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「BLACK LAGOON」バイオレンスの裏に秘められたテーマ

今回は、「BLACK LAGOON」について書きたい。
これは言わずと知れた、ガンアクションの名作である。
このてのバイオレンス系アニメにおける、歴代最高傑作と断言する人も多いよね。
私も概ね同意する(実質、これと「ヨルムンガンド」がこのジャンルの2TOPかと)。
しかし大事なポイントがもうひとつあって、それはこの作品があの片渕須直の監督・脚本作品ということだ。

なぜ、片渕氏みたいな人がこれの制作に携わったのか?
そこには、どうも違和感を覚える。
だって、どう見ても「この世界の片隅に」や「マイマイ新子と千年の魔法」に見る、片渕監督の世界観に合ってないじゃん?

片渕監督作品群

で、私は当初、こう考えてたわけよ。
片渕監督は、たまたま巡りあわせで「BLACK LAGOON」を作っただけで、そこに深い意味があるわけでもないと。
誰しも、自分がやりたい仕事だけをできるわけじゃないからね。
しかし、少し前に私はたまたま片渕監督の昔のインタビュー記事を読んで、その内容に少し驚いたんだ。
というのも、そのインタビューの中で彼は「BLACK LAGOON」制作を
どうしても必要な過程だった
と語ってたのさ。
でね、先日改めて「BLACK LAGOON」を再視聴してみたんだが、なるほど、確かにこの作品はじっくり腰を据えて見てみると、片渕イズムがあちこちに潜んでるのがだんだん分かってきたわ。
これ、意外と奥深いぞ?

「アリーテ姫」(2000年)

じゃ、本題に入ろう。
というか、「BLACK LAGOON」を語るより前に、まずはひとつ、別の映画をご紹介したいと思う。
これは、片渕監督の長編映画デビュー作「アリーテ姫」。
「BLACK LAGOON」を紐解くにあたり、まずは前提としてこの映画を踏まえなければならん。
なぜなら、片渕監督自ら
「BLACK LAGOON」は、「アリーテ姫」が前提
みたいなことを実際に言ってるんだから。
・・ただ、この「アリーテ姫」、ぶっちゃけ面白くないのよ(笑)。
とはいえ、映画としてのクオリティはめちゃくちゃ高く、いやむしろ、その出来は完璧といっていいほど。
「つまらんけど、クオリティは認めざるを得ない」という作品って、たまにあるでしょ?
私の場合、それの典型が高畑勲なんだけど(笑)。
ぶっちゃけ、「アリーテ姫」を見た私の率直な感想も
「まるでこれ、高畑勲が作った映画みたいだな・・」
という感じだった。
とはいいつつ、皆さんにはぜひ一度これを見ておいてもらいたい。
というのも、この映画は「構想8年、製作3年」という、片渕監督の作家性が非常に色濃く反映された作品なんだから。

「アリーテ姫」のヒロイン・アリーテ

これを見た人たちは、きっと多くがジブリ色を強く感じたに違いない。
実際、片渕監督は元ジブリだし、宮崎駿の愛弟子みたいな人だし、ジブリ色が強いのは当然だと思うよ。
まぁどっちかというと、高畑勲色の方が色濃い感じではあるけど・・。
で、大事なポイント。
片渕監督という人は、なぜか常に女性を中心に描く作家性なんだよね。
「この世界の片隅に」、「マイマイ新子」、そして次の新作も清少納言主役の映画みたいだし、あと「BLACK LAGOON」もレヴィ、バラライカなど女性キャラの印象がとても強い。
この「アリーテ姫」もアリーテという不幸な姫が主人公の物語で、ちょっと「かぐや姫」(高畑勲監督作品)っぽいテイストである。
アリーテ姫には、とにかく自由がない。
これのあらすじを大まかにいえば、アリーテ姫が「自由」を求める物語、といったところか。
片渕監督は、確か「自己実現」という言葉を使ってたっけ?
「女性の自己実現」って、片渕作品共通のキーワードだと思うんだわ。
「この世界の片隅に」のすず、「マイマイ新子」の貴伊子、そして「BLACK LAGOON」の雪緒。
特にアリーテ姫と雪緒は、どちらもcv桑島法子。
これ、かなり意図的なものだと思う。
かたや、一国の王女。
かたや、暴力団「鷲峰組」の組長(兼女子高生)。
前提からして酷似した境遇、そしてどちらもが不幸な女性である。
思えば「BLACK LAGOON」は、不幸な女性の成れの果て博覧会みたいな作品だわな?
レヴィ、バラライカ、雪緒、そして戦闘メイドのロベルタ・・。
片渕作品を見る上でのコツ、それは女性キャラを中心に見ることだと思う。

屈指の大人気キャラ、戦闘メイド・ロベルタ

あと、片渕監督は「アリーテ姫」から「BLACK LAGOON」にいくまでの間に、実はひとつ、ゲームのアニメ監督を経由してるのよ。
それが、「エースコンバット04」ってやつ。
ここで一回、バイオレンスを経由してるんだよね。

アリーテ姫⇒エースコンバット04⇒BLACK LAGOON

こういう系譜で捉えれば、何となく話が繋がるでしょ?
じゃ、ここで「エースコンバット04」の内容を少し見てもらおうか。

ね?
改めて片渕監督の作家性の強さを感じるでしょ?
やはりというべきか、ここでも不幸なヒロイン「酒場の娘」の姿が描かれてるんだよなぁ・・。
ちなみに片渕監督は、この「04」以降も「5」、「7」と継続してこのゲームの脚本を作っている。

雪緒

これは、「BLACK LAGOON」日本編のメインヒロイン・雪緒。
多分、片渕監督がこの作品で一番描きたかったのは、この雪緒だと思う。
前述の通り、キャラ設定としては、雪緒=アリーテ姫。
片渕さんが描くヒロイン像って、「ナウシカ」でも「もののけ姫」でもないんだよねぇ。
運命に翻弄され、それに対し抗おうとするも、彼女らはナウシカやサンほどのスーパーウーマンというわけじゃない。
「この世界の片隅に」のすず、「マイマイ新子」の貴伊子、「アリーテ姫」のアリーテ、そして「BLACK LAGOON」の雪緒。
みんな凡人である。
そして、この物語で雪緒はこう言うんだ。

人ってね、サイコロと同じだって、あるフランス人が言ってるんです。
自分でね、自分を投げるんです。
自分の決めた方向に。
それができるから人は自由なんだ、って。
みんな境遇は違ってて、でも、どんな小さな選択でも、自分を投げ込むことだけはできるんです。
偶然とか、成り行きなんかじゃなく、自分で選んだその結果ですよね

このセリフ、まさに片渕監督の作家性を集約した内容だと思わないか?
そして、このセリフは「BLACK LAGOON」第5話、ロックvsレヴィの確執という伏線を回収するひとつのアンサーとなっており、ここが物語の最大のキモなんだわ。
そもそも、「BLACK LAGOON」のプロットを明確にいえば
会社に捨てられたロックが、レヴィと衝突する中で自らのアイデンティティに葛藤するも、最後には日本で雪緒に会い、自分の立ち位置をようやく選択した
という感じにまとめられると思う。
これまでずっとサイコロを投げるのを躊躇っていたロックが、それを雪緒に指摘され、「今の自分は、何者にもなれていない」と自覚して狼狽えるのが第22話。
はっきり言うけど、決して「BLACK LAGOON」はガンアクションがメインじゃないのよ?
メインは第5話の問題提起から、それを最終話で回収するに至るまでの心理描写である。
ほら、「アリーテ姫」の中でも、アリーテが言ってたでしょ?

私は、お姫様なんかじゃない、「何か」になりたい。

これまでアリーテは、「まっさら」な自分、何者にもなれていない自分をずっと嫌悪していた。
そして最後の最後、彼女は遂にサイコロを投げた。
こういうプロットは、全ての片渕作品に共通した構造だと思う。
片渕作品では、最後にヒロインはサイコロを投げて、必ず「何か」になって終幕を迎える。
それが幸福なパターンもあれば、「BLACK LAGOON」のように想像を絶する不幸なパターンもあるわけで・・。

「BLACK LAGOON」最終話

いや~、やっぱ片渕須直って凄いね!
あの丸山正雄が、片渕氏の為だけに会社をひとつ作ったというだけのことはある。
もはや、この人は高畑勲二世だよ。
彼が「BLACK LAGOON」を手掛けたこと自体、
もしもジブリが、バイオレンス系アニメを作ったら・・
というシミュレーションに近かったと思わない(笑)?

今後、もし宮崎駿が亡くなったとして、そのジブリ魂を継承できる序列1位は間違いなく片渕氏だと思う。
次回作は清少納言モチーフと聞いてるんだけど、これも「マイマイ新子」の延長線上だよね。
確か、あの作品にも子供時代の清少納言が出てきてたわけで・・。

「マイマイ新子」の重要キャラ・清少納言

こういう作品の連続性、まさに「作家性」だと思う。
皆さんも今後「BLACK LAGOON」を再視聴する機会があったなら、その時は何かひとつ、別の片渕作品を併せて見ることをお薦めします。
たとえば、それが「この世界の片隅に」でもいいのよ。
全然モノが違うじゃん!と思うかもしれないけど、実のところふたつの作品のメッセージ性って全く同一なんだよね。
やはり一流の表現者ってやつは、何を表現したところでブレない何かがあるということだろう。

なぜか「BLACK LAGOON」は、男性キャラより女性キャラの方が強い


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