自転車泥棒

 何度も自転車から落下している。そのたびに大の字になり、空を見上げている。
 十歳の相司はもちろん普通に自転車に乗る事は出来る。だが、まだまだ未熟とはいえ、曲乗りが出来る十歳児は、この湾岸の町では、相司ぐらいなものだろう。自分でも気づかなかった曲乗りへの想いに火がついたのは、サーカスで自転車の曲乗りを見た時からだ。歓声が巻き起こり、熱狂は肌で感じられるほどだった。物まねでも良いから、やってみたかった。父は家を出ていて、一緒に見た母の反応もいまいちだった。やればやるほど、熱中した。今では曲乗りだけが、現実を忘れる手段であり、自転車だけが友人だと思っていた。
 そんな大事な友人をうっかり放置して、空地の端にあるトイレに行っている間に、盗まれてしまったのだから悔やんでも悔やみきれない。悔しい以上に驚きの感情があった。あんな汚れた自転車を、他人にとっては何の価値もないと思われる自転車を盗む人間がいるとは。
 ふと顔を上げると、黒髪の同じ年頃の少女がいて、相司の方をじっと観察していた。
 練習のたびに彼女をよく見ていた。気になるらしい。こんなところで曲乗りの練習をしている人間は少ないから当然だろう。
 相司はきっと彼女が自転車を盗んだ人間を見ていたに違いないと考え、誰が盗んだか知っているかと、彼女に少し強めに言った。そんな言われ方をするような人間だとは思わなかったようで、彼女は驚いた顔をした。
 相司はそんな顔をさせる気は無かったのですぐに謝った。脅すような言い方をしたり、謝ったりするので、彼女はおかしくなって笑った。それを見て、自転車を盗まれて苛立っている相司は少しむくれた。
 彼女は少し真面目な顔になり、自転車を盗んだ男の名を告げた。その男は、といっても相司と同じ年齢の少年だが、相司の練習を眺めては馬鹿にしていた男だ。お前のやっている事などに興味はないと、相司に向かって聞こえよがしに言ったりしていたが、練習を妨害したという事は、興味があったという事だろう。
 しかし、不思議だった。連取を妨害したければ、壊して何処かに捨ててしまえば良いのに、その男は乗って帰ったという。
 自転車がほしかったんじゃないの、と少女は言ったが、相司は違うと思った。確か、彼は自分の自転車、それも相司のものよりずっと良い自転車を持っていたはずだ。
 あいつの家を知っている、と、少女は相司に言った。そして同じぐらい力強く、ある方角を指さした。おそらく、自転車を盗んだ男の家がある方角なのだろう。
 取り返しに行くっていうのか、と相司が尋ねると、練習を続けたいんでしょ、と少女は答えた。
 当たり前だが、自転車がなければ、練習できない。練習を続ける手段としては、また自転車を買ってもらうよう母に頼むか、盗むかのどちらかだ。相司はどちらも気が進まなかった。かといって、取り返す事に乗り気なわけでもない。
 彼女は相司を無視して、指さした方向に進んでいく。相司は大きくため息を吐き、後に続く。相司は彼女に弱いところを見せたくはなかった。
 空地を出て道路を渡り、しばらく歩くと、見慣れない住宅地が見えてきた。
 小奇麗な道路にはゴミも何も落ちておらず、電柱が立っていない。だから空が綺麗に見えた。
 相司もそれなりに快適なマンション暮らしだが、ここまで広くて綺麗な家には住んでいない。辺りはすっかり暗くなっていて、ぼんやりとした街灯が整った道路を闇から浮かび上がらせる。
 彼女と二人で彷徨っていると、迷子のような気分でもあり、不思議と何もかもから自由になれた気がした。
 いいところだね、と相司は呟いた。こんな静かで、広い場所に住みたかった。
 人間、そして人生には分かりやすい差があるのだと相司は思った。家だけではない、能力にしたってそうだ。相司はだいぶ練習していたが、同じ練習量ならば、もっと、上手くなれる人間がいるのだろう。
「悔しいよね」と彼女が言った。
「何が?」 
「人生には差があるんだよ」と彼女が言った。
 確かに、そうだと思った。人生には差がある。相司に大した運動神経が無いのも、相司の父と母があんな状態なのも、運が悪かったに過ぎない。否定したかったが出来なかった。人生は運が全てを決めてしまうのだ。
 ここよ、と彼女は言った。三階建ての大きな家だった。
「あたしの家でもある」
 何を言っているのか、相司にはわからなかった。
「ここで生まれたけど、母さんは私を連れて出ていった」
「それじゃあ、自転車を盗んだ奴と兄妹なの?」
 彼女は首を振る。
「そいつは、父さんの再婚相手の子供」
「そいつははその事を知ってるの?」
 彼女はまた首を振る。そして何も言わずに、大胆にも家のガレージに入っていく。
 彼女はすぐに、暗闇の中から自転車を見つけた。暗くても分かった。自転車は綺麗な形で残されていた。相司は自転車泥棒の羨ましそうな顔を思い出した。あいつは、自転車を壊したかったけど、壊せなかったのではないか。そして、捨てる事も出来ずに、家にまで持って帰って来てしまったのではないか。
 その時、暗闇の中から、唸り声が聞こえた。中型ぐらいの犬がいた。腹に響くその声を聴けば、体格は大きくないが、それを補って余りある闘争心があることはすぐ理解できた。
「まずいぞ」
 相司は彼女に自転車を持って逃げるように言った。彼女は後ろを気にしながら、必死に自転車を漕ぐ、そしてその後ろを相司と犬が必死に追いかける。
「早く乗って」
 彼女は言った。
 相司は荷台に飛び乗る。無防備な相司の足に噛みつこうとしている事に気づき、相司は荷台の上に直立した。犬は追いかけるのを止めた。それでも吠え続けたが、彼女の漕ぐ自転車は犬から離れていくので、相司の周囲は静かになっていく。
「いつまで立ってるの?」彼女が言った。
 いつまでも立っていたかった。
 眺めも良いし、心地よかった。人生には差があるが、今の相司にはどうでもよいことであった。
 彼女の運転する自転車で、こうして荷台に直立している。相司を取り巻く何もかもから自由になれた気がした。 

※本作品は「湾岸曲芸団」の第五話にあたります。

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