デスラー(西崎義展)vsシャア(富野由悠季)の戦争
今回は、アニメ「海のトリトン」について書いてみたい。
これは日本アニメ史において、非常に重要な位置づけの作品である。
なぜなら、あの富野由悠季の初監督作品なんだから。
それと同時に、「宇宙戦艦ヤマト」原作者・西崎義展の初プロデュース作品でもある。
・・うむ、これだけでヤバい匂いがぷんぷんするよね(笑)。
だってさ、この顔合わせは
左翼の富野vs右翼の西崎
混ぜるな危険!というのは火を見るよりも明らかじゃないか・・?
で、この「海のトリトン」はどちらが主導権を握ってたのかについて、その詳細はよく分かってないんですよ。
ただ、原作者・手塚治虫がほぼノータッチだったことだけは明らかである。
手塚先生は、このアニメについてこう語ってるから。
「このアニメでは、私は原作者の立場でしかない」
なんか、微妙なニュアンスの発言だよね。
まるで奥歯にものが挟まったかのような言い方である。
それもそのはず、この「海のトリトン」制作期間中、手塚先生の側近だった西崎義展が虫プロの経営悪化に付け込み、手塚作品全ての「映像化の権利」を個人として既に買収してしまっていたことが発覚したんだよ。
正直、これは仁義なき、西崎さんの明確な背信行為だわな。
あくまで噂だが、これに際して手塚先生は、悔し涙を流したとまでいわれている・・。
こういう流れもあって、やがて西崎さんは密かに裏でこんな異名で呼ばれるようになったわけです。
<デスラー総統>
実際、彼がデスラー級の狡猾さを持った人物だったのは間違いない。
手塚作品の版権を買い、「ヤマト」版権も松本零士先生と争って勝ち取り、常においしいとこ取りをした人物さ。
後に拳銃所持で逮捕されたところを見ても、「商談」というより「恫喝」、もしくは「脅迫」をできた人だと思う。
思えば、彼が日本に帰国したのは1970年のことである。
それまでは、3年ほど欧州あちこちを放浪してた人らしい。
俗にいう、ヒッピーってやつかな?
で、そこからどういう経緯で手塚先生に接近して、さらにはマネージャーにまでなれたのかは知らんが、1971年、「多忙な手塚先生に代わって、虫プロ商事の事実上の社長に就任した」という。
はぁ?
帰国して1年後に、もう社長代行?
ちょっと、流れが不自然すぎる。
おそらく、この時のどさくさの中で版権を個人で買収していたんだろう。
なかば虫プロの経営悪化による混乱をうまいこと利用した、「火事場泥棒」でしょ。
ただ、これが訴訟に発展しなかったところを見るに、おそらく全て「合法」だったんだと思われる。
というか、よく素性の知れない男に会社のマネジメントを託した、手塚先生の脇があまりに甘すぎたともいえるわけで・・。
そして1972年、西崎さんはオフィスアカデミー(後に「宇宙戦艦ヤマト」を作った会社)を設立。
・・こんなドタバタの中で作られていたのが、この「海のトリトン」という作品なんですよ。
正直いって、西崎さんはこの時点でほぼ「アニメのシロウト」である。
彼にあるのは、商才、ビジネスセンスのみ(あと、巧みな弁舌)。
まぁ間違いなく、監督の富野さんとはモメるわな・・。
ただ、この頃の富野さんは既に虫プロを退職済みで、「フリー」だったんだよね。
おまけに結婚直後だったらしく、自分1人ならともかく、今は家庭もあって生活がかかっている。
だから虫プロ時代みたく喧嘩上等ですぐにケツまくるわけにもいかず、これはあくまで私の想像だが、富野さんはこの状況で「仮面」を着けざるを得なかったわけよ。
・・そう、もうお分かりだろう。
この時の苦しかった経験が、後に、この「仮面」キャラを生んだということだね↓↓
赤い彗星・シャアアズナブル
「赤い彗星」、ここで<赤>をモチーフにしてるのは、左翼のメタファーである。
そして、対する右翼のメタファーとしたのが、かなりデスラーに酷似した、この男である↓↓
ギレンザビ
これ、ギレン=西崎、ということでOK?
このギレンはザビ家でも最もタチの悪い人物として描かれ、実際、彼は自らの野望を遂行する為に、ザビ家当主である<実父の殺害>までやってのけたんだからね。
おそらく、デギンザビ=手塚治虫という暗喩だろう。
シャアvsギレンvsデギン
(富野vs西崎vs手塚)
これが、「トリトン」制作時の偽らざる人間関係だと思います。
そして西崎さんは、明確な<総統>キャラだったと思う。
だから私の解釈として、「トリトン」は富野さんの作品とされつつも、実は結構な比率で西崎さんの作品だったともいえるわけですよ。
特に私がそれを強く感じたのは、トリトンが使う「オリハルコンの短剣」の存在である。
オリハルコンの短剣
このオリハルコン、手塚先生の描いた原作には全く出てこないものなんだよね。
つまり完全にアニメオリジナルなんだが、でもこの剣、めちゃくちゃアニメの中ではチートアイテムである。
正直、トリトンが敵を倒せたのはほとんどがこの剣のスペックによるものであり、実をいうと彼自身は大して強くもないのよ。
たとえトリトンがどんなに苦戦しようとも、必ず最後はオリハルコンの一閃で決着するんだから。
私はこれを、<「宇宙戦艦ヤマト」の波動砲の前身>だと解釈している。
チートアイテムでの逆転勝利、これこそが<西崎スタイル>のスタンダードなんじゃないの?
多分、<富野スタイル>ではないと思う。
でも、富野さんは富野さんで、彼は従順な「仮面」を着けつつも、虎視眈々と反逆のチャンスを伺っていた感はある。
その反逆が一気に露呈したのが、第27話、最終回だろう。
この回の脚本書いたのは富野さん自身ということになってるんだけど、実は脚本そのものが存在しなかったらしい。
構想は、全て富野さんの頭の中。
「脚本を公開すれば潰されると思ったから」と、彼は後にカミングアウトしている。
まぁ、それもそのはずで、その最終話の内容は今までの「勧善懲悪」という作風を一転させ、そもそもトリトンの敵・ポセイドンがなぜトリトンを襲うのか、そこには彼らなりの「大義」があった、ということが明かされるんだよね。
彼らは「世界征服を企む悪の組織」みたく、子供向けのアニメにありがちな漠然とした<悪>ではなかったのよ。
どっちかというと、<民族の解放を願った、被差別種族の末裔>というのが正解。
それまで彼らを<悪>と信じ、彼らを滅ぼすことが<正義>だと思い込んできたトリトンなんだが、全てが終わった後、この闘いが海底に棲む非戦闘員のポセイドン族をも全滅に追いやっていたという現実に直面し、かなり後味の悪い物語の幕引きだったわけです・・。
このオチは、いかにも富野さんらしい。
これをプロデューサーにノンアポで制作しちゃうあたり、やっぱ富野さんは反骨の人だね。
おそらく彼として、ふわっとした<悪>、ふわっとした<正義>という設定がどうしても許せなかったんだろう。
でもこれ、子供向けアニメだったんだけどな・・。
で、この後、西崎⇔富野にどういうやり取りがあったかは分からない。
多分、モメただろう。
でも、後に西崎さんは「宇宙戦艦ヤマト」制作で富野さんを呼んだりしてるし、このへんの関係性は正直よく分からんのよ。
ただ、その「ヤマト」の現場で大喧嘩になり、そこからはもう完全に決裂したらしいけど。
・・あ、なんかさ、ここまでの論旨で私が西崎さんのことをディスった感じなってると思うけど、でもね、私は彼の「商才」「センス」みたいなものは一流だったと思ってるのよ。
前述の「オリハルコン」のようなチートアイテムの設定とか、物語としては少しあれにせよ、視聴者の子供たちには絶対評判良かったと思うし。
あと、ヒロインのピピという女子キャラがいるんだが、これが原作とは全く違うキャラになってて、超インパクトあるものに改変されてるのよ。
もうね、アニメ版ピピの高慢キャラたるや、エゲツないですよ。
今でいうと「ツンデレ」のカテゴリーになるのかなぁ・・。
年寄りにひたすら甘やかされて育ったクチで、めっちゃワガママばかり言う子なんだ。
だから序盤は、ず~っとトリトンvsピピの喧嘩である。
何でこんな設定にしたのかなと思ったけど、でもこれ、確かに子供目線ではめちゃくちゃ共感できるものかもしれん。
思えば小っちゃい頃って、やたら男子は女子にムカつくもんだし、また女子にしたってそこは同じ感覚だろう。
なんつーか、こういうところの設定センス、「トリトン」はやたら秀逸なんだよ。
OPもキャッチーだし・・。
で、「トリトン」には本編のTVアニメ版と劇場版の2パターンあるわけだが、劇場版はTV版の編集である。
ちなみに劇場版の制作を富野さんは聞かされてもいなかったらしく、つまり富野さんはノータッチ。
こういうところにも、西崎⇔富野の不和を感じるよな・・。
だけどね、私はよっぽどの富野ファンでもない限り、見るなら劇場版で十分だと思うのよ。
やっぱこの作品、キモは最終話だし、劇場版もそこはきっちり尺をとってるからね。
で、劇場版は何より導入がいいんだ。
いきなり冒頭で、西崎さんから観客へのメッセージが出るんですよ(笑)。
この作品は、TVシリーズ「海のトリトン」を映画監督・舛田利雄氏と共に新たに再構成したものです。
私にとっては最初のアニメーションで、 トリトンの未知の世界に夢を燃やし、雄々しく人生に立ち向かっていく勇気は、私の大好きなテーマです。
プロデューサー/西崎義展
いきなりプロデューサーの語りから入る映画って、私はあまり見たことないぞ?
このデスラー、どんだけ自意識の強い人やねん・・。
まぁそんなわけで、西崎義展vs富野由悠季の「トリトン」戦争、その結末は西崎さんの勝利だった、ということでいいんじゃないでしょうか?