映画『悪は存在しない』濱口竜介
圧倒的な、観賞後の感覚だ。傑作です。
あったまりますね。
カットやテーマについては言及しますので、お願いします。
6月から拡大上映しているようです。観れて良かったと思います。
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カットがあると、視点とか考える時もある。すると誰の視点かというのが重要になってくる。
カメラが見つめる主体と、その先という構図ですが、作品によっては、人物の視点よりも、自然からの視点が多かったりと、あくまでもイメージとして考える事が、私は多いです。
そうするとセリフなんて無くても良いのだ(この映画に関しては、少し当てはまる)。そうも思うけど、「物語」の解体なんてことは、逆立ちしても出来なくて、映画は進化するような流れだけがある。ゆっくりとだ。
というのも、本作では不自然なカットや、意味不明のものが多くて、オーソドックスな画面ではないという事ですが、すごく気になる箇所であります。
ただ、全てを鑑賞し終わると、こういう意図があったのだろうなと、思ったりもします。
すべてのカットに意味はある。
カメラ目線が、多用されるのも、演出意図であって、誰が何を見ているか、ということを強調されている。
心理的にはカメラ目線は、観客と目が合うストレスがあって、強い画は、それが重要だと思います。
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以下は、ネタバレになるかもしれません。
こういうところを考えればいいのではないかリストです。
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4点あります。
・テーマ性の問題。
グランピングが象徴するものは何か。開発計画の論点として「水」の上から下への運動は、どういう事か。
『ドライブ・マイ・カー』で描かれた、テーマ性は外部としてあって、それに伴うロードムービーとして移動があった。
本作では、テーマは「出来事」として、内部の問題になると、私は考えます。
・外部の超越性、どうしようもないこと。
本作では、ひとりひとりの登場人物が、どのように振る舞うかという事が重要だと思います。
この場合は、グランピング業者と住民との対立は多かれ少なかれ存在する。
ところが、そこから超越した存在者もいる。
社長とコンサルタントです。
彼らも、どうしようもない事実を、意識している訳ですが、彼らは、どのような人物がモデルであるか。
この辺りの謎ときが重要そうです。
コンサルタントは、一番上にいますね。
・信念は何か
そうすると、登場人物の信念(やりたいこと)と結果という事を、検討していくと作品を深く理解できるのではないでしょうか。
登場人物が、社会の中で葛藤するというのは、普遍的な図式ですね。
それで、ファースト・カットに注目すると、何の視点かということで、同じようなカットは繰り返されて、ラストにも登場します。
下から上を仰ぐようなカメラ、そしてその移動は、何を意味するのか。
映画を見終わった後の、この感情は、その部分にある。
・ラストについては、カットの時系列が異なる時間軸が配置されていると考えます。はなが鹿に対峙する→鹿に襲われる→(しばらくして)→二人が倒れている、はなを発見する。
こういう、原因と結果みたいな部分で、悪は存在しない。
そう相対できる訳はない。ないです。
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映画はメタファーの話になります。
特にグランピングという概念するものが、象徴する様な問題意識が前提としてあります。(グラマラス・プラス・キャンピングであって、意訳すると「やっちゃってるぐらい至高の余暇」)
この場合、資本主義的なものについての強弱は関係ありません。倫理だけです。
編集∶時間と空間の切断、制作∶本音のテーマについて抽象的にする偶然の部分です。
『ドライブ・マイ・カー』よりも抽象的になって、それだから難しい部分も多くて、また観たくなる。
つめたさ(物語の偶然)は、あったかい(感情)。