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"何者かになりたい"という暇人の欲求

何となくモヤモヤして、何となく自分と向き合っているうちに、都合よく連休は終わってくれる。

そしたら、またいつもの日々が始まって、目の前にある仕事をこなしていればそれで良い、そんなどこか物足りないようで実は満ち足りた日常が戻ってくる。

飲み屋で愚痴をこぼす人も、朝の電車でSNSに憂さ晴らしをする人もみんな、嫌だ嫌だと言いながらもちゃんと仕事をする。連休で時間ができて、このままで良いのかな?なんて考えてみるけれど、結局何も変わることはなく、日々を過ごしていく。

人生とはきっとその繰り返しだ。

書くか書くまいか、ずっと悩んでいた。

けれど、ずっとどこかで思っていた。

「何者かになりたい」という欲求は、暇がもたらす欲求なのだ、と。

連休中に思い立ってnoteを始めたものの、連休が明けて日常に戻った途端、幻のごとく書く行為や書こうと思い立った感覚は消えてなくなってしまう、「何者かになりたい」と思い悩むこともそれと同じようなものだ。

この1年間、余裕があった。余白だらけの日常を過ごしていた。

持て余していた日々は退屈に感じられ、その度に思い悩み、苦悩や感情に名前をつけ、文章にしてきた。

そんな日々は、決して「楽しい」という言葉で形容するには値しないけれど、こうして自分自身に書く習慣や束の間の没頭をもたらした、という意味では、決して無駄ではなかったと言い切れる。


4月、「新生活」という言葉の裏側を全て詰め込んだような日々が始まった。朝早くから夜遅くまで働く、そんな文字通り“忙しい”日々。

1週間に1度、何とか腰を据えて文章を書く時間を確保するのがやっとで、その他SNS全般の更新はあっさり途絶え、唯一の趣味と言っても過言ではないYouTubeでの動画鑑賞さえしなくなった。

けれど、どうやら自分はこの目まぐるしく、忙しない日々を求めていたらしい。“今を全力で生きる感覚”を渇望していた、と表現する方が正しいだろうか。

自分は不器用な人間だから、文字通り忙しくないと今を全力で生きることができない。

そんな自分とは違い、世の中にはきっと器用な人間もたくさんいて、器用な人間たちは、決して忙しくない日々の中でも今を大切に、丁寧に過ごすことができるのだろう。

あいにく、自分にはそれができない。

何かに強烈に追われていないと、すぐ目の前に追いかける何かがないと、「今」に集中することができない。

できることなら、夢とか野望とか、そんな確信のない何かを追いかけてみたかった。けれど、実際自分のことを追いかけていたり自分が追いかけているのは、期日や責任、役割、そんな到底面白いとは言えない、確信めいたものたちだ。

皮肉にも、そんなものに追われ追いかけるような日々が、自分には狂おしいほどお似合いらしい。

忙しない日々、「今」に集中せざるを得ない状況のおかげで、「何者かになりたい」なんて思わなくなった。いや、思えなくなった。

実際は自分と向き合うことから逃げているだけなのかもしれないし、未来の自分への宿題や負債を増やしているだけなのかもしれない。

それでも、暇を持て余していたあの日々よりも、忙しないこの日々の方が生きている心地がする。何よりも、そんな日々を過ごす自分の方が好きだ。


僕らは、自分自身が思う以上に“今この瞬間”を大切にできていない。

今自分が言いたいことを言う、今食べたいと思うものを食べる、そんな一見些細な願望さえ実現させられていないのだから。


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おがたのよはく
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