違国日記の映画を見てきたので感想です
こんにちは、ヨドコウです。
『違国日記』の映画を週末のレイトショーでみてきました。
以下、ネタバレを気にせずしゃべりますのでご注意ください。
レイトショーの謎
夜八時過ぎ。すでに営業を終了した人気のないショッピングモールのエスカレーターに乗り階上の映画館を目指す。この時間の映画館には異界じみた雰囲気があり未だにワクワクしてしまう。
私は少し遅めに入場したので、スクリーン前にはすでに数十名のお客さんが着席しており、ぱっと目に写る観客の姿には明確な特徴が見て取れた。公開初日のレイトショーという条件だからなのか、男性の高齢者の割合が高いのである。
私も不惑をとうに越え、もうすぐ五十歳になるが、そんな私より十歳ほど年上の先達たちが連れ合いもなく離れてポツポツと座っていた。
彼らがコアなマンガ読みだと想像し私はうれしくなったが、もしかしたらガッキーを観に来た人たちなのかもしれない。
スクリーン全体の男女比は半々といったところで、私のような中年層もいれば、若いカップルも複数組いる。小規模のスクリーンだったのだが、全体では三十名から四十名ほどの入りといったところだろうか。
観に来た客らは私を含め、地層から年代別に発掘される化石のように、完全に属性に分かれて着席していた。偶然にしてはきれいに分布している。
私は中年層ゾーンの席に腰をかけた。誰とも示し合わせたわけでもないのに、一体なぜこんなにもきれいに分かれたのだろう?
あくまで推測であるが、高齢者の視力低下とカップルのイチャイチャの問題なのかもしれない。
私もいずれ壮年ゾーンに座る日が来るのだろうか。
それでは映画のレビューに入る。
なんの事前情報もないままに鑑賞へ
私は数日前に、マンガ版の違国日記(など)のレビューをアップし、その中で以下のように書いた。
違国日記という作品は本筋とともに登場人物たちの脇道と呼べるサブエピソードが多層的に折り重なる物語の構造を持ち、そのどこまでを映画に盛り込むかで見応えや没入度が変わってくるはずだ。そんな考えもあり、今回私はマンガの内容だけを頼りに映画を鑑賞したいと思い、事前情報の類を意図的に排除していた。
この時点での私の予備知識は「ガッキーが主演かぁ、笠町くんは瀬戸康史なんだ、へぇ」といった程度である。申し訳なくも、この映画監督が以前何を撮られていたのかすら知らない。そして、私は脳死でチケットを予約し、その足で映画館に向かったのである。
なんだか冒頭の演技がぎこちないぞ。大丈夫なのか? →大丈夫でした
映画が始まり、朝が両親を亡くしたあとのお葬式のシークエンスで、叔母にあたる槙生ちゃんが中学生の朝を引き取るまでが丁寧に描かれる。
周囲の大人たちの心無い言葉を表現するために、聞き取りづらい無意味なセリフを重ねることで、「音だけを聞いて言葉を聞かない」という朝の体験を視聴者に再現してみせた手法は面白かった。
一方で、この病院からお葬式までの流れを見たとき、私はキャラクターたちに、わずかばかりの違和感を感じていた。何か演技が妙に硬い気がしたのである。……うーん、なんだか朝っぽくないな、慎生っぽくないな。このまま進行すると結構しんどそうだぞ、と身構える。しかし、心配は杞憂であった。
映画が進むに合わせて役者たちの演技が尻上がりに良くなっていく。朝役の早瀬憩さんは新人らしからぬ良い演技だし、コミュ障のガッキーは素晴らしい。瀬戸康史さんも、ちゃんと笠町してた。役者ってすごい。私は映画が終わるころには、この映画の登場人物たちを原作の中のキャラクターと完全に重ねて見ていた。なるほど、冒頭のぎこちなさは三人の距離感を表現した演技だったのか。
実際のところはわからないが、冒頭から物語の時系列順にカメラを回してキャスト同士がリアルに打ち解けていく様子を演技に反映させている可能性すらあるなと私は感じた。
中学卒業まで一時間もかけてしまって大丈夫なのか? →大丈夫でした
この映画は多少の時系列の整理やエピソードの設定の調整はあるものの、基本的には原作に沿って進行していく。
原作の持つ、独特の間合いや間白、空気感を再現するために映画では時間をかけて丁寧に場面が描かれる。原作を尊重していることが伝わってくる。それは大変良いことなのだ。それは良いのだが、もう上映一時間もたつのに、朝がまだ中学を卒業してくれない。中学卒業の場面は十一巻ある原作のうち、わずか二巻目のエピソードである。このあと長い高校生活が待っているというのに。これが一時間半の映画だとすると、もう三十分しか残されていない計算になる。えっ……単行本九巻分の物語を三十分で!? ……いや、できるわけがない。このあと三十分でできることはといえば、サブエピソードに一切ふれずに超速で本筋を追いかけて畳む方法しかないではないか。
結論、私は盛大な勘違いをやらかしていたのである。この『違国日記』の上映時間は一時間半どころか、二時間二十分もあった。チケットを購入するとき、終了時刻の確認を怠った私が悪いのだが、これだけ尺があれば、高校生活を描くことだってできるのだ。
映画には原作における印象的なエピソードが概ね入っていた。ただし取捨選択の意識ははっきりしていて、映画では明確に朝を中心とした物語構成になっており、慎生ちゃんの周辺のエピソードはほとんど削られている。その代わりに、慎生ちゃんは、お互いにわかりあえないまま亡くなった姉(朝の母親)との関係性にフォーカスすることで、より慎生というキャラクターの方向づけを明確にできていたように思う。
反面、原作にある朝のエピソードはどれも捨てがたいことはたしかなのだが、単発のエピソードをどんどん乗り換えながら展開するため、原作未読の人には唐突に見えてしまうかもしれない。そのあたりに監督の編集の苦労をうかがうことができる。
原作から外せないエピソードを抜き出すと、とてもじゃないが時間内におさまらないのだろう。でも原作の持つ空気感を伝えるための余韻のカットを無くすこともしたくない。そのギリギリの塩梅が二時間二十分という尺だったに違いない。監督は許されるならば三時間ほしかったはずだ。
原作を一読してから映画を見ると、より楽しめるかもしれない。
映画のオリジナルシークエンスがとっても良かった
原作内では高校の三年間が描かれるが、映画内では高校一年生の半年ほどにエピソードを凝縮して詰め込む構成をとっている。これは妥当な選択だが、その場合は映画内での朝の高校生活の着地点を新しく設ける必要が生じるわけだ。
映画では、それを軽音部で朝がボーカルとしてを歌う場面として配置されていた。物語の中盤で慎生ちゃんは朝から作詞の相談をされて、創作のやりとりを通してふたりの距離が近づく、そこで生まれた歌詞が「あさのうた」という曲になり、発表の場で友人や慎生ちゃんに朝自身がどういう人間であるかを示すことにつながり、それが続くエピローグへの導線となっている。これは非常にきれいにまとまっているなと思った。
朝役の早瀬憩さんの歌う劇中歌はもう一曲あり、タイトルは「怪獣のバラード」というらしい。この曲名に意味はあるのだろうか。少なくとも慎生ちゃんの目からみた朝(というか中高生)はまさしく理解しがたい異形の怪獣に違いない。劇中、朝と親友のえみりが家に遊びにくる場面があるが、そこでのガッキー演じる慎生ちゃんの「なんじゃこいつら……」という表情はとても良かった。
物語の終盤では残された朝の母親(慎生ちゃんの姉)の日記を鍵にして、ふたりが正面から対話することになる。
慎生の言う、大嫌いな姉の子である朝を愛せるかどうかはわからない、という感覚を私は理解できない。慎生ちゃんは朝が独立した人間であるということを認め終始そのように朝を諭し励ますのだが、それならばなぜ慎生自身は、朝と朝の母親は別人であると割り切れないのだろうか。
しかし割り切れないからこそ朝を大人の立場を使って受け流すこともできず、朝と(そして亡き姉と)向き合わざるを得ない。最初は無責任に朝を引き受けてしまったことに対する責任感からはじまり、やがてひとりの人間同士として言葉を尽くし、言葉だけでは到達できない場所へと進む決意を固める。
私も慎生ちゃんと同じく、人付き合いをできるだけ避けたい内向的な人間である。
少なくとも表面的なつきあいの数はできるだけ少ないほうがよくて、少数の友人とも常に深くつながっていたいとは思わない。損をすることは多いが居心地の良さの問題なので、譲れないのだ。
だから私はここまでの人生を、割り切ることで過ごしてきた。
家庭は幸いにして円満なのだけれど、はたして私は家族に正面から向き合ったことがあるのだろうか。
慎生ちゃんは、そしてそれを描いた監督は、きっと誠実な人なんだろうなあ。エンドロールを眺めながらそんな感想を抱いた二時間二十分の体験だった。
余話:わたくしごとですが、映画の朝役の早瀬さんが私の中高時代の同級生Sくんそっくりすぎ問題に触れる
もうね、言わせてくださいよ。マジで似てるんですよ。私は男子校出身なんですが、かつての同級生にひとり女装男子がおりましてね。とにかく彼と早瀬さん演じる朝の顔がそっくりすぎて、私は思わずのけぞった。髪型もボリュームのあるマッシュで少しタレ目なところとかマジでね。似てる。
いや、多分髪型変えたら言うほど似てるって思わないはずなんです。だから、この映画限定の早瀬さんが似てるって話で。
早瀬さんは、演技もうまく、私はファンになった。大変かわいらしい女の子なので男子に似てるだなんて言って本当に申し訳ない。しかしあまりに似すぎていて、彼の娘なのではと思ったほどである。Sくんは何してんだろう、結婚してんのかな。彼ももうすぐ五十歳になるわけで、ヒゲなんかはやしてたら面白いんだけどな。