、待ち侘びていたことが嘘だったかのように、僕らの頭の中から消えてしまう。 桜の花びらと希望を纏って歩いたあの日から、僕らはすっかり社会に揉まれてしまったらしい。 社会人1ヶ月目、想像以上に自分はできないヤツだと知った。 新しい環境、想像以上に自分は歓迎されていないと知った。 相変わらず、自分は何者にもなれないと知った。 あの日纏っていた桜の花びらも、希望も、たった数週間で十分すぎるほど踏み潰された。 下

誰だって、カッコつけたい時もある

「だめだ、やっぱりカッコつけちゃってる」と冷静になった夜もあれば、「結局、カッコつけてるだけじゃん」と怒りを感じた夜もあった。 「カッコつけすぎかな」と曖昧にした文章もあれば、「カッコつけすぎて中身が薄いな」と書き直した文章もあった。 誰だって、カッコつけたい時はある。 勝手に全員巻き込んでしまったけれど、少なくとも、僕はそう思っている。 目立ちたがりの男子のような“男の性”というやつではなく、“人の性”というやつだ。 数多の紆余曲折を乗り越え、酸いも甘いも噛み分け

24歳と365日、今思うこと

「明日誕生日じゃん、俺」 コーヒーを淹れながら、思い出したかのようにそう呟く朝が何とも日常的に感じられて、自分にとって誕生日がすっかり非日常ではなくなってしまった感じがして、少し淋しくなった。 - 自分が思う以上に、1年間で何かが大きく変わることはない。自分を取り巻く環境も、そして、自分自身も。 23歳と365日目、「今までの人生は、変化に身を任せすぎた」という実感があった。 だから、24歳の1年間は「自分から巻き込み、変化を作りたい」と決意した。 結果的には、思

何者かであるために、僕らは自分をアラサーと呼ぶ

僕らは、自分が「何者であるか分からない」と日々悩みつつも、何とか何者かであろうとしている。 「アラサー」 というのも、自分が何者であるかを表現するための一つかもしれない。 僕らは自分が何者であるかを表現する時、 といった要素で、自分が何者であるかを構成していく。 そこに、「アラサー」や「独身」といった肩書きも付け加えて。 少しでも華を持たせたくて、検定や資格、学生時代に獲った賞を何とかかき集めて履歴書を埋めていくように、「何者であるか」を表現しようとする。 ああ

「知り合いがYouTuberなんだよね」なんて言っているうちは

20代前半くらいまでは、活躍している知り合いや我が道を行く同級生を、どこか他人事のように捉えていたけれど(他人なのだから、そりゃそうなのだけど)、段々他人事のようには思えなくなってきたというか、素直に喜べなくなってきた。 昔は、 「知り合いがYouTuberで、チャンネル登録者数十万いるんだよね」 「同級生が起業して、今どこどこに住んでいるんだよね」 「学生時代の友人が、〜〜で全国1位なんだよね」 なんて、どこか誇らしげに言えていたけれど、 「いつまで“言っている側”