短編小説 あなたに食べさせる肉がない(残酷描写あり)
「おれ、肉がないともたないよ」
恋人の一言がきっかけで、わたしは自分の肉を切り出すようになった。菜食を供した晩だった。
だって、肉を買うお金がないのだ。数年前、「三十代前半のうちに」と仕事を変えてから、生活が苦しくなる一方だった。在宅でライティングを一から。隙間仕事をこなしても、収入は前の仕事の半分ほどに減った。それに合わせて暮らしを小さくしても限界があった。毎月変動の読めない手取りから家賃や光熱費などの固定費をひき、あとをやりくりするにも知恵がいる。野菜はベランダや台所で簡単に栽培できるものから始めたものの、肉は狭いマンション暮らしではどうしようもない。そう思っていた。だが、一週間分の食事の下ごしらえのため、台所で包丁を握り締めたときに「あ、ある」と気づいたのだ。
部位は主に脇腹だ。あらかじめ、和装用の腰紐数本で意図した部分周辺を強く縛り、血を止める。同時に、大量の氷や保冷剤でよく冷やす。時間をおいて感覚がなくなってきたところで、一気に肉を削ぐ。左右をできるだけ均等に。薄切りにしたり、挽いたりするのは、あとで落ち着いてからだ。まずは、肉片も体も、傷まない/痛まないよう、細心の注意を払って処置をする。
用意するのは彼の分だけでいい。野菜や卵などと混ぜてかさ増しするから、百グラムほどあれば十分だ。それでも、百グラムは結構な量である。昔は体重計に乗って百グラム減っていたところで、何も感じなかったのに。スーパーで何気なく買い物かごに放り込んできたパック肉を思い返し、その身の主につい同情する。
今でこそ普通に話せるが、彼の長期出張中、試しに初めて自分に刃を入れたときは、血の海のなかで気を失いかけ、しばらく動けずにいた。文字通り、身を切る痛みだ。これしか差し出せるものがないと思うと、切なかった。一方で、ここまでできる自分の愛の深さに酔いしれた。
だが、週末ごとに繰り返すうちに、徐々に体も心も麻痺してきていた。今では血も痛みもほとんどない。ただのルーティンだ。むしろ、赤身を増やそうとして筋力トレーニングに励むほどである。
その甲斐あってか自己暗示なのか、体質が変化したようだ。再生力はトカゲ並み、いや、それ以上だろう。肉を削いだあとは、見る間に薄皮が張り、肉が盛り上がる。
もちろん彼は、肉がわたしのものであることを知らない。知らずに「うまい、うまい」とかき込んでいる。そうして、わたしが皿に手をつけないのを見て尋ねる。
「食べないの? おれ、明日弁当に持っていっていい?」
わたしはうなずく。彼は「自転車操業だ」と自嘲しているが、事業を興して毎日最前線で踏ん張っているのだから、たいしたものだ。はっきりした物言いをするから、敵も少なくないだろう。エネルギーが必要だ。自家消費なんて不毛だし、わたしは自分の肉を食べたいとは思わないけれど、味なら想像できる。うっかり口の中を噛んでしまうなんて、しょっちゅうだったから。もっぱら潮の味だ。
十年以上つきあっている彼とは、週末にうちで一緒に食事をすることが多い。それぞれに部屋を借りているから生計は別だ。結婚は時機を逃してしまった。でも何かきっかけがあればするかもしれない。以前、わたしが仕事を辞めたいと打ち明けたときに「一緒になったら、月に十万くらい稼いでくれたらいいよ」と言っていたから。
形はどうあれ、長く一緒にいれば、小さなもめごとは時々ある。肉を食べることについてもそうだ。自分の肉を切り出すようになってからも一度、彼と話したことがある。
「あのさ、肉って、命を削るような感じでつらい」
「野菜だって命だろ? 他の生きものの命をとらずに生きられるやつがいる?」
「そしたら料理はするから、お肉の分のお金、少しもらってもいい?」
「外食するときはこっちが出してるだろ。正直、今おれも会社が厳しいんだよ」
会社を持ち出されると弱い。彼は自己投資に熱心な人だ。月に数万円かかるパーソナルジムに通うのも、いわゆる高級外車である愛車の手入れに気を配るのも、自分とその会社への投資のうちである。わたしは彼とは別の人間だ。勘違いしてはいけないのだ。
黙っていることを抗議と受けとめたのか、彼が乱暴に箸を置いた。
「――好きにしろよ。ひとりのときに食べてくるから」
不機嫌になられると、いたたまれなくなる。せめて、一緒に過ごす時間くらいは穏やかなものにしたかった。友人や知人との集まり、大好きな書店に美術館、よく通っていたカフェや雑貨店など、自分が大事にしていたものはすっかり遠のいた。彼までも遠のくことを恐れ、わたしは肉を切り出し続ける。
ふいに彼が食事の手を止めて、いぶかしげな視線をよこす。
「やせた?」
「うーん、そうかな」
まあそうだろう。いくら再生するとはいっても、切り取った量の肉をまた身につけようとすればそれなりに時間がかかる。準備できた分より使う分が多ければ、当然やせる。
「やせたよ。女の子はさ、ふっくらしているのがいいよ」
「そうかな。もう女の子っていうような年でもないけど」
「自分でそういうこと言うなよ」
彼は視線を外さず、食卓の上でじっとしたままのわたしの手を撫でた。荒れて皮のめくれたところをいったりきたりする。たまに、優しいような言葉や態度に触れると戸惑う。手を引っ込めかけて、思い直して、上から彼の手に重ねる。温かく乾いた皮膚の下に、しっかりと太い血管と骨を感じる。豊かな血のめぐる、健やかな体だ。
体のつながりは変わらずある。むしろ、肉を与えるようになって激しくなった。ベッドで横になると、後ろから手が伸びてくる。パジャマの上着の裾をくぐって、腰骨からあばらまで撫で上げられた。
――こんなに、えぐれたみたいに細くなって。おれは別に贅沢したいわけじゃないんだよ。無理しないで、ずっとふかふかでいてほしいんだよ。いつか楽させてやるから。
うなじに唇が触れ、乳房がつかまれる。やせたのに胸だけは妙に張って痛かった。「あ」 小さく声を出し、魚のように身をくねらせてみせる。そうしてみせるうち、みせる自分とする自分の境がなくなっていく。何も考えなくなる。
いつものように迎えた週末、急に自分の肉が切れなくなった。定期的に爪や髪を切るような感覚に近づいていたのに。昼過ぎに起き出して、パジャマのまま台所に立ってみたものの、気が乗らない。下準備用の氷を取り出しかけて、やめた。
代わりの食材を何か。冷蔵庫を開け、明るい庫内をじっと見つめる。扉を早く閉めるように促す、甲高い電子音にはっとする。ああ、よかった。スライスチーズがある。気づけば、包みから一枚取り出してフィルムをめくっている。中身をまるめて口に押し込む。止まらなくなって、もう一枚取り出す。特売時に買い置きしていたちくわのパックの袋を、ためらいながら開ける。ちくわをチーズで巻いてまた口に押し込む。塩気、それから動物性たんぱく質を強烈に欲していた。野菜に気持ちが向かなかった。ふかした芋や豆など、食べごたえのありそうなものも口にしてみたが、塩と油を多めにまぶしても物足りなかった。
突然訪れた食欲の変化に戸惑い、インターネット上に手がかりを求めると、急なダイエット、強いストレス、ホルモンバランスの変化にまじって、「妊娠」の文字があった。
思い返せば、ここ数カ月生理がきていない。やせたせいかもしれないし、今の生活のストレスのせいかもしれない。それに、年齢的な変化のせいかもしれない。それでも妊娠の可能性がないわけではなかった。打ち消そうとするほど、意識はこの二文字に支配された。
Tシャツをすとんと長くしたようなワンピースに着替え、いつも行くのとは違う薬局に向かう。通路の間にひっそり陳列された妊娠検査薬の箱を手にする。二回用の方。千円もしないとはいえ、予定外の出費だ。顧客ポイントもつかないけれど仕方ない。レジで、白衣を着た年配の女性の販売員がこちらの目を見て「使い方はだいじょうぶですか」と微笑む。うなずきだけで答え、足早に店を後にする。
自宅のトイレで使用方法を読んだが、わざわざ人に説明してもらうほどのことは書かれていなかった。スティックに尿をかけると、見る間に診断紙に吸い上げられていった。濃いピンク色の線が二本浮き上がる。陽性だ。思ったより、ショックはなかった。体がすでに結果を知っていたからだろう。念のため、時間をおいて二回目を試したが、同じだった。産婦人科に行けば、あとは目的地を決めて敷かれたレールに乗るだけ。
部屋に戻って床に座り込む。なぜかラグの上で正座していた。「なんにもない部屋」と彼に揶揄されるような、がらんとした部屋を見まわす。本当に、なんにもないけれど。西の窓から夕陽が差し込んでくる。両手のひらをワンピースの上から腹にあてる。もうこれ以上は切れない。
「あなた、もう来てしまったの」
のぞきこむように話しかけると、答えるように腹が鳴った。
いつの間にか、すっかり窓の外が暗い。そろそろ食事の支度をしなければ。立ち上がってカーテンを閉める、台所だけ電気をつける。流し台の上に濡れ布巾を広げ、水に浸けておいた砥石を置く。包丁を取り出し、しっかりと握る。砥石との角度を確かめると、刃に指を添えた。力を入れすぎないよう、砥石の奥へとまっすぐに押し出し、引き戻す。リズミカルに動作を繰り返すうちに研ぎ汁がどろりと濁ってくる。指で一筋拭うと、現れた刃が蛍光灯を返して光った。
今日のこと、彼に話したら、どんな顔をするだろう。子どもは「自己」の範囲に入れてくれるだろうか。喜んで投資してくれるだろうか。痛みに慣れていない彼のために、少しでも切れ味を良くしよう。
わたしはしっかり食べたい食べさせたい食べなければ食べさせなければ。
「早く、帰ってこないかね」
腹に向かって話しかけながら、なお包丁を滑らせる。
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