たまには日記でも書いてみよう
たまには日記でも書いてみよう。
タイトル通りのことを思ったので書き始めている。曲名でも小説のタイトルでも、こういった記事のタイトルでも人はどのタイミングでタイトルをつけるのだろう。僕はタイトルを先に決めてしまうと、タイトルに引っ張られすぎて内容が徐々に型にはめられていってしまう感覚がするので、着地点を決めずにひとしきり書き切ってからいつもタイトルを決める。他の人がどう決めているのかは少し気になる。
朝起きた。休日に関わらず目覚ましよりも2時間も早く目が覚めた。僕の部屋はカーテンを閉め切ると朝でも昼でも完全に夜になってしまう。遮光カーテンというものを発明した人は、いつでも街を昼みたいな明るさにしようと白い街灯を考えついた人と真逆の発想をしているのだと思った。人はいつの時代でもないものねだりをするのだ。
布団から起き上がるとなぜか身体も軽い。その身体の軽さを確かめるように洗面所で顔を洗い、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。朝ご飯はヨーグルト1パックをまるごと食べる。ヨーグルトなら無限に食べられる。昔、寝転がった状態でチューブを通して上からヨーグルトが口に流れ込んでくる装置が欲しいと思ったことがある。
いや今でも欲しいかもしれないと思いながら、なんとなく部屋に転がっていたYogee New Wavesのレコードをかける。晴れた日の朝にはなぜかレコードをかけたくなる。わざわざ箱から取り出して、わざわざ大きい盤を取り出して、わざわざスキップもできない上にA面とB面を自分でひっくり返さないといけないレコードという存在。レコードはとても不便だ。だけどあまりに便利な世の中で暮らしているとそういう不便さをたまに愛おしく思いたい時がある。懐古主義ではなく、ただ自分の中のバランスを愛したいのだと思う。
何枚か取り出しているうちに自然とレコードの整理が始まった。これからの生活に向けてレコードを手放したり収納したりしている。この作業は自分にとって何が本当に大切なのかを量ることができるのですごく好きだ。
そうこうしているうちにお腹が空いてきたので、隣町まで散歩がてらカメラ屋さんにフィルムの現像に向かう。フィルムを出したら腹ごしらえだ。
現像までの40分はご飯を食べるのに丁度いいゆとりのある時間で、時間的な収まりが良くてとても嬉しい。
いつものカメラ屋さんでフィルムの現像をお願いしてカメラ屋さんの自動ドアを出る時に毎回一旦今日は何を食べようか考えてみるものの、結局決まっていつもの店に行ってしまう。
カメラ屋さんから5分ほどのところにある中華料理屋。豊富なメニューとコストパフォーマンスが魅力の地元の人たちが愛するお店だ。
外のメニューの看板を見ながら毎回すごく考える。どれもすごく美味しそうで、こちら側の想像力を掻き立たせる写真の撮り方がいつも必要以上に悩ませる。しかしながら結局毎回期間限定のメニューを頼んでしまう。僕の好奇心と"期間限定"という言葉に弱い日本人のDNAを毎回感じる瞬間だ。
今日頼んだのは黒味噌チャーハンと半ラーメンのセット。黒味噌というワードに思わず脳が反応してしまった。
想像通りの味と想像通りのチャーハンは今の自分にちょうどよかった。そして今日のチャーハンは盛り方が多かった。空腹の自分にとってはこれほどありがたいことはない。お昼時のサービスだろうか。毎回盛り方も味付けもバラツキがある、そんな気まぐれが愛おしい。
時に当たりの日があって、時にハズレの日もあって、いつも安定しているよりも日々ワクワクがあっていい。生きている心地がする。地獄でも天国でもない、この世の人生はのびのびと快適だ。
お腹を満たした後はカメラ屋に戻って現像した写真を回収に行く。今回は全部の写真が思っていたよりも綺麗に撮れていた。フィルムの写真は現像するまでどんな写りになっているかが正直なところ分からない。そこが美点でもあり欠点でもある。ただ自分にとってはこれこそが美点としか思えないのだ。これは先ほど語った街中華のチャーハン理論だ。
失敗も成功もすべて自分が形作ったもの。その場に居合わせた自分がもたらしたもの。それは失敗でも成功でもなく、ただそこに存在した事象なのだ。「運も実力のうち」という言葉があるが、あまり納得はいってない。運でも実力でもなく、その場に偶然居合わせた何かしらだと思っている。それが何か未だ分かっていないので僕はこのまま試され続けていたいと思っている。
お腹も心も満たされたので、公園に向かう。
この時間に公園で本を読むのが一番気持ちいい。喫茶店やファミレスなど色んな場所で試みてきたが自分にはお店という閉鎖的な空間が落ち着かず、テーブルという便利なものがあるとつい別のことをしたくなってしまう。少し不便であることが僕にはちょうどいい。
今日はどちらを読もうか悩んだ結果2冊とも持ってきた。どちらの気分になるか分からず悩んだら大抵2つとも持ってきてしまう。その時の気分というものを未だに予見できずにいる。
今日持ってきたのは遠藤周作のエッセイ『眠れぬ夜に読む本』と『眠れなくなる宇宙のはなし』という2冊だ。正直この2冊を本屋でカウンターに持って行った時に書店員さんは"この人は寝たいのか寝たくないのかどっちなのだろう…"とおそらく困惑したことだろう。正直あの時の自分も自分が寝たいのか寝たくないのか分からない精神状態だった。だからこそこの2冊を選んだのだろうと今では思う。結局あの頃の自分はどちらも選ぶことができず寝ることもできずただ朝を待っていた日々だった。今の自分は少なくとも寝るか寝ないかを選択できる。それはとてつもなく大きな違いだ。
遠藤周作のエッセイ『眠れぬ夜に読む本』は僕が生まれた1994年ごろの東京で生きている彼の死生観や生活のことが書かれたエッセイで、自分が生まれる前や記憶や五感がはっきりする前の世界のことが記されていて、この世界が自分が存在していなくても続いてることを知ることができるとても大切な本になっている。"眠れぬ夜に読む"とあるだけに深夜にいつのまにかに謎に深まってしまう死生観の話から、しょうもない内容まで幅広く書かれているのでどんな気分の時にもちょうどいい一冊で自分のスイッチの切り替えにこの本を読む。
もう一冊の『眠れなくなる宇宙のはなし』は宇宙に関する解説が書かれた本で、文系の人にも分かるような感覚で宇宙について書かれてあるので分かりやすくスラスラと宇宙のことがなんとなく分かった気になる。頭がいっぱいいっぱいになってしまったり、余裕がなくなってしまったときにはこの本を読みたくなるし、オススメしたくなる。とにかく出てくる内容全てのスケールが大きいのだ。宇宙の広さや宇宙が生まれてからの年月、地球の歴史など、とにかく単位が計り知れないものばかり。こんな果てしのない歴史や空間の中に存在する小さな小さな一部を間借りしている僕らのような存在が毎日の仕事や恋人のこと、人間関係でどうして悩み続けなければいけないのか全く意味が分からなくなってくる。そういうリフレッシュ機能がこの本にあると勝手に思っている。宇宙を想うことは自分自身のことを思うことと同義であると個人的に思っているので、宇宙を知ることは何よりも自分を知れる機会になる。
そんな本をベンチで読んでいると子供たちがはしゃぎ回っている声が聞こえたり聞こえなかったりする。そのエネルギーに溢れた声が公園に染み付いた静かな温度と相まってとてつもない眠気がやってくる。"穏やかだ"そんな風に思う休日があることがとても嬉しい。
夕方になり日が落ちてくると本の文字が読みづらくなってくる。それが僕にとっての帰りどきだ。
本を閉じて立ち上がり、伸びをして家路に着く。新しい空気を吸って、明日は何をしようか考える。
あえて休みの日何したの?と聞かれたときに"何もしてないよ"と答える日の中身を日記として書いてみた。みんなそれぞれが当たり前になって、その時間の過ごし方が"何もない"になっているその中身をもっと聞いてみたいと思った。
僕らの人生は無数の"何もなさ"で出来上がっている。何もなさをいつでも愛していたいよね。
今日はゆっくり眠れそうです、おやすみなさい。
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