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映画は早送りで観てもいいと思えてきた

「映画を早送りで観るのはいかがなものか」という論争がある。

私は小さな頃から映像作家志望で、もちろん作品鑑賞は大きな趣味でありカルチャー丸ごと含めて映画が好きなので、ファスト映画問題が取り沙汰される2021年ころ以前よりこのトピックには関心があった。


2022年に出版されベストセラーとなった新書『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史著・光文社新書)も当時拝読し、改めてこの問題が抱えるキャッチーな時代性とディベータブルな話題性を実感。映像コンテンツの受容スタイルに変革期が訪れていることを客観的にも知れた。


先日友人と食事を摂った際にもこの話題が登場し、その時点では「ファスト映画問題なんてのもあったね」という程度の浅〜い会話をした気がするが、日が経って改めて考えてみると自分の中で映像コンテンツを早送りで観ることに対するスタンスが固まってきたのでここに書き残しておこうと思う。なお、あくまで個人の意見でありそれ以外の意見に対し批判の意図はないことをご了承いただきたい。




私は映画が好きで、正確な記録はないが今までおおよそ700〜800本ほどは観ていると思う(しかし決して映画「通」ではない)。子供の頃から胸をワクワクさせる娯楽のひとつが映画だったし、夢も恋も絶望も、たくさんのものを教わった。

さて一方、私は病名がつくほどではないにしろ明らかに多動性注意欠陥のケがある。常に脳内では自分の興味分野に対する思考が巡り続けそれ以外は後回し。今まで就いてきた仕事は失敗続きで、マルチタスクに挑戦しようものならどちらか一方で壊滅的なミスを連発し、では単純作業はどうかと言うと集中力が続かないからこれもまたミスを連発。このバランスを取るために日常の思考を一本化・単純化すべくミニマリスト的生き方を実践しており、毎日同じものを着て似たものを食べる。

そういう私にとってインターネットの娯楽というものはすこぶる相性がいい(または同時に悪い)。光の速さで瞬時に情報がディスプレイを埋め尽くす環境の前に着座すれば、脳は興味のある方へ波打つゼロイチ信号の海をただひたすらに無酸素状態で泳ぎ続けようとする。果てしない知識を果てしないスピードで。ザッピングとスクロールの繰り返し。脳が求めているのは密度の濃い「情報」ただそれだけ。

そういうインターネット漬けの生活をしていると、やはり思考パターンもよりそちらへ傾いて行く実感が強い。より短い時間でより多くの知を。より疲れない方法でより豊かな娯楽を。すべてはコストパフォーマンスに支配され奥ゆかしさも情緒性も時間の短さの前に重視されなくなっていく。そういう世界で映画を倍速視聴する若者が増えるのも納得だ。

だがもう戻れない。この快楽にいちど身を預けてしまったら最後、ローテクノロジーの世界へ回帰するのは不可能だ(揺り戻しとして時に起こる懐古のムーブメントもたとえばVaporwaveやFuturefunkにパッケージングされこれもまた電子の海を漂って流れて行くことになり結局はインターネットという広大なバベルの図書館に包含されるにすぎない)。

こういう人間(私)にとって、映画の面白さの本質とは何か。すみませんが、私もやっぱり「話の筋」が好きなだけなんですよね。

もちろんそうでないお気に入りの映画も時にはある。音楽との相乗効果が素晴らしいとか、映像そのものを見ているだけで快感だ、とか。ところがそんなものは1000本観たうちの100本程度に過ぎない。あとはもれなく、話の筋を映像付きでわかりやすく吸収できるところに価値がある。と私は感じてしまう。

主人公がどういう苦境に立たされてどういう解決の仕方をするのか。そこにどんな謎解きやひらめきが与えられているのか。どんな設定の中で人物たちがもがく話なのか。ラストのどんでん返しとはどんなものか。そういうところが気になっているのであって、いわゆる「無駄にもったいぶる恋愛描写」「進展のない会話」のように"若者たち"から切り捨てられるようなシーンにも等しく価値があるとは私は思わない。そういうシーンが描く情緒性とかもどかしさみたいなものがあるとしたら、それを吸収できる精神がある人間はそれを吸収したらいいが、私はそれがない。いいからどういうオチなのか教えろ、と思うだけの1時間50分と、座り続けて耐えた腰の痛みがどんでん返しの快感に裏返る10分間の計2時間があるだけ。

実際に学生時代はプロの映画監督に師事し映像制作の第一歩を教わったこともあるが、その中で実感したのは「映画というのは観客が思う以上に妥協と事情で作り上げられている」ということだった。ほとんどの映画には「カットしても問題ない要素」が存在し(誰が観てもそれがないというのはつまり全人類にとって完璧な映画ということで、それは私が観てきた中にも数本とない)、それが入り込んでしまう事情がどうしても存在する。予算だったり尺の都合だったり、あるいはポジティブに遊び心やこだわりだったりすることもあるだろう。それら全てに等しく等速で視聴する価値があるのかと問われると私にとってはそうではないだろうと言いたくなる。

「作り手の意図した形で観るのが正義なのだ」と言うのならば、離散的なデジタル信号に変換されてお手元に届き矮小なスクリーン上に再映写された作品を貧弱なイヤホンで視聴することは作り手の意図の範囲なのだろうか。それが満員電車の通勤時間帯なら尚更どうだろう。たとえ高品質な映画館に足を運んでもらっても、壮絶なサウンドトラックが鳴り響く凄惨なゴアシーンに視覚と聴覚を支配される観客の味覚はキャラメル味のポップコーンとコーラに支配されているこの状況は映画制作者の意図をそのまま受け取っていることになるだろうか。字幕は?吹き替えは?途中で一時停止してトイレ休憩を挟むのは最高神たる大映画監督様に対する最大の冒涜になり得ないか?

つまり私が言いたいのは「作り手の意図を100%受け取るのは(脳を電極で繋いで意識同士を交わさない限り)不可能だ」ということ。そのパーセンテージをなるべく上げる努力をするかどうかは観客による趣味の範疇で、必須ではない(パーセンテージが下がることは悪ではない)と私は考えている。

音楽の世界ではサンプリングの技術がその文化に大変革をもたらした。作り手の意図など気にも留めない破壊編集と伸縮で世の中には新しい音楽が次々と生まれていった。この世の中の音楽が全て等速に制限されていたらDrum'n'BassもSped Upも存在しない。受け取り手が自由に解釈を与え咀嚼し発展させて行くことを文化は許容している。

映画にそれが許されない理由はないと思う。映画という一次媒体があって(それすら原作付きの二次媒体というかひとつの解釈であったりすることも多いが)、それを楽しむもよし、あるいはその醍醐味たる「サビ」だけをズバーンと切り出してDJ MIXしちゃえばナウなヤングはブチアガるはずだ。彼らは作品が聴きたいのではなくただただ刹那的な高揚感を求めているだけなのだから。しかしそれもやはり立派に文化以外の何者でもない。

もちろんこれは、ファスト映画は引用・サンプリングなんだから著作権法を適用するなとかそういうことを言いたいわけではない。そうではなくて、「製作者の意図」を下手に神聖化せず、受け取り手が作品をどんどん心地よい状態にこねていって嚥下してもよいのではという提案だ。

たとえば本ならもう少し柔軟にそれが実現できる。その本質は「情報の摂取」であることに映画と違いはないが、本は読む人間に速度を強制しない。速く読んでもいいし落ち着いて読んでもいい。なんなら気になる行を何度読んでもいい。新書大賞タイトルが「同じ行を何度も読む人たち――同じ行を何度も読む人たち」だったら面白いがあまりに普通だ。

だから今日も私は「オチは知りたいけど中盤はあんま面白くないな」と思った映画は迷わず倍速のボタンを押す。その作品を等速で観る真摯な映画ファンとしての振る舞いへの自己陶酔的快楽よりも少ない時間でスジがわかる事実の方が有益だからだ。なんなら「一粒食べるだけであの海外ドラマ長編シリーズを観た記憶が備わるアメ」とかあったら食べたい(これは小説でも全く同じ)。

大勢で一緒に観る場合はもちろんすり合わせが必要だろうが、結局は自分が最大限にその作品を楽しめる形であればなんだっていい。観ないより倍速でも観た方が楽しいのならそうすればいい。私は今後もそうして生きていきます。




最後にそんな私の好きな映画を紹介する。

『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』
 →ひとつひとつのシーンが含む示唆・情報量が尋常ではない

『2001年宇宙の旅』
 →ひとつひとつのシーンが含む示唆・情報量が人類の扱える領域を超えている

『プレステージ』
 →オチとそこに至るスジが面白い

『シン・ゴジラ』
 →情報!情報!情報!!!

『RRR』
 →ひとつの映画が抱えられる情報量と熱量ではない


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