『〈私〉を取り戻す哲学』フッサールからガブリエル
私とは何か。
岩内章太郎さんのこの本では、フッサールの現象学を起点として現代思想を再構築するきっかけについて考えています。
現象学的還元。フッサールの基本戦略は主観(私)と客観(あなた、世界など)の図式を解説する事にあります。
主観があって客観がある。目から矢印が出て、リンゴに向かう。
・フッサールの古い哲学
近代哲学は、この矢印を逆にして、カントの超越論的な哲学になって、例えば理性で説明する。(客観から主観に向かう)始めからインストールされているOS部分です。
カントの考えでは、アンチノミー(二律背反)の哲学になる図式によって説明される。互いに矛盾する事は語りえない。そのはずだ。
内部と外部という概念で考えると良いかもしれません。(エイリアンの宇宙船内部と、その外部として国家?)
つまり、本質やコア部分は、手にとる事ができない。そういう事もある。
フッサールは、その問題点を、エポケー(かっこにいれる)する事によって解決する。
そうして現象学が形成されて、そのフォロワーが現代思想につながります。ハイデッガーとサルトルでしょうか。
本書では、フッサールのデカルト擁護という観点から、身近な社会問題まで、タイムリープするような物語となっています。
フッサールについて、少しでも知識があれば読みやすいと思います。山川倫理用語集は、AI並みの信頼感です。
それでも辞書的な用語集が、立体的に考える行為につながっていく。高校社会科の知識も役に立ち、新書につながり、やがて実践できる。
インタールード、それから粗野な思想の形成
次に、現代の命題。なぜ議論は成立しないのか。個人の感想パートです。
2020年代。危機の時代が過ぎ去っても、その後の混乱は2度くり返され、それはプロメテウス的な旧世代型の加速主義で形容されるかもしれない。
自らを侵食する以外では、生存できない。いわゆるポストモダンの問題点は、あまりに真剣に考え過ぎてはいけない。こじらせてはいけない。
(ポストモダン映画のマトリックスはファーストで成功した革命戦略は、連続としては機能せず、最新作ではファーストに戻った。)
今日の加速主義は、テクノロジーのみに向かい、倫理基盤の刷新という意味では加速。それ以外では加速しない。(マスクやハルトマン両氏は、そのあたりのリアリティを持っている)
だが倫理基盤、それ自体は、うつろいやすいプラットフォームである。
難しい問題を考えすぎてはならない。
かっこに入れる。全てではなく。部分と全体で、そのデカルト的な明晰さも必要かもしれない。
ここまでが、ちょっぴり古い哲学でした。
・ガブリエルのシン論
次に、マルクス・ガブリエルについてです。
彼の思想は『世界は存在しない』の無世界性にあります。
世界は(意味の意味)なので、世界だけは存在しない。
この場合の無世界は、フッサールのエポケーと関連すると言えなくもない。(彼は無世界性にオリジナルな思想として強調するので、違う部分も多いはずです)
ガブリエルは、本書での基本戦略と同様に、過去の哲学史として理解する事の重要性は強調されます。
さて、ここでガブリエルの問題点は何でしょうか。
彼の目指す社会は、倫理的な価値観を表面的には発揮できる。世界は、あたかも俳優達の演技力と交渉によって決まる。
本書では、ガブリエルの態度が表面的な倫理(演技)が、共通のプラットフォームを形成するという点では、議論が成立することを指摘しています。対話のきっかけがある。
この倫理問題が、日本の現代思想ではどう扱われているか。倫理は哲学者(私)にあるのか、その思想にあるのか。
OSかソフトか。
まとめ
社会は、必ずカオスの多様性に至る。必ず。されど、社会は終わらない。
問題点は複雑化するばかりですが、内心の倫理と、構築される仮の倫理は葛藤する。どちらかではなく、倫理とは何か。
絶対的な私はどこにもいなくて、かっこつきの(私)が重要だ。一応、かっこのかっこというメタ視点も必要で、その様な反復も対話の中にある。
蛇足として本書のテーマについて、私は社会学っぽい事を想定しているのですが、筆者は、データベース消費の東浩紀さんから、國分さんの退屈という論点を強調しています。
この場合のデータベース(私はハッシュタグと言い換えます)は、東さんはシステムの問題を分析哲学で、國分さんの暇と退屈(哲学とは何かという問いかけ)は、システムと人間を扱っている。
暇な対話と退屈な対話。
だんだんと哲学者が賢くなっていくのは当然で、筆者の岩内さんは國分さんより若い世代という点に注目です。
古い哲学のシン論になる訳です。