シェア
山際響
2023年2月20日 12:41
「イルカなど、消さない」と彼は静かに、断言した。 ベッド脇の電気スタンドのような駅前のパブで、彼はベルギービールを飲んでいる。ピンク色の象が描かれているデリリウムという名の奇妙なビールの瓶だった。 彼はもう一度言った。「イルカなど、消さない」 彼は満足げに、ビール瓶を傾け、ゆっくりと、ビール瓶の象ではなく、その不思議な文字をなぞる。「デリリウム、というのは、せん妄状態の事だよ」 彼は言
2022年3月13日 08:01
海に来るつもりは無かったが、ふいに胸の内にこみ上げてくる懐かしさに引き寄せられ、妻を説得して車を浜辺へと向かわせた。 この辺りはだいぶ変わってしまった。昔はもっと錆びついたトタン屋根の平屋で埋め尽くされた町だったのだが、今では茶色と白の南欧風の家が立ち並び、すっきりと整理されたリゾート地のようである。たった今通り過ぎた場所はバス停だった。今でもそうであるが、私の知っているバス停とは違った。昔は
2021年10月6日 08:01
「就活生ですか?」 そのタクシー運転手は言ったが、私は眼を向けることすらせず、この自動車は無人で動いているかのように、その声を無視した。 女性だから馴れ馴れしいのかと、私は警戒していた。外に眼を向けると一日の終わりの風景が、私の意思とは無関係に眼に入ってきた。空の夕日から遠い部分は、藍色に染まり星を待っていて、空と海の交わる境界には、溶鉱炉のような橙色が、荒くて太い筆で描かれたように水平線と平
2021年9月1日 17:59
あらすじ 孤独な落書きアートのライター由美はリコと出会う。 二人はともに真夜中に落書きを始めるが…… 誰にでも、人生で時間、空間を真っ白にに塗りつぶしたい時がある。由美にとって、今がその時だった。 由美は無心で線を引く。真っ黒なパソコンモニターに白い線が現れる。無心だったが、楽しいからではない。そうしなければ心が痛むからしている。 いま由美が向き合っているものはCADというもの
2021年6月20日 21:21
おそらく、生身の人間に会うのは大学を卒業してから初めてだった。 しかし、あまり人間に会ったという気がしなかった。 彼女はもちろん幽霊ではなく、実体がある。薄い皮膚を通して、青い血管が見えるし、彼女には血も涙もあるに違いないが、残念ながら、私には信じられなかった。 こんな失礼な考えを私は不意に思いつく。いつもの事だ。そして、それを悟られてしまうのではないかと緊張するのだが、彼女に関しては、そ
2021年3月4日 19:42
一年のうち、七割は雨の日なんだって! この地域の話さ。信じられない。雨が降るからここら辺は森だらけで林業が盛んなんだよね。 僕は奴の車に乗って、港町へと向かっているんだけど、今も雨が降っている。 道路の両側には、大きなモミの木がいっぱい生えている。曇り空だから薄暗いし寂しい道さ。ものすごい大きな木を乗せたトラックが一分ぐらい前に、僕らの車を追い越してから、車なんて見てないね。 僕らの住ん
2019年7月7日 07:44
一年ぶりに見た父の姿は、死に向かって突き進んでいるとは言い難かったが、生き生きしているとも言えなかった。庭にある少しくたびれた木製の椅子に座り、鏡のように磨き抜かれた湖を眺めていた。湖面は青空と白い雲を映している。時々起る小さな波紋は、そこに魚が生息している事を示していたが、噂にのぼる湖の怪物の存在を物語るものはなにひとつなかった。 私も二十年ここで暮らしたが、一度たりとも怪物を見た事はないし
2019年1月22日 23:25
首都圏近郊のニュータウンにその小さな大学はあった。大学の脇には東京へと続く線路と国道がそれぞれ一本だけ走っている。 十二月のある夕暮れ。五十歳になる大学教授の私は大学の図書館から一冊の本を借りた。それは私が生まれた年、つまり五十年前に書かれた本で、ポルトガルの若者がヒッチハイクをしながら国中を旅する、という内容だった。本のタイトルは、フーガと言った。それは、ポルトガル語で『逃避』を意味する。
2019年1月21日 21:05
夏休みがはじまって一週間ほどたった七月の夕方だった。 その日の出来事は、一九九一年のどこかに浮かんでいるようだと、敬は思い返す。そのあやふやさは、どのような時間と空間に存在したのか、という類のものではなく、本当に存在したのか、そうではないのか、その実在を疑わせるほど敬の中では脆いものだった。そこに出てくる人々とは今はもう会えないし、声を聴くこともできない。だが、ふとした瞬間、かすかな風で羽毛が