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”じゅつ” だけど, ”すべ” ではないでしょうか
思えば小さいころから美術には割と慣れ親しんでいた。
ヨーロッパにいたことも大きいだろうが、幼子の兄や私をよく美術館に連れて行ってくれた両親にはとても感謝している。
小学校に上がる頃にはしっかりと好きな作品と、そうでない作品があることに気づいていた。
何をもって好きなのか、もしくは嫌いなのか、何も感じないのか?
(嫌いというよりは、あまり直視していられないというか、胸のあたりをぐぐぅと押されているような気がして早く離れたくなってしまう。)
明確な基準があったわけではないので、半ばギャンブルのように「今日は”好き”な作品に出会えるといいなぁ」と思いながら美術館を訪れるようになった。
あれから30年たった今も、何をもって好きな作品なのかいまだに分からない。
でも今日また美術館に行ってみて、分かった(ような気がする)ことがあった。
作品は、作者の自己探求の産物なんだなぁ。と。
なんて言うとかっこいいが、
作者自身が見たいもの、中から出てくるもの、言葉や動きや生活や仕事では抽出できない自分を、
なんとかどうにか。
外に出したものが作品なのかもなと思いついたわけです。
自分の中を外に出したいのに、どうやら普段の生活では難しいらしい。
まずは自分の内に内に、深く潜って潜って。
広い世界の中にいながら、自分の中に深く深く潜る。
中は底なし。深海どころではない。
何が出てくるか分からないが、潜っていった途中で見つけたものが作品なのかも。
美術館やギャラリーでは、作品の意図なんかが大層大仰な言葉で並べてあるけれど、あんなものは後付けとしか見れない。
だって、言葉で表現できないからこそ、あの手この手で表現しているのに。
小さな紙一枚で説明できるなら言葉で説明すればいいじゃない。
せっかく言葉という魔法のような共通の信号をもらったのに、それでは表せない何かが自分の中にある。
・・・
話はそれるが、美術をアートと呼ぶのになぜか抵抗がある。
そして、作者をアーティストと呼ぶのも何か違和感がある。
なんだかアートとかアーティストと言ってしまうと大義名分がないといけない気がしてしまうから。
(あとなんだか気恥ずかしいから。)
不憫とか高尚とか、マイノリティーだのマジョリティーだの。
先駆者やヒーローになりたいわけでもない作者もたくさんいるだろうにね!
美術の【術】は読み方が二つ。
じゅつ:何回も行って自分のものとなった能力。手仕事の能力。学問。わざ。
すべ:方法。手段。てだて。
美術は表現手法としての じゅつ だけど、自分の中を外に伝える すべ の役割の方が大きいんだろうなと思った本日でした。