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今さらながら、押井守の作家性を考えてみよう

昔から日本のエンタメって、何ごとも黎明期にこそ巨大な才能が湧いてくるものである。

かな文字黎明期⇒紫式部デビュー

近代文学黎明期⇒夏目漱石デビュー

漫画黎明期⇒手塚治虫デビュー

歌謡曲黎明期⇒美空ひばりデビュー

映画黎明期⇒黒澤明/小津安二郎デビュー


どんなカテゴリーでも<神様>級の天才が一番最初に出てくるという傾向は、果たして全世界共通のものなんだろうか?
・・いや、必ずしもそうとはいえないと思うけどなぁ。
いわば、こういうのって日本エンタメの特徴ともいえる気がするけど。

でね、アニメ界においてもまた、同様のことがいえるんですよ。
テレビ黎明期の60年代、それこそ<神様>級の天才がごっそりと湧いてきたわけさ。

【東映動画(現東映アニメーション)】

・高畑勲
・宮崎駿

【虫プロ】

・杉井ギサブロー
・出崎統
・富野由悠季

やっぱ、この時期のアニメ業界は<東映vs虫プロ>だよね。
で、面白いなと思うのが、東映は高畑勲、虫プロは杉井ギサブローがお互い序列のトップに君臨してて、この御二人ともが「仙人」みたいなキャラなんだよね(笑)。
あまり「負けるてたまるか!」とか「絶対売れてやる!」とかの俗っぽさを感じさせない御二人で、常に飄々とした浮世人のスタンスである。
ただ、その下の宮崎駿、および出崎統富野由悠季あたりにはギラギラしたものがあって、この三者の攻防がその後のアニメ界を牽引していったように思う。

さて、ここで「押井守は?」と思った人もいるんじゃないだろうか?
いや、彼はね、東映でも虫プロでもないんですよ。
第三勢力、「タツノコプロ」ですわ。

タツノコプロって、なんか面白いよね。
うまいこと、東映/虫プロがやらなそうなことを敢えてやってる感があって、独自の存在感を発揮していた感じだ。
よって、真っ向から東映⇔虫プロの間に割って入ろう、というスタンスではない。

・・そう、それこそがまさに<押井守>そのものだ、と私は思うんだよね。
彼は、「ちょっとだけ遅れた世代」である。
何に遅れたのかというと、「60年安保」だよ。
東映/虫プロの天才たちはみんな60年安保直撃世代で、左翼系ど真ん中の人たちである。
だけど、押井さんは1951年生まれ、ちょっとだけそこにズレてるのさ。
だけど、左翼運動そのものには憧れていて、実際高校時代は学生運動に傾倒していたという。
ただし高校生の学生運動なんて、しょせんは「ごっこ」、「ファッション」なんだよね。
このへんの空気感は、村上龍の小説「69-sixtynine-」を読んだ人ならご理解いただけると思う。

映画化もされた「69-sixtynine-」

確か、押井守と村上龍は学年が同じだったはず(村上龍は1952年の早生まれ)。
つまり押井さんも、ああいう空気感の中で青春時代を過ごしてきた人なのさ。
だからベースは村上龍同様「ファッションとしての反権力」であり、そこは日大の闘士だった富野さんや「赤旗」に連載してた宮崎さんみたくホンモノでは決してない。
・・だけど、こういうタイプはこういうタイプで、実は強みがある。
たとえば村上龍を例にとって考えてもらえば話が早いんだけど、彼は作家としての立ち回りが非常にうまかったと思わない?
先輩のアウトロー的芥川賞作家・中上健次にすり寄って可愛がられたりとか、<W村上>として比較対象だった村上春樹とも案外仲良かったりとか、キャラ的にめっちゃ生意気そうに見えて、実は年上の人たちとの付き合い方が非常にうまいんだ。

「RYU'sBAR」での村上龍(右は柄谷行人氏)

・・で、これと全く同じことを感じるのが押井守なんですよ。
彼は、宮崎駿とも富野由悠季とも仲がいいという稀有な存在である。
また、同時に出崎統にも、杉井ギサブローにも最大限の敬意を示している。
つまり、パッと見はアウトローっぽい感じがあるのに、その実体はそうでもないんだと思う。
多分だけど、押井さんは年上の人と接する際、語尾に「やんす」を付けてるタイプだと思うよ?
いや、タツノコプロだから、ボヤッキー、もしくはトンズラかも・・。

とはいっても、彼のベースになってるものは、あくまで<闘士への憧れ>、<全共闘への憧れ>である。
実際、「うる星やつら」のメガネは押井さん自身の投影だという説もあり、そのメガネは実に時代錯誤な学生運動型闘士キャラだったもんね。

「うる星やつら」第64話におけるメガネ

つまり、押井さんの作家性の核になってるのは「全共闘」なのよ。

【押井守の<国家権力>3部作】

①「人狼-JINROH-」(2000年)原作/脚本

②「機動警察パトレイバーTHE MOVIE」(1989年)監督

③「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」(1995年)監督

この3作品、国家権力vs反権力を描いたものであり、それでいて主人公がいずれもがなぜか国家権力サイドなんだ。
そこが何とも興味深い。
で、必ず最後は反権力が屈する形で締めくくられる。
何ともそこがクールというか、達観というか、一種のニヒリズムである。
そういうところに、富野由悠季的な<体温>はないんだよね。
だって、あくまで「ファッションとしての反権力」だもん。
村上龍の「コインロッカーベイビーズ」みたいなもんである。
・・いや、これは別に押井さんの作家性をディスってるわけじゃないのよ。
むしろ、その逆。

押井さんの作家性とは、その<体温>の無さこそが一番の売りである。


だってさ、考えてみて。
②の「パトレイバー」なんて、反権力側のラスボスが物語の開始時点でもう既に死んでて、あとはずっと偶像でしかなかったんだよ?
そこに<体温>はない。
そして③の「GHOST IN THE SHELL」なんて、反権力ラスボスの人形使いはもともと今の社会をどうこうしようという意志すらなかったんだよ?
そこに<体温>はない。
じゃ、人形使いが一体何をしたかったのかというと、ただ草薙と融合して、<あっちの世界>に行きたかっただけのこと。
<こっちの世界>には、さほど興味がない。

人形使い

こんなの、富野由悠季の世界観からすりゃ、それこそ地球に小惑星アクシズを落としてまで<こっちの世界>を何とかせんとシャアが必死にあがいてるというのに、一方で押井守の世界観は<こっち>はもういいです、と(笑)。
すんげーニヒリズムじゃね?
よく考えりゃ、「ビューティフルドリーマー」の時点で押井さんはもう既にそういうスタンスなんだよなぁ。
ずっとループしている<あっちの世界>で、ラムちゃんはこのままでもいいっちゃ、とか言ってるわけで・・。
<こっちの世界>を変革して(国家権力等と闘って)快適を目指すよりも、もともと快適な<あっちの世界>に亡命した方が楽じゃん、というスタンスである。

「ビューティフルドリーマー」

じゃ、押井さんのこのクールさは一体どこからきてるのかというと、それはおそらくだけど、自分自身が「ちょっとだけ遅れた世代」であるということの影響がデカいんですよ。
60年安保に遅れたからこそ、そしてその当事者にはなれなかったからこそ、どこか醒めて客観的に世界を分析してしまうのが押井守という男である。

で、こういう傾向は、押井さん以降の世代にこそ顕著になると思う。
それは庵野秀明もそうだし、新海誠もそうだし、細田守もそうだし、彼らが常にアニメで描いてきたものは<こっちの世界>の変革というより、むしろ<あっちの世界>の創造なんだから。
うん、庵野秀明なんて、いかにも「宮崎駿の後継者」っぽい顔してるけど、実は両者の作家性の間には意外とグラデーションがあるわけで、その中間に挟まってるのが、まさに押井守なんだよね。

押井守(右)と庵野秀明(左)、この2人は意外と仲がいい

アニメ作家における「オタク」のパイオニアって、多分押井守じゃない?
庵野秀明はアニメ/特撮のオタクだけど、押井さんの方は実写映画のオタク、およびミリタリーのオタクだろう。
実際、彼のそっち系に関する知識量はめっちゃ凄いよ!
だけど、彼より上の世代、高畑勲、杉井ギサブロー、宮崎駿、出崎統、富野由悠季、皆各々に文学/漫画に造詣は深いものの、彼らの場合は決してオタクではないんだわ。
このへんはニュアンスだけどね。
なんにせよ、上記5人と押井守の間には案外高い壁がある、ということ。

大体さ、<こっちの世界>はもういいじゃん、快適な<あっちの世界>に行こうぜというのは、オタクだからこそ出てくる価値観なんだよ

おそらく「GHOST IN THE SHELL」は、富野由悠季や宮崎駿などでは決して作れない作品さ。
彼らに作れるアニメは、あくまで<こっちの世界>ありきの物語だからね。

・・で、最近ちょっと驚いたのは、「攻殻」の新作をサイエンスSARUが2026年公開予定で現在制作に入ってるという話だよ。
Production I.Gじゃなく、サイエンスSARU?
一体、何が起きてるの?


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