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誰だって、カッコつけたい時もある

「だめだ、やっぱりカッコつけちゃってる」と冷静になった夜もあれば、「結局、カッコつけてるだけじゃん」と怒りを感じた夜もあった。

「カッコつけすぎかな」と曖昧にした文章もあれば、「カッコつけすぎて中身が薄いな」と書き直した文章もあった。

誰だって、カッコつけたい時はある。

勝手に全員巻き込んでしまったけれど、少なくとも、僕はそう思っている。

目立ちたがりの男子のような“男の性”というやつではなく、“人の性”というやつだ。


数多の紆余曲折を乗り越え、酸いも甘いも噛み分けたかのように人生観を語ったり、手に取るように自分のことを理解しているかのように、自分探しについて語る自分を、あまり好きになれなかった。

おがたのよはくを演じている時はカッコつけているくせに、現実の自分は紆余曲折とは程遠く、のらりくらりと日々を過ごし、夢や理想を語るくせに、あれこれ理由をつけて一歩踏み出すことを躊躇ったり、先延ばしにしたりする怠惰で臆病な人間だ。お世辞にも、カッコいいとは言えない。

寝静まった頃にヒップホップを流しながら、ダウンライトだけが点いた部屋で文章を書く、そんな自分をどこかカッコいいと思ってしまうところが、何ともカッコ悪い。

そんな自分を、自分自身であるはずなのに、どこか軽蔑していた。

「カッコつけずに等身大の自分を表現しよう」

いつしか、そう思うようになっていた。

「等身大の自分って一体なんだ?」
「こんなの自分の言葉じゃない。手垢にまみれた表現だ」

皮肉にも、等身大を意識すればするほど、等身大でない気がしてならなかった。

結局、カッコつけたい自分、カッコつけることが好きな自分こそが等身大の自分だった、ということだ。

く息が足りないほどのため息を、久しぶりにいた気がする。

不思議なことに、息を吐き切ったからか、どこか晴れやかな気持ちの自分もいた。

カッコつける、いや、“カッコつけてしまう自分”をようやく肯定できる気がしたから。

どうしてnoteで文章を書き始めたのか、理由ではなく、もっと感覚的な動機を思い出してみた。

一番最初に書いた文章は、実は小説で、「素人がネット上で小説を書く」なんて行為の原動力は「カッコつけたいから」以外に果たしてあるのだろうか(もちろん、あるのだろう)。

決してカッコいい文章が書きたいのではない。文章を通して、自分の思う「カッコよさ」を表現したいのだ。

誰かにとって、それは物凄くダサいものにもなり得るし、もう一方の誰かにとっては、ものすごくカッコいいものにもなり得る。

「ダサい」と「カッコいい」、あまりにも紙一重で不安定な、そんな表現をしたい。

カッコつけようとする自分は時に滑稽で、恥ずかしく思える瞬間もあるけれど、決してカッコよく映っていなかったとしても、カッコつけようとする自分はまさに“等身大の自分”で、どこか憎めない。


深夜、ヒップホップ、ダウンライト。

しらふで書いた文章は、一晩経って見返しても、きっと黒歴史にはならない。そう信じて、今日も投稿ボタンを押す。

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おがたのよはく
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