読書は自己との対話/ 情報世界について思うこと
読書とは、自己との対話である。著者の思想や経験を自分のそれらと照らし合わせながら、「自分」というボヤけた輪郭をしっかりと浮かび上がらせる地道な作業に近い。自己を分かりしめるには、まず、様々な本を読まなくてはならない。
それなのに、今までの生活を振り返ってみると、様々な本に出会う可能性を「大人」たちに潰されてきたように思う。
例えば小学生や中学生の頃の図書室を思い出して欲しい。どんな本があっただろうか。
おそらく、絵本や昆虫図鑑、世界記録、小説、童話、海外の有名小説、将来の夢についての本がズラリと並んでいたはずだ。一方で、セックスやジェンダー、愛や恋、幸せ、道徳や戦争、難民、経済、ヘイトといったものは「排除」されていたのではないだろうか。
これでは辛い。何が辛いかというと、本来何かを知ったり学んだりするのに年齢やタイミング、出会い方など関係ないはずなのに、それを今のあなたたちにはこれが相応しいだとか、今のあなたたちには早すぎると言わんばかりに、調整を入れてくる。
その結果として、中学高校を卒業して社会に放り出されるものは、その「高尚モノ」として排除された概念や学問には触れるチャンスをさほど与えられないまま、生きていくことになる (それはそれで楽しい人生だと思う) 。大学に入学する道を選ぶものは、今までタブーとされてきた事物を「いいえ、これらのテーマは学問ですのでしっかりと勉強してくださいね。そしてこれらはテストに出ますよ」等と言い聞かされる。本人の学ぶ姿勢どうこうよりも、周囲環境は時に残酷という話だ。本や情報へのアクセス権は年齢で区別されていいのか、格差はあっていいのだろうか。
「一家に一台テレビ」の時代は過ぎ去って、一人に一つのスマートフォンが当たり前になった。いつでもどこでも、様々な情報にアクセスできるようになった (ように思える) この時代で、アクセス権の格差は是正されたと言えるのだろうか。実際アクセス権だけ切り取ってみれば、改善されたかもしれない。だが、残念なことに、スマートフォンが情報アクセスを改善させた一方で、別の部分で負のエネルギーを生んでいると思っている。
SNSでは、もっと緻密に計算された不具合が起きている。違った形で人を困らせている。
例として、巨大企業の存在が挙げられるだろう。巨大企業の戦略によって、今やひとりひとりにカスタマイズされたサービスがスマートフォン上で展開されている。検索サジェスト機能やショッピングサイトのリコメンド機能もその構成物だ。便利だ、すごく。
ただ僕が言いたいのはその利便性ではない。より現実的な見方で今のテクノロジーを解体したい。では、そこで何が起こっているのか。
巨大企業の技術者たちによって洗練されたアルゴリズムは、「あなたはこれが欲しいですね」「あなたはこれを見たら面白いと感じますね」と私たちに教えてくれる。ただグローバルに信頼を集めている科学者が批判するのは、そのアルゴリズムによって、自分の気付かぬ間に自分が選択したわけでもない「新たな私」が創造されているという事実があるということだ。
現代の人間は、ずいぶんテクノロジーと親交を深め、生身の人間 (そこらへんの占い師)よりもスマートフォンの無機質な機能のほうを信じるようになってしまった気がする。結果的に、いつしか自分の好奇心や本当に知りたいものを見失い、脳がハイジャックされ、メディアによって私たちの興味が操られる世界に置き換えられるというシナリオになってしまっている。私たちが何らかの情報を集め知ろうとするのと同時に、あちらも私たちを監視し這いずりまわって虚構の私たちを構築していくというわけだ。
こうやって、例えばSNSがどのように開発されどのように人を依存させるのか理屈を知っているか知っていないかで、情報格差 (digital divide) はある。
スティーブ・ジョブズは自分の子どもにタブレットなどの電子機器を与えなかった。SNSの台頭により若者の不安感 (不安定感) やメンタルヘルスの問題が昔より増えているようだ。
情報とは——知りたくなければ知らなくていい。知りたければ調べればいい。所詮こんなものだ。
だが、前述のように、本や活字を通じて自分と対話する機会を青年が奪われるのは何かおかしいし、情報を得ようとしている自分を「離見の見」することの重要性が現代に欠けている気がしてやや怖くなったのだ。
「最近は、自分が興味を持たないなと思う本を探して、そうして本を読みたいんですよね」そんなことを語る大切な読書仲間のひとことに感動し、こんなnoteを書きたくなってしまった。
そういえば先月、近所の図書館で、とある企画を目にした。それは、紙袋の中にランダムに本が複数冊入っており、「シークレット袋」として貸出棚に置かれているものだった。職員の単なる思いつきなのかもしれないが、僕はそのひらめきに感銘を受け、ふむふむという顔をしながらその場を去った。
「やりたいことがない」「仕事が楽しくない、つまらない」といった、仕事=楽しいのイメージは一刻も早く捨てるべきだ・・・そんなメッセージ性の強い本を最近見かけた。タイトルは忘れてしまったが、強烈に脳裏にくっついて離れてくれない。仕事は楽しくあるべきというオナニズム的な発想は即分解修理をしたほうがいいのだろうか。
そういうやりたいことがない、つまらないと思う人が増えている背景には、「知る」行為の減少があると思っている。モノを知らなければ、自分が向いているか向いていないか分からない。(やりたいことがない状態が悪いわけではない)
何かを外界から取り入れるということは自己との対話であって、本当の自分を見つめることだと僕は思っている。
外資系専門商社でBtoB, BtoG営業をしています。さまざまな社会問題や身の回りに起きた出来事を発信しています。「新しいモノ・コトで人々の生活を豊かにする」