映画『きみの色』山田尚子

バンドだったんだ。

そうびっくりしました。

何やらアート系っぽい作品なのかなと思い込みが、春先から発生していましたからです。ビジュアルの印象です。

それで、代表作のごとく映画が誕生する。そう大げさな思いがあったかもしれない。

この場合は、音楽というジャンルは、アピール出来る部分が多い。近年のヒット作は多数です。

繊細な部分を、緻密につないでいくという点で、会話テクストを重視したコミュの作品というよりも余白が心地よい。

ネタバレ。

はじめのカットに注目します。

色は、感覚のセンスとして、機能的なメカニズムを意図します。

左から右へ、レーザーが一直線に出てて、色です。巨神兵がするような一直線を、その眼は受信する。

この冒頭部分で、映画を規定しているというか、テクニックとして、このシーンと対になる部分が終盤に出てくる。

ダンスというのは、ジャンルを問わず、環境として外部とのシンクロを体現するコミュニケーション方式です。

ここで、外部は学校という器で、まさかシスターのいる学校でスクールカーストを用いる訳もない。そんな舞台になる。

それで、ときおりストレンジャーになる。ギターの弦をかき鳴らす。

葛藤というか、持続するような音響としての個人がある。音色とは何か。

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シイナ林檎のやつって御茶ノ水、もちろん楽器・山・スキーそして本の街は、丸の内線をうたっていてその中に、出てくる楽器としての狂気は、リッケンバッカーとブランキー・ジェット・シティだった。

ジャンルとしての音楽は、異なる部分を、ふんだんに盛り込んでいるのだけど、エレクトリック・ギターは、エレクトリックという点で特殊であって、音量のアンプ(作中ではオレンジそしてフェンダー社)は、それを拡大する。

拡大された音量は、サックス・フォンのように、人間の声を模倣するような事もできるが、人間の声にそえる事もできる。

リズムアンドブルースしないという点で、日本語ロックは、そのちょっとしたノリの部分に力が入る。

驚いたのは、ギターの弦の端の部分を描いているところです。鉄製の弦の場合は、留め具が端に付いていて、そこをギターのボディの穴に引っ掛けます。

留め具の部分が、判別しやすいように色分けされているのを、作画しているのですね。

赤、緑、紫、シルバーなどになります。キャラクターに対応した色だとしたら、凝っていますね。

紫はシスターに対応しているかもしれない。シスターは、学生時代の経験を継承するという意味で、バンドがある。

継承の舞台として、古書店があり、聖域とでも表現されるような特殊な場所になっている。

はぐくまれる何かが、すくすくと、しかし、いびつに歩む。

そして最後のバンド・アンサンブルに、序破急の3曲は、互いをさぐるハートに、ひっかかるハートが、それからトリニティへマトリックスする。

盛り上がりに向けて、絶えずコミュニケーションしていくのですね。

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別れの時。水平に照射されるレーザーは、波の間に、事物に、スクリーンに反射して、等しく同じ線を描くことなく、ただよっている。

そこに色は、印象としての存在を、等しく、周波数は、光の色と音の高低をプロセスとして表現される。

アニメーションの中で、表現としてそれを行うってことが、独特な印象を残します。

それから構図のつくり方に、徹底的なこだわりがあって、キャラクターの配置を、グルーピングするような構成を、意図的にやっています。

主に3人組バンドというのがメインですから、グルーピングは、0と3、1と2、2と1、3と0というぐあいになります。

スポットがあたるか、あたらないかのステージの違いとも言い換え可能です。

ここで演奏は、3人それぞれストーリーを振り返るという形式であって、その短さに凝縮する親密性と、それは再現される濃密な音は光の射す方へ、光は音の射す方へ向かう。

スポットライトの問題かもと、ながく続く余韻は、フェードアウトしない。消えないマジック。

きみの色。

色彩の発見は記号として、物語の解決を示していて、はた目に皆はわかっているのに、自分だけがわからない。トツ子そんな事もある。

最後に。エレクトリックなら、ジャジャーん、ダダダダ・タッタッタ、ジャーん。

これを言い換えると、音楽は、ピアノの起立、令、直れ、みたいにルールがあって、始まりと終わりの、終わった感が続くのですね。


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