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マズローの自己実現

現在、自己実現(self-actualiztion)という言葉は「目標を達成すること」という意味で用いられていることが多いように見えます。しかし、マズローの「人間性の心理学」の第4章を読んだ時は、自己実現は「自分がなるべくしてなった」という感じで、目標達成と印象が異なりました。

そこで、久しぶりに「人間性の心理学」を読んでみてたところ、第11章「自己実現的人間」の内容の詳細は一般に伝わっている内容とは異なる気がしました。

第11章では、サンプル数が少なく科学的とは言えないものの、マズロー自身の調査によって浮かび上がってきた自己実現した人間の特徴が挙げられています。

これは、いつでも振り返られるように、記録しておいたほうがいいと思ったので、ここに残しておこうと思います。

自己実現者の15の特徴

1. 現実をより有効に知覚し、それとより快適な関係を保っている

この特徴は、現実をありのままに知覚する能力のことです。ここで、現実は見解や解釈ではなく、知覚とは嗜好ではありません。この潜在能力は、誤魔化しや作り事、不正直を見つけ、正しく有効に判断する並外れた能力として認められました。彼らは、科学や社会問題に隠された混乱を人々より素早く読み取り、願望や欲望、不安や恐怖、楽観主義や悲観主義に基づかずに予見すると言います。マズローは、次のように説明しています。

自己実現的な人間は、他の多くの人たちと比べて、新鮮で具体的で個別事例的なことと、一般的で抽象的で類型化されたこととを識別する能力において非常にすぐれていることがわかった。その結果、多くの人が「これぞ世界である」と思い込んでいる人工の概念や抽象、期待、信念、固定観念を超えて、自然という現実の世界の中で生きることができるのである。それ故に、彼らは、自分自身の、または自分たちの文化集団の願望や希望、恐れ、不安、自分自身の理論、信念よりも現実にそこに存在するものの方をはるかによく知覚するのである。これをハーバート・リードはたいへんうまく表現して、「無邪気な目」と呼んでいる。

彼らは未知のものを受け入れ、気楽にそれと接し、既知のものよりも未知のものにより引かれることもしばしばであった。彼らは、あいまいなものや形をなさないものにも耐えるだけでなく、それを好みさえする。この特徴はアインシュタインの次の言葉に非常によく表されている。「我々が経験できる最も美しいものは神秘的なものである。それはすべての芸術ならびに科学の源である」。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

例えば、幽霊を怖がったり、未知のものだからといって否定したりせず、客観的状況において必要なら受け入れ、分からないのであれば分からないままにしておいても特に苦痛を感じないそうです。

2. 受容(自己、他者、自然)

この特徴は、自然を自然のまま無条件に受け入れるように、人間性の負の側面(脆さ・罪深さ・弱さ・邪悪さなど)をそのまま受け入れることができる精神のことです。その結果、罪悪感や羞恥心、不安感が比較的少なく、自分や他者の生理的欲求も安全欲求も愛の欲求も承認欲求も人間であるとして受け入れることができるという特徴もあります。

説明として、マズローは次のように書いています。

彼ら(自己実現者)は彼ら自身の人間性を、すべてその欠点を認め、理想の姿とは食い違っていることを承知しながらも、そんなに心配せずに、禁欲主義者のような態度で受け入れることができる。彼らが自己満足をしているというと語弊があるだろう。むしろ彼らは、人間性の脆さや罪深さや弱さ、邪悪さを、あたかも自然を自然のままに無条件に受け入れるのと同じ精神で受け入れることができるのだと言わなければならない。誰も、水が湿っているからとか、岩が固いからとか、また木々が緑だからといって、文句を言ったりはしない。

自己実現者は現実をよりはっきりと見つめるのである。被験者は現実をあるがままに見るのであり、自分たちがそうあってほしいというような姿としては見ないのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

例えば、自己実現人は、人間の動物的側面(性欲、排尿、妊娠、月経、老化、体臭など)にも、不快感や嫌悪感をあまり感じません。

3. 自発性、単純さ、自然さ

この特徴は、自己実現者の行動がかなり自発的で、心理はさらに自発的である、というものです。

マズローは、次のように説明しています。

彼らの行動の特徴は、単純さ自然さにあり、気取りや何らかのこうを狙って緊張していることがないという点にある。これは必ずしも一様に因襲にとらわれない行動を意味するのではない。(中略)彼が因襲にとらわれないというのは、表面的なのではなく、本質的あるいは内面的なのである。多くの場合と異なりそんなにも因襲にこだわらず自発的で自然なのは、彼の衝動であり、思想であり、意識なのである。彼は、自分が生きているこの世の中では、このことは理解されたり受け入れられたりすることはないとはっきり認めながらも、つまらないことで他人を傷つけたり、他人と争ったりしたいとは思わないので、機嫌よく肩をすくめてみせたり、できるだけ快く慣習的儀式や礼式にも参加したりする。

しかし、自己実現的人間は、非常に重要で基本的だと考えることを行う際にその邪魔をするような慣習は滅多に許しはしないということから、この慣習の尊重は、彼にとってはごく軽く肩にかけられるマントのようなものであり、すぐに投げ捨てられるものであることがわかる。彼が本質的に因襲に固執しないということがわかるのは、そのような時である。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

つまり、意識や思想は自発的であっても、通常の行動は無駄な争いを避けて周囲に合わせていますが、重要な事柄の場合にはいとも簡単に周囲に合わせない行動をとるということです。

また、この特徴は「自律性」と関係していると言います。

この特性と相互に関係しているものを一つあげるならば、慣習的というよりはむしろ自律的で個人的とも言える倫理の基準を彼らが持っているということである。思慮のない観察者は時として、彼らを非倫理的であると思うかも知れない。というのは、彼らは状況からして必要とあれば因襲どころか法律さえも打ち破ることができるからである。しかし、実際は全く反対である。彼らの倫理は、必ずしも周囲の人々のものと同じではないが、彼らは最も倫理的な人間である。この種の観察からして、平均的な人間の普通の倫理行動は、実は真の倫理行動、例えば基本的に受容された原則(真実であると知覚された)に基づいた行動ではなくて、主として慣習的な行動であるということが非常に確かなものと理解されるのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

つまり、自己実現者は「みんながやっているから」とか「ルールで決まっているから」とか「昔からそうやっているから」といった慣習的な基準ではなく、自分の中の倫理基準や善悪基準に従って行動しているということです。そして、慣習的な基準は、大抵の事柄では周囲に合わせていても、場合によっては簡単に捨ててしまうということでしょう。

そして、マズローは、この特徴が自己実現人とそうでない人の最も深淵な差異「自己実現人の動機付けられた生活は、普通の人々とは量的にも質的にも異なる」を導き出したと言います。

我々は自己実現者のためには、普通のとはまったく異なる動機づけの心理学、たとえば欠乏動機に関する物というよりむしろメタ動機成長動機に関する心理学を構築しなければならないように思える。(中略)おそらく、動機づけという概念は非自己実現者にのみ適用されるべきであろう。我々の被験者は、もはや普通の意味での努力をしているのではなくて、むしろ発展しているのである。彼らは完全を目指して成長しようとしているのであり、自分自身のやり方でよりいっそう完全に発展しようとしている。普通の人の場合、動機づけとは自分たちに欠けている基本的欲求を満足させるために努力することである。しかし、自己実現的人間の場合には、実際のところ基本的欲求の満足については何ら欠けるところはないのだが、それでもなおかつ彼らには衝動があるのである。(中略)彼らにとって動機づけとはまさに人格の成長であり、性格の表現であり、成熟であり、発展である。すなわち、一言で言えば自己実現なのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

ここで、欠乏動機とは、欠乏欲求(生理的欲求・安全欲求・所属欲求・承認欲求)の欠乏感を解消したいという動機のことです。一方、成長動機は、成長欲求(自己実現欲求)の欠乏感解消ではありません。また、メタ動機とは、動機の動機のことで善悪などの価値観のことです。

4. 課題中心的

この特徴は、自己実現者は、自分たち自身以外の問題に強く心を集中させているということです。その問題とは、人類、国家、あるいは家族の利益に関わる問題、または哲学的で基本的な問題や、生命とは何か?といった永遠の疑問であったりします。

これは、マズローの下記の説明が分かりやすいのではないでしょうか。

これは必ずしも彼らが好きで自ら選んだ仕事ではなく、彼らが自分の責任、義務、責務と感じている仕事であったりする。それ故、我々は「彼らがしたいと思う仕事」という言い方をしないで、「彼らがなさねばならない仕事」という表現を用いるのである。一般にこのような仕事は、個人的なものでも自己本位のものでもなく、むしろ人類一般、国家一般の利益、あるいは被験者の家族の人々それぞれの利益にかかわるものである。

我々の被験者は概して、我々が哲学的とか倫理的と呼んできたようなタイプの基本的な問題や永遠の疑問に関心を持っていると言える。(中略)一言で言えば、これらの人々は全て、地味ではあるがある意味での哲学者なのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

5. 超越性ープライバシーの欲求

この特徴は、自己実現者が争いごとに超然としていられることを表しています。普通の人々が立腹するようなことでも、他の人から離れて遠慮がちに静かに心を乱さずにいます。結果として、彼らは平均的な人々よりもはるかに孤独やプライバシーを好むという傾向が見られます。

我々の被験者すべてに言えることであるが、彼らは独りでいても、傷ついたり不安になることはない。さらに、この人々のほとんどが、平均的な人々よりもはるかに孤独やプライバシーを好むということも事実である。

彼らは争いごとに超然としていられる。また、他の人の場合には騒ぎとなるようなことにも立腹せず、心を乱さずにいられる。彼らにとっては、他の人たちから離れて遠慮がちに、また身を静かに保ち、穏やかでいることは容易いことなのである。(中略)おそらく、これは、何か事が起きても、その問題を他の人が感じたり考えたりすることに左右されずに、自分自身の解釈を固守するという傾向に部分的には依るものである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

また、彼らは普通の人々よりも客観的で課題中心的なので、課題が自分自身のことだった場合には、普通の人々が考えられないほどの集中力を見せる時があります。この極度の集中力は、外部環境を忘れてしまう、ぼんやりと放心するといった副産物を生み出します。この現象は、いわゆるフロー状態で、自己超越の一つとされています。

私の被験者たちは平均的な人々よりも、(あらゆる意味で)より客観的であると言える。(中略)これ(課題中心性)は、問題が彼ら自身のこと、彼ら自身の願望、動機、希望、あるいは熱望にかかわる場合でさえも真実なのである。したがって、彼らは普通の人には考えられないほどの集中力がある。極度の集中はその副産物として、外部環境のことを忘れたり、ぼんやりしたりできる能力とも言える方針というような現象をもたらす。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

ただし、超越性は、社会生活においてある種の面倒事を引き起こすことがあります。これは、彼らが、普通の人々からは、冷たい、俗物的、愛情がない、友情がない、あるいは敵意があると感じられてしまうことによります。なぜなら、彼らは、普通の人々が人間関係に求める、安心や賛辞、支持や暖かさ、排他性といったものをあまり求めないからです。

多くの人々との社会生活において、超越性はある種の面倒や問題を引き起こすことがある。それは、「正常な」人々が簡単に、冷たさ、俗物主義、愛情の欠落、友情のなさ、さらには敵意とさえ解釈してしまうものである。これと対照的なのであるが、普通の友情は、もっとねちねちとした要求的なものであり、安心や賛辞、支持や暖かさ、排他性といったものを得たいと願うものなのである。自己実現者が普通の意味での他者を必要としないというのは真実である。しかし、他者から必要とされたり、いなくて寂しいと思われたりすることが普通の友情の真剣な願いである限り、超越性が平均的な人々にはたやすく受け入れられないことは明らかである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

これは、自己実現者は、自分自身が課した規範に従って行動するため、他者の決定に無責任に従うということがないことにも由来しているかもしれません。言い換えると、彼らは自己決定を行い、自由に行動し、自由な意思を持っているとも言えます。マズローも、次のように言及しています。

自己実現者は平均的な人間よりもはるかに「自由な意思」をもち、またはるかに「(他者から)決定されて」はいない

A. H. マズロー「人間性の心理学」

ここで、「自由な意思」は、フランクルの自己超越の最重要概念でもあります。

6. 自律性ー文化と環境からの独立、意志、能動的人間

ここで言う自律性とは、自己実現者が社会関係をあまり必要とせず、独立していること(独立性)を指しています。

自己実現的人間の特徴の一つは、彼らが比較的、物理的環境や社会的環境から独立しているということである。自己実現者は、欠乏動機よりも成長動機によって動かされているので、彼らの満足は現実の世界や他の人々、文化や目的達成のための手段などといった、一般にいう外部の非本質的な満足のいかんによるものではない。むしろ、彼らは自分自身の発展や、たゆみない成長のために、自分自身の可能性と潜在能力を頼みとする。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

しかしながら、欠乏動機で動機づけられている一般の人々には「社会関係を必要としない」ということが分かりにくいかもしれません。というのも、欠乏に動機づけられた人々の主な欲求(愛、安全、尊敬、名声、所属)は、他の人間によって満たされるため、社会的な関係性が必要となるからです。

一方、成長動機で動機づけられた人々は、内なる個人によって満足や良い生活を規定しているため、社会的な関係性を必要としません。もしかすると、他人は欲求充足の妨げになっているかもしれません。ただし、このような独立にまで至る方法の一つは、過去に愛や尊敬を十分に与えられてきたことです。

欠乏に動機づけられている人々は、他の人が誰か自分に尽くしてくれないと困るのである。というのは、彼らの欲求の主なもの(愛、安全、尊敬、名声、所属)は、他の人間によってのみ満たされるからである。しかし、成長によって動機づけられている人々には、実際には他人は欲求充足の妨げとなっているのかも知れない。彼らにとって、満足やよき生活を規定するものは、今やうちなる個人であって、社会的なものではないのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

7. 認識が絶えず新鮮であること

この特徴は、人生の基本的な物事について、何度も何度も新鮮に、純真に、畏敬や喜び、驚きや恍惚感を持って味わうことができることです。自己実現者は、このような能力を持っているとされます。

想像を補うために、マズローの文章を引用したいと思います。

そのような人々にとって、いかなる日没でも最初に見たのとの同じように美しく、百万本の花を見た後でさえも、どんな花もあっと驚くほど愛らしいのであろう。千番目に見る赤ん坊でも、彼にとっては最初に見た赤ん坊と同じように不思議な生き物なのである。彼は結婚後30年たっても、自分の結婚は幸運だったと確信し続け、妻が60歳の時にも、40年前に彼がその美しさに心を動かされたと同じように美しいと思うのである。そのような人たちにとっては、日常の平凡な一瞬一瞬の暮らしのための仕事でさえも、わくわくするおもしろくてたまらない我を忘れさせるものである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

ただし、このような感情は、時折現れるものだそうです。やまもとは、昔、通勤途中に見た木々の葉が、やけに新鮮に見えたことがあります。おそらく、あのような体験なのだろうと想像しています。

8. 神秘的経験ー至高体験

この特徴は、自己喪失や自己超越を含む経験(課題中心、強い集中、無我行動、強烈な感覚的経験、音楽や美術の自分を忘れるほどの強烈な享楽)を途方もなく強化したものです。ただし、もう少し弱い形の神秘的経験は、ほとんどの人々に頻繁に起きている可能性があると言います。そして、このような体験は、自己実現者のすべてではないもののかなり共通しているそうです。

神秘的経験と呼ばれてきた主観的表現は、我々の被験者の場合、すべてとは言わないまでもかなり共通した経験である。既に述べた強烈な感情は、時に神秘的経験と呼びうるほど強く、混沌としており、また広く行き渡ったりするものである。(中略)それは地平線が果てしなく広がっている感じで、これまでよりも力強く、また同時に無力を感じ、偉大なる恍惚感驚き畏敬の感じ、時空間に身の置きどころのなさであり、つまるところ、とてつもなく重要で価値のある何かが起こったという確信であり、それ故そのような経験によって被験者は日常生活においてさえある程度変化し、力づけられるのである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

至高体験を経験していない自己実現者は、実務的で有能で何でもそつなくこなす傾向があり、社会生活の改善者や政治家、労働者、改革論者、改革運動家であったりすることが多いそうです。一方、至高体験を経験した自己実現者は、「あるがまま」の世界に住んでいるようで、詩人や音楽家、哲学者、宗教家であったりすることが多いと言います。

9. 共同社会感情

この特徴は、自己実現者が、人類全体を同一視し、人類を助けようと心から願っていることを指します。マズローは、以下のように説明しています。

アルフレッド・アドラーが考え出したこの言葉は、自己実現者が人類について自分が感じているところのものをよく表すことのできる、唯一のものである。彼らは、人類一般に対して、時には以下に述べるように怒ったり、苛立ったり、嫌気がさしたりするにもかかわらず、同一視したり、同情や愛情をもっている。それ故に、彼らは人類を助けようと心から願っているのである。あたかも、彼らはすべて単一の家族であるかのようである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

しかし、この同一感は、平均的な人々には理解しがたいもののようです。

もし、ものの見方が普遍性を欠き、また時間的広がりをもっていないならば、人類とのこの同一感はわからないであろう。自己実現者は結局、思考、衝動、行動、情緒において他の人々とは非常に異なっているのである。このことになると、彼はある基本的な点で見知らぬ土地にいる異邦人に似ている。どれほど多くの人から深く愛されたとしても、本当に彼を理解してくれる人は、ほんのわずかである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

一言で言えば、「人類は皆兄弟」という感覚だと思いますが、これを確信している人はなかなかいない気がします。

10. 対人関係

この特徴は、自己実現者は、少数の人々と特に深い結びつきを持っている、ということです。マズローは次のように説明しています。

彼ら(自己実現者)は、他の人々が考えている以上に、他者に溶け込むことができ、愛し、完全に同一視し、自我の境界を取り去ることもできるのである。しかしながら、これあの関係にはある特殊な特徴が見られる。まず第一に、私の観察では、彼らが相手とする人々は平均的な人々より(心理的に)健康で、自己実現に近く、しばしば非常に近いところにいるようである。それらの人々が全人口に占める割合が非常に小さいことを考えれば、ここには彼らの高度な選択が行われているということになる。

この現象などからして、自己実現者はどちらかというと少数の人々と特別に深い結びつきを持つということが言える。彼らの友人の範囲はかなり狭い。(中略)この理由の一つとして、このような自己実現的方法で誰かと非常に親密であるためには、かなりの時間を必要とすることが挙げられる。献身は瞬時にできることではない。(中略)彼らの献身に見られるこの排他性は、広くいきわたっている共同社会感情、慈悲心、愛情、親密性と並んで存在しうるし、また現に存在している。彼らは、ほとんどすべての人に親切であり、少なくとも忍耐強い傾向をもっている。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

つまり、彼らは、想像以上に、心が広く、他者に溶け込み、愛し、同一視し、自我の境界を取り去ることができますが、その対象は、ごく少数の平均的な人々よりも自己実現に近い人々です。そのため、結果的に友人の範囲がかなり狭くなります。

前節の通り、自己実現者は全人類に対して愛情や憐れみを持っていますが、これは誰に対しても等しく与えるというわけではありません。

事実彼らは、しかるべき人には、現実的に手厳しくものを言うし、偽善的でうぬぼれの強い、尊大な、あるいは自己誇張的な人に対しては殊にそういう傾向が強い。しかし、このような人々との関係でさえ、面と向かった場合には必ずしも低い評価を態度などで現実に示すわけではない。彼らがよく使う表現によれば、「(中略)彼らは、攻撃されるべきというよりはむしろ憐れむべき存在なのである」ということになる。

自己実現者が他の人々に敵対する反応を示すのは、おそらくそれが(1)当然の場合か、(2)攻撃される当人、あるいは他の誰かのためになる場合、ということになる。すなわち、フロムの言葉を借りれば、彼らの敵意は性格によるものではなく、その場に応じたもの、状況によるものであるといえよう。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

11. 民主的性格構造

この特徴は、自己実現者は、階級や年齢といったもので無用な差別をしない、というものです。「無用な」とつけたのは、彼らが邪悪な行動に対しては闘う傾向にあるためです。

マズローは、自己実現者の民主的な性格を、次のように説明しています。

彼ら(自己実現者)は階級や教育程度、政治的信念、あるいは人種とか皮膚の色などに関係なく、彼らに相応しい性格の人とは誰とでも親しくできるし、また実際にも親しくしている

例えば、彼らは自分に何かを教えてくれるものを持っている人からは、たとえその人の性質がどうであれ、何かを学ぶことができることを知っている。そのような学習関係において、彼らは外面的威厳を維持しようとしたり、地位や年齢に伴う威信などを保とうなどとはしない

彼らはすべて、知りうるもの、現に知られているものに比べて、自分たちの知っているものがどんなにわずかなものにすぎないかということをよく知っている

これらの人々は自分自身エリートであり、また友人としてもエリートを選ぶが、しかしこれは、出生、人種、血統、名前、家柄、年齢、若さ、名声、権力などのエリートではなく、むしろ性格、能力、才能のエリートである。

最も深遠で、そのくせ最も漠然としているのが、ただ彼も同じ人間だからという理由だけで、どんな人にもある程度の尊敬を払うという到達し難い傾向である。その点、我々の被験者は、悪党に対してさえも、ある線までは見くびったり、名誉を毀損したり、威厳を奪ったりはしたくないと思っているようである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

つまり、自己実現者は、どんな人にも敬意を払い、その人の属性には目もくれず、教えを乞える、ということではないでしょうか。

12. 手段と目的の区別、善悪の区別

この特徴は、自己実現者は、しっかりとした道徳観を持ち、迷いがない、ということを意味しています。彼らの中で、手段と目的ははっきりと区別されており、大抵、手段よりも目的に惹きつけられているようです。しかし、やや複雑なのは、他の人々にとって手段にすぎない活動を目的に据えていることがあることです。それゆえに、結果ではなく過程を楽しむことがあります。

マズローの説明を引用しておきます。

問題をはっきりと言葉で言い表すことができるかどうかにかかわらず、彼らの日常生活には平均的な人々の倫理的な振る舞いに非常によく見られるような混沌、混乱、矛盾、あるいは葛藤などが、ほとんど見られなかった

これらの人々は非常に倫理的で、はっきりとした道徳基準を持っていて、正しいことを行い、間違ったことはしないのである。言うまでも無いが、正邪や善悪に関する彼らの見解は、しばしば月並みなものとは異なるようである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

13. 哲学的で悪意のないユーモアのセンス

この特徴は、自己実現者は独特なユーモアセンスを持って、平均的な人がおかしいと思うことをおかしいとは思わない哲学的なユーモアを好むということです。

以下に、マズローの説明をいくつか引用しておきます。

例えば、彼ら(自己実現者)は悪意のあるユーモア(誰かを傷つけることによって人々を笑わせるような)とか、優越感によるユーモア(誰か他の劣っている人を笑うような)とか、あるいは権威に抵抗するユーモア(おかしみのない、卑猥な冗談など)では笑わない。彼らがユーモアとみなすものの特徴は、他の何よりも哲学に類似している。

リンカーンのユーモアが良い例である。おそらく、リンカーンは決して他の誰かを傷つけるような冗談は言わなかったのであるが、彼の冗談のほとんどすべてには、何かを言わんとするところが含まれていて、ただ笑わせるということ以上の働きを持っていたようである。

単純に量だけを見てみると、我々の被験者は全体の水準よりもユーモアが少ないと言われるかもしれない。彼らには、ダジャレ、冗談、機知に富んだ言葉、快活な当意即妙の答え、普通の冷やかしなどは少なく、笑いよりは微笑を引き出すような、そして状況に何かを付け加えるというよりは状況に本質的な、また、計画的でなく自然に溢れ出るような、そして、しばしばくり返すことはできないような、どちらかと言えば思慮深い哲学的なユーモアの方が多いようである。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

14. 創造性

この特徴は、純真で天真爛漫な物事の見方と言い換えられます。その結果として、創造的な作品や活動が観察され、すべての自己実現者に創造性が確認されています。また、天真爛漫ゆえに、文化や慣習から外れていることが多いそうです。

以下は、マズローによる説明です。

これは、研究の対象とし、観察したすべての人に特徴的なことであった。例外はない。一人ひとりがそれぞれ、いずれかの点である独特の性質をもつ特殊な創造性、独創性、発明の才を示している。

自己実現者に見られる創造性はむしろ、歪んでいない健康な子供の天真爛漫で普遍的な創造性と同類であるように思われる。それは、一般的な人間性の持つ基本的な特徴、すなわちすべての人間に生まれながらに与えられた可能性のようなものであると思われる。ほとんどの人は、社会化されるにつれてこれを失ってしまうが、ごく少数の個人は、この人生の新鮮で純真で直接的な見方を持ち続けるか、あるいは大部分の人たちと同じように、よしんばそれを失ったとしても後でそれを回復するように思われる。

さらに、我々が見てきたところでは、これらの人々は抑制されたり締めつけられたり拘束されたりすることが比較的に少ない。すなわち、一言で言えば、文化に組み込まれることが比較的に少ないのである。もっと積極的な言い方をすれば、彼らは普通より自発的で自然で人間的であるということになろう。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

15. 文化に組み込まれることに対する抵抗、文化の超越

この特徴は、表面的には文化を受容するが、内面的には文化から超越している、という特徴です。決して、文化を急激に変革させようと闘争活動をすることではありません。むしろ、文化に合わせつつも、内側から文化をよくするために、穏やかで気さくに日々努力するという形をとります。

マズローは、自己実現者と文化の関係を4つの特徴で説明しています。

  1. 彼らに変えられない事柄やあまり関心がない事柄の大部分は受け入れる

  2. 不正には憤るが、文化を受容し、穏やかに、人生を楽しむ

  3. 文化に属しながら、文化の良い所と悪い所を自分で決定している

  4. 社会の規則というよりは、彼ら自身の性格の法則に従っている

実際には、次のように述べています。

1、これらの人々はすべて、我々の文化の中での衣服、言語、食物、物事のやり方の選択に関して言えば、明らかに慣習の枠内に収まっている。それでも彼らは、(中略)流行を追ったりしないし、派手でもなければシックでもない。

表に現れた内的態度はいつも、どのような習俗のところでも、普通は重要な問題ではない。それは、どの交通規則も同じようなもので、それが生活を円滑にしてくれるならどれでも大騒ぎするほど重大事ではないといった程度のものである。

彼らが譲歩して慣習に従うのは、率直さや正直さやエネルギーの節約を考えて円満にまとめようとするためであり、従って、どちらかと言えば当てにならない、申し訳程度のものでありがちである。

2、これらの人々はいずれも、青年期に見られるような過激な権威に対する反逆者と呼ぶことはできない。彼らはしばしば、不正に対しては憤りを爆発させはするが、文化に対しては実際に苛立ちを示したり、または絶え間なく、慢性的に、長期間にわたって不満を示したり、あるいはそれを急激に変革させようと夢中になることはないのである。

議論の中によく出てきたもう一つの点は、人生を楽しみ、楽しい時を過ごすことが望ましいということである。(中略)彼らにとっては、激しく反抗することは期待できる小さな報いのためにはあまりにも大きすぎる犠牲であるように思われるのである。

3、文化から超越しているという内面の感情は必ずしも意識されてはいないが、ほとんどすべての人に認められることである。(中略)一言で言えば、彼らはそれ(文化)を比較考察し、分析試験し、味わって、その良し悪しを、自分自身で決定をするのである。

確かにこれは、例えば権威主義的人格の多くの研究の中の民族的優越感を持っている被験者たちに見られるような普通の種類の文化的形成への受動的な屈従とは非常に異なるものである。それはまた、相対的に見れば、結局は良い文化と言えるものを全面的に拒絶することとも異なる。

4、これらの理由、および他の理由から、彼らは自律的であると言えるだろう。すなわち、彼らは社会の規則というよりは、彼ら自身の性格の法則というものによって支配されているということである。

(前略)彼らを過度に社会化された人々、ロボット化された人々、または民族的優越感を持った人々と比較すると、どうしても彼らの集団は単に別の下位文化の中に生きている集団ではなくて、むしろ文化に組み込まれることが少なく、また平均化されることも、型づけされることも少ない集団なのだと仮定したくなってしまう。

A. H. マズロー「人間性の心理学」

自己実現とは何なのか?

上記の15の特徴は、完全ではないものの、図1のような3つのカテゴリーに分類できると思われます。

図1.自己実現者の特徴の分類

世界認識

世界認識カテゴリーは、「(自分自身も含めて)世界は素晴らしい」と感じる心だと思われます。世界肯定感とでも言うのでしょうか。

だからこそ、世界をありのままで知覚し、ありのままで受け入れることができるのでしょう。そして、ありのままで知覚できることが、平凡さにも新鮮さを感じることができることに繋がります。その新鮮さの強烈な感覚が、至高体験です。また、ありのままを知覚するには、ある種の純真さや天真爛漫さが必要になるのではないでしょうか。

反対に、「(自分自身も含めて)世界はなんて酷いのか」と感じていると、否定的な認識がフィルターとなって、ありのままの知覚を難しくしてしまいます。

この世界否定感と言うべきこの感覚は、生理的欲求・安全欲求・愛の欲求・尊厳欲求が満たされていないことによる欠乏欲求によって引き起こされます。例えば、食料が少なく餓死者が出ていたり、戦争によって安全が保障されていなかったり、両親から愛されて育てられなかったり、尊厳を踏み躙られたりすれば、世界が素晴らしいとは思えないでしょう。

従って、世界を肯定できる感覚は、マズローの欲求階層説の下位4層の欲求をある程度満たし、欠乏欲求が低下している必要があると考えられます。

自由意志

自由意志カテゴリーは、「心の中の自己基準に従って生きる」ということだと思われます。

自己実現者の行動に自律性自発性が見られるのは、自己基準に従って行動しているからでしょう。また、不正に対して憤ることがあるのは、善悪を判断する道徳基準が心の中にあるからです。そして、一見、文化的制約に従っているように見えるときも、内面ではその制約を大して重要では無いと自己基準によって判断しています。

しかしながら、自己基準に従って生活しているため、あまり他者を必要としていません。また、一般に受け入れられることが少ないことを知っており、その基準を他者に求めもしないため、普通の人々からは「何を考えているのか分からない」「冷たい」といった印象を持たれるかもしれません。でも、自己実現者は「それでいい」と考えているように思います。

そのため、愛の欲求(所属欲求)や尊厳欲求の欠乏感はかなり少ないと考えられます。ただし、欠乏感の少なさは、それらの欲求が大いに満たされているためではなく、そもそもの満足の基準が低いために少ないのでしょう。例えば、万人から愛される必要はなく理解者が一人でもいれば良いとか、自尊心は必要だけれども他者からの承認はなくても良い、といったようにです。一言で言えば、「足るを知る」ということかもしれません。

超越価値

超越価値カテゴリーは、「(自己ではなく)世界や人類全体に価値がある」という感覚に基づいていると思われます。

課題中心性における課題は、自分自身の課題ではなく、世界や人類や社会(あるいは家族)における課題を自己課題と同一視していることを意味しています。これは、人類全体を家族のように感じ、人間だからという理由だけで他者を尊重できる(すなわち、価値がある)という考え方に基づいていると思われます。そして、他者を尊重するが故に、他者を傷つけるようなユーモアを嫌います。

しかし、この超越的な感覚は、自己実現をした人や自己実現に近い人にしか理解されないため、親しい友人は少ない傾向にあります。そして、一般的な人々との感覚の違いを理解しているため、あまり心を乱されないように孤独を好む傾向にあるのでしょう。

従って、自由意志カテゴリーと同様に、超越価値カテゴリーでも、所属の欲求や尊厳欲求の満足基準が低いこと、それゆえに欠乏欲求が少ないことが必要になると考えられます。

自己実現をするには?

この節では、やまもとの仮説に過ぎませんが、自己実現するための方法を考えてみたいと思います。ただし、生理的欲求と安全欲求は、ある程度満たされている(食べ物に困ることはない、命の危険に晒されていはいない等)ことを前提とします。

愛の欲求と尊厳欲求の満足基準を下げる

前述の3カテゴリー仮説が正しければ、世界認識のためには愛の欲求と尊厳欲求が満たされている必要がありました。一方、自由意志と超越価値のためには、愛の欲求と尊厳欲求の満足を増やすというよりも、満足の基準を控えめにして欠乏感を減らす必要がありました。従って、自己実現には、これらの欲求の満足基準を下げて満足することが必要だと考えられます。

愛の欲求(所属欲求)の満足基準を下げるには、自己実現者のように孤独を受け入れることが必要になるでしょう。例えば、友達を100人を作るのではなく、親友が1人いれば良いという具合です。おそらく、自己実現に近づけば近づくほど理解者は減っていきます。その時、理解してもらえずともそれで良いと思えるようになっておく必要があります。

尊厳欲求は、自分を認める自尊心と他者からの認められる承認に分けられます。例えば、「自分は、これもできない、あれもできない」という自尊心を低下させる考えは、満足基準を引き上げて欠乏感を高めてしまいます。そこで、反対に「できること」や「できたこと」に注目することで、欠乏感を低下させることができるかもしれません。あるいは、自分の強みを明確に言語化しておくという方法もあります。

他者からの承認は、その心地よさのために際限なく求めてしまいがちです。しかし、自己実現に近づき理解者が減ると、当然、承認されることも少なくなります。そのため、他者からの承認の満足基準は下げておかなければなりません。例えば、「承認は自分の真の理解者から得られさえすれば良い」といったように数を限定する方法が考えられます。

世界を肯定的に感じる感覚を養う

生理的欲求・安全欲求・愛の欲求・尊厳欲求が完全ではなくともある程度満たされたら、世界を肯定的に感じる感覚を身につけると良いかもしれません。そのための方法は、神秘的体験や至高体験を経験することですが、これはなかなか起こりません。そこで、至高体験ほど強烈ではないものの、よく似た体験を経験できるように意識と行動を変容するとよいでしょう。

弱い至高体験は、例えば次のような経験だと思われます。

  • 世界旅行に出かけ、世界を見て回る

  • 雄大な自然を見る旅行で、自然の偉大さを感じる

  • 壮大な建築物や遺跡を見ることで、人類の偉大さや歴史の重みを感じる

  • 高い山の頂上から地形を眺めて、地球の広さを感じる

  • 森を歩いて、神聖な気持ちを感じる

  • 出産に立ち会って、生命の神秘に感動する

  • 野生動物のドキュメンタリーを観て、生態系の厳しさを知る

  • 土の上を裸足で歩いて、地球の大地を感じる

  • 場所や建物の歴史を知ることで、時間の大きな流れを感じる

  • 植物を育てて、生命の逞しさを感じる

  • 絵画の歴史を知り、実際に見ることでその意味に感動する

  • 近所の木々を見て、光と風の美しさに感動する

  • 食卓の食材ができるまでを詳しく知り、そのありがたみを感じる

  • 都市における水道・ガス・電気の仕組みを知り、その完成度の驚嘆する

この他にもまだまだあるでしょう。自然の風景に関するものは見るだけで感動することが可能ですが、自然の仕組みや人工物については「知る」ことが必要になるようです。

知る欲求」は、マズローが欲求階層説とは別に存在を認めている基本的欲求の1つです。ある程度「知る欲求」が満たされると「理解する欲求」が生まれ、「理解する欲求」が満たされると別の「知る欲求」が生まれることがあると言います。急激に理解が進むアハ体験も至高体験の1つと言えるでしょう。

従って、世界を肯定的に感じる感覚を育てるには、旅行に出なくとも、様々な物事を知ることでも良いのかもしれません。

しかし、多くのメディアで流れているニュースは、事件や不正といった否定的な内容が多いと思われます。人間の脳は、生存本能として恐怖や不安に強く反応するようにできているため、否定的な感覚を打ち消すには、おそらく数倍の肯定的な情報が必要になると考えられます。そのため、肯定的な情報をより多く知るように心がけることが必要になるでしょう。

自己基準を明確にして従う

上記のようにして肯定的な世界認識ができていると、自分自身の道徳基準や善悪基準、重要さの基準は、すでにできているかも知れません。しかし、そうでない場合には、自分の価値観を見つめていると良いかも知れません。

そうは言っても、自分の価値観はよく分からないのではないでしょうか。価値観は無意識領域にあり、普段は表層意識に昇ってこないため、これは仕方ありません。価値観を認識するための方法としては、次のような方法はいかがでしょうか?

  • なぜか感動した物語の共感した理由を書き出してみる

  • なぜか夢中になって聴いていた音楽の理由を文字に書き起こしてみる

  • なぜか気になる絵画の気になる理由を書き起こしてみる

  • 小さい頃に夢中になっていた遊びの理由を考えてみる

  • なぜか没頭していた趣味の何が面白かったのかを考えてみる

  • これまで自分が自発的にしてきた活動の共通点を考えてみる

  • 進学や就職などの節目に行った選択の共通点を考えてみる

  • なぜかいつも行ってしまう思考や行動パターンを考えてみる

  • なぜかどうしても許せなかった事柄のパターンを考えてみる

他にもあるでしょうが、無意識に感動したことや、無意識に繰り返しているパターンには、明らかになっていない自己基準が隠されている可能性があります。

もし、自分自身の道徳基準が見つかったとしても、気をつけなけれならないのは、その基準は自分自身のものに過ぎないということです。他の人々はそれぞれ基準を持っているため、自己基準を他人に適用するのは基本的に間違いだと思われます。

「なさねばならないこと」を考える

世界を肯定的に感じる感覚と自分自身の道徳基準ができると、素晴らしいと感じる世界の現実が自分自身の道徳基準とズレていると感じる部分があるかも知れません。大して重要でもない事柄であれば、肯定的にその現実をありのままに受容することでしょう。しかし、中にはどうしても受け入れ難い現実もあるかも知れません。おそらく、それが「(あなたが)なさねばならないこと」なのではないでしょうか?

ここで気をつけなければならないのは、「自分がやりたいこと」や「自分がしなければならないこと」ではなく、「自分がなさねばならないこと」を考えるということです。「自分がやりたいこと」を問うと、自己中心性が高く課題中心性が低い個人的課題にたどり着いてしまいます。「自分がしなければならないこと」は、社会や文化によって決められたことを想起してしまい、自己基準での自己決定がしにくくなります。

従って、「あなたが、人生を賭けてなさねばならないことは何ですか?」という問いが、今のところ最善に思われます。

まとめ

マズローの「人間性の心理学」第11章を参考に、自己実現者の15の特徴を確認し、自己実現の特徴は、①世界認識(あるいは世界肯定)、②自由意志、③超越価値、という3つのカテゴリーに分類できるという仮説を導きました。

そして、この3カテゴリーを実現するには、生理的欲求・安全欲求・愛の欲求・尊厳欲求がおおよそ満たされていることが必要だと考えられました。ただし、愛の欲求と尊厳欲求は、満足の基準を控えめにすることで欠乏感を少なくする必要がありました。

最後に、自己実現に至る方法を考えてみました。その結果、①満足基準を下げる、②世界肯定感を育てる、③自己基準を見つける、④「なさねばならぬこと」を考える、という方法を提案してみました。もちろん、これ以外の方法もあることでしょう。

目標達成は自己実現ではない

このように、自己実現の原点を調べてみると、「自己実現=目標の達成」という言説はやはり間違っているように思えます。

なぜなら、自己実現欲求は、「自分のありたい姿になりたい欲求」というよりも、「自分らしい生き方に吸い寄せられる傾向」とでも言うべきものだからです。後者は、目標を達成しても満たされるものではありません。そして、自己実現者はおそらく「自己実現したい」とは考えていません。

マズローが「成長動機の別の心理学が必要かも知れない」と言ったのは、このように一般の動機づけとは異なる特性だからでしょう。

おそらく、欠乏動機はdoingの動機づけで、成長動機はbeingの動機づけという違いではないかと考えています。

成長欲求とは「成長したい欲求」ではない

おそらく、間違いの原因は「成長欲求(自己実現欲求)」を「成長したい欲求」と捉えてしまったことにあるのではないかと考えています。

成長したい欲求は、「自分に欠けている何かを満たしたい」という欠乏欲求であって成長欲求ではなく、満足した心理は、自己実現というよりも自己満足、あるいは自尊心と表現すべきものです。自尊心は、尊厳欲求の1つなので、やはり自己実現欲求ではないでしょう。

「〜できるようになりたい」「スキルを身につけたい」「目標を達成したい」「今の自分よりも優秀になりたい」という気持ちを持つことは良いことですが、「自己実現のために成長したい」というのは本質的に間違っているように思えます。

自己実現者は、不足を補おうとしているのではなく、課題中心的な目的を目指して成長してしまっているので、マズローの言う「成長欲求」は「成長してしまう欲求」とでも呼んだ方が良いのかも知れません。そもそも「欲求」という言葉が間違いかも知れませんね。


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