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今一度、『不道徳教育講座』

言わずと知れた、三島由紀夫。私は彼の小説よりも、エッセイが好きだったりする。

その中でも強烈に引き寄せられたのが『不道徳教育講座』だった。

文字通り、不道徳を教育する講座であり、「知らない男とでも酒場へ行くべし」、「人に迷惑をかけて死ぬべし」、「スープは音を立てて吸ふべし」、などと章ごとに世間の道徳的観念に反するタイトルがつけられている。

どんな反骨精神に溢れた事が書かれているのか半分わくわく、半分恐る恐るしながら読んだのだが、読み終わった後の感想は読む前と全く違ったものになった。

「三島由紀夫は恐ろしく真面目な人だったんだなぁ。」と、しみじみ感じ入ったのだ。

”不道徳”などと銘打っているのに、こんな感想を述べたら彼は落胆するかもしれないが、読めば読むほどに、三島由紀夫の真面目さが私の中できれいに結晶化されていくようだった。


そもそも、道徳がなんなのか捉えていなかったら、どうやって不道徳を教えられよう。

国や文化によってはっきりと異なるが、明確に定義されたわけでもなく、書き示されたものでもない観念。

(よく考えればそんなよく分からない観念を小学校で教科の一つとして教えていたのはすごく恐ろしい事に思える。マイルドなマインドコントロールではないか。)

とにかく、三島由紀夫は日本をとりまく“道徳”を敏感に詳細に感じ取り、そしてそれとは相いれない、彼独自の”美学”を持っていたのであろう。

三島本人も、新装版のあとがきでこう述べている。

この本を多少まじめに読んでくれる青年のために、附加へなければならぬことは、十年前の日本が今よりもずつと「偽善」の横行してゐた社会だつたといふことである。その鼻持ちならない平和主義的偽善を打破するためには、かういふ軽薄な逆説、多少品のわるい揶揄の精神が必要だつたのである。もちろん私はこの本を軽い気持で、面白をかしく、落語家的漫才師的サーヴィスさへ加へて、書いてゐたのであるが、その気持の裏に重い苛立ちのあつたことは否めない。尤も、そんな苛立ちを、わざわざ読み取つてもらふ必要はないので、ただ、たのしんで読んでもらへばそれでいいのかもしれない。どんな時代にも無害な悪意は人を微笑ませるものである。
        — 三島由紀夫「あとがき」(新装版『不道徳教育講座』)


今よりもずっと排他的な世間で、自身の”美学”をはっきりと示すのはなかなか覚悟のいる事だったと推測する。

それでも、本のタイトルに”講座”とつけたのは、彼自身読み手に「独自の美学」に気づけと呼びかけているように思えてならない。

世間で言われている、そしてあまりにも当たり前だと思われている”道徳”という観念。

それの正体が何かもわからないのに、知らずのうちに飲み込まれてはいまいか?

他者に決められた観念に、どうして迎合する必要があろう。

三島由紀夫が死してもう50年以上が経つ。当時に比べてかなり自由になった世の中だが、矢継ぎ早に新しい観念が出てくる。

その観念に、飲み込まれてはいまいか?それがあたかも自分の真意だと勘違いしてはいまいか?一度立ち止まって、自分に問うてみるのはどうだろう?

道徳に反発するのではなく、独自の美学を探しに行くのだ。

そしてそれは、とても楽しい旅なはずである。



逆説的だが、全ての人間が、独自の美学を持つようになれば、とてもバランスの取れた世界になるように思えてならない。

その一端として、私自身が、自分の美学を周りに押し付けることなく、ただただ体現出来る人間になりたいものである。


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