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「知り合いがYouTuberなんだよね」なんて言っているうちは

20代前半くらいまでは、活躍している知り合いや我が道を行く同級生を、どこか他人事のように捉えていたけれど(他人なのだから、そりゃそうなのだけど)、段々他人事のようには思えなくなってきたというか、素直に喜べなくなってきた。

昔は、

「知り合いがYouTuberで、チャンネル登録者数十万いるんだよね」
「同級生が起業して、今どこどこに住んでいるんだよね」
「学生時代の友人が、〜〜で全国1位なんだよね」

なんて、どこか誇らしげに言えていたけれど、

「いつまで“言っている側”なんだ自分は」

最近はそう思わずにはいられない。

昔は、純粋に他人事として捉えられていたから、素直に喜べたり誇りに思えていた気がするけれど、ある程度年齢を重ねて、自分のできること/できないことも何となく分かってきた中で、“言っている側”の自分に違和感を感じるようになった。

ちやほやされたいとか、ずっとフォロワーでい続ける人生が嫌だとか、そういうのとは少し違う。

もちろん、いわゆる承認欲求も全く無いわけではないけれど、何よりも、他者の成功や幸せを素直に喜べない自分が、どうしようもなくダサく思えて仕方がない。

友人の幸せに対して、喜びよりも先に焦りや嫉妬を感じるようになることが、「大人になる」ということかもしれない。

流れゆく日々の傍観者、変わらない何かを探そうとする僕ら

僕は、大人になったのだろうか。

これが「大人になる」ということならば、ずっと子どもでいたい。

理想を追い求めることよりも、あれこれ理由をつけて自分を納得させることを優先するようになるのが「大人になる」ということならば、ずっと子どもでいたい。

「アイツはアイツ、自分は自分」を免罪符にして、挑戦することから逃げるようになるのが「大人になる」ということならば、純粋に悔しさを感じられていたあの頃に戻りたい。


「これが大人になるってことだから」なんて言っているうちは、いつまで経っても“言っている側”なんだろうな。

書き終えた感想がこれなら、書かない方がマシだったかもしれない。

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おがたのよはく
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