『働くということ』勅使河原真衣
自己啓発本のように、モーレツにいく。
この事は、あながち嘘ではない。というのもコンサルタントであるなら、その流儀で仕事をするという事はある。
ところが、著者が主張しているのは、組織論として、例えばコーチングに特化しても、指導する立場から部下にコミュニケーションを取らなければ、自己啓発本的なゴール、それすら達成出来ない。。
こういうのは、テクニックではなく、人生の問題だと。
コンサルが用いるようなテクニックは、フレームワーク、というのですか。それが有効に機能するような、事前の段取りが重要であって、テクニック的なフレームワークは、それをみんなで考えるツールとして役立つ。
そうなると根回しのような抽象的な語句になる。この用法は、根づくというような固定化された印象がある。コンクリートのような根が想定される。
本書では「超がつく活況」のコンサル業界を、紹介されているが、能力やツールに対するフェチシズム的な、こだわり強すぎるというリーダーの症候が問題になってしまう。
これは、コンサルされる企業と、上司(組織の階層構造)の問題である。
この点では、プレイングマネージャーの代打オレは、みんなで話し合いも必要だが、オノ・ヨーコさんなら、席次の問題。あなたが座っているこの席は、誰か別の人のものかもしれないという視座はアート的な問題解決を、少しだけ示す。
ヨーコさんを信じないと、何もかもがバステッド(破壊)されてしまう。
グレープフルーツは、グレープな果実である。
5500文字。長い。
A.自己啓発本とは何か
自己啓発本に対抗するために、アンチ自己啓発本の派閥が多くなってくると、アンチの方が問題だという事もよくある。
これは自己啓発本のメリットなりを正確に定義していないと間違ってしまう。
自己啓発本に良い本もあるという事実もある。
いつか書店にて、自己啓発本を熱心にみた事がある。
ふむふむ、この装丁はシルバーのハクが押されているね。とか。アートやデザイン要素は存在しないような無機質さ。それでいて、シンプルなテーマがタイトルにも装丁されている。
例えば哲学書と比較すると、重厚さや、こだわりの美が足りないかもしれない。これは、価格に比例したものでしょうか。装丁ばかりを読む私は、どのような自己啓発本ユーザーなのだろうか。
自己啓発本の売り場を前にすると、自己啓発本人間と予期されてしまうのではないかというおそれがある。何らかのパーソナリティが、書店の棚によって決定されてしまう。
ところが自己啓発本自体には、悪意はまるでない。
自己啓発本のユーザーにも、悪意はない。
グレープフルーツであること、これはどのように区別されるのでしょうか。たわわにグレープな集合として果実はみのる。
個を注目すべきか、集合に注目すべきか。
B.働くということ
簡単に本書の内容を考えます。
現実の問題として、架空の商品として「能力」が重要な事として出現して、組織の問題を固定化してしまっている。
このセリフのシンさんは、架空の人物ですがモデルはいます。顧客の信頼というワードから来る自信は、多分に大げさなものです。
著者が表現する「リトル・シン」(リトル本田?)の内心や善悪の判断はどうなっているのか不思議です。
それでも、たまにこういう人いますね。
私の経験では、ボランティアの集まりでも、あらかじめ権力関係が決まっていて、生まれつき偉い人が出てくる。
こういう人は、なぜか出会う前から偉い事が決まっている。こういう人は自発的とか自立とか、絵に描いた餅の注文が多くて、ボランティアって何と疑問に思ってしまう。
えてして、自分の趣味(マネジメントの方法論の民間療法化)に従う振る舞いを強制します。
ここまでが悪い例で、後半は価値観の転回が示されます。
『能力主義の競争が唯一の目的』では、当然ありません。
『心理的安全性』や『安全基地』と呼ばれるようなものを考える必要があります。
作者の勅使河原さんは、教育社会学の視点からシステムを論じます。
ケイパビリティも、インドのセンから能力として捉えながらも、現実の問題としては、個人の価値観が重視されるようです。
ここで、より戦略的にコンサル的な視点は維持しつつも、上司による権力の問題点を解決するような人間関係を育む体制を目指す訳ですね。社会学は、そのツールです。
以下、コンサル的な価値観の神話化と、コンサルされる組織のあり方について検討していきます。
大事なのは、働くということは、最大の問題意識の一つであるという事です。
C1.リンゴとグレープフルーツ。
こんな夢をみる。
コンサルの兄弟が会話をしている。
「圧倒的な、うす野良なクライアントは、何も知らない。何も持たない。持たざるものに、ほどこす能力は圧倒的である。我々は使命があり、指名されるのに訳がある。」
「本当に、何も知らない。無知なんだよ。我々の知能(おそらく知識を所有しているという能力)にすがる以外生きる道はなし。」
自らが設定したビューティフルな問題解決以外には正解は無い。
この事は、就職活動にあらわれているとも思うのですが、コンサルのコンサルらしい能力を定義して、スーパーな領域を展開するコンサルは、フレームワークを駆使して、やはり持たざるものを相手にする。
鮮やかな手腕は、まったく汗をかかずに、問題解決を行う。
こうなると、課題の本質が、人工的に形成されたものになってしまう。
コンサルが、字義は、ローマ帝国の執政官と同じですが、世界のルールは存在するはずなのに、そのルールを守る為のマニュアルは存在しない。
クライアントが量産されれば活況です。
コンサルの兄弟は、その同一性よりも、違いが強調されるべきだ。
C2.リンゴの廻る
労働のトラブルを考えると、過剰な感情や、スピードを意識し過ぎた結果だけど、組織の中では上司の問題とも言える。
(これは部下の問題と言い換える事も出来るが、組織の中で権力関係に留意する点では、優先順位は低くなる。問題は裁量で、少なくとも勅使河原さんは、そこに力点を置いている。)
他でもない私が、他でもなく、決断する。圧倒的な真理は前後なく普遍にして不変は、因果を超える。(万能)
ディスティニーというフレーズは、荻野目リンゴのもの。アニメ『輪(まわ)るピングドラム』。荻野目は、姉の日記に書かれた予言を現実のものとすべく活動をする。
時には、ストーカーまがいで、運命の人を部屋の床下でキャンプする。それでもデスティニーだから仕方ない。
倒錯的な行動は、過剰さと、時には違法なものだが、この場合は、まさにその倒錯性が、個人を規定する。
システムの世界が強調されれば、人間の自由から、何でもやり放題になる。ただし、法を強調し過ぎると台無しになる事もあるが、それがギャグとして成立させる説得力があるのもアニメではある。
ギャグとしてのナンセンスは、あまりにもセンスの常識に作用され過ぎている。
この物語は、やがて綻びを見せてデスティニーは失われる。気づきがある。
問題は荻野目リンゴの、奇妙な振る舞いが重要であって、その自由は、システムの中での折り合いに限定される。物語的解決はある。
決められた毎日は、退屈だ。
C3.グレープフルーツは、グレープな果実である。
こうなると、システムが、どうなっているかのみを理解できる能力が試される。
決定をする事による問題解決は、あらかじめ決まったルールに従って行う事です。現実の絶えず変化する流れは、柔軟に対処しなければならない。
この点ではリアリズムとして時間短縮や最短距離を、指向するなら、大きく周り道をするような迂回が必要になる。グーグルは、道草のナビを出すべきだ。
道を聞いてくる人がいて、それは最短距離ですか。最短距離でなければなりません。と言ってくる人がいました。(「高輪ゲートウェイ駅」の最短距離についてのクエスチョン)
ただ一つの真理は、システムは認知の問題であって、経済行為でもある事です。
アルコールが1滴でも最悪だというテーゼは、1度でも2度でも繰り返し出され、人々の反応とは裏腹に、システムが、上位概念として真実の更に先という形の支配になる。
一方で、システムのエレガントさは、まるで一般性を持たず、絶えず個人のたった一人の欲望は、よくよく全体の欲望と一致すると、誤解されてしまう。
ここで組織論などは、全体の遊動(あそび)部分になるが、システムの遊動にこそ、メリットはある。
とりわけ、ここ数年ソフトな全体主義が、いいねされて、権力の問題をソフトに肯定してしまう。これもグローバル。
一方で、インドのセンから、ケイパビリティを用いる、ここではある種の能力は、これが出来ると開かれる一方で、事後的な議論を常に要するという意味ではリスクを伴う。
経済学では、このリスクが予期として崩壊はあり得ないと前提されている。これはモデルを設定した形而上学的な市場で、その前提やモデルは、絶えず進化するユーロは、孤立主義を許さない。
拡大し続けるヨーロッパは、単一の貨幣、単一の利率で、制御できる。ただし、全体が成長し続けること、これは財政論者的な緊縮財政(国の借金を減らす。)と矛盾する。
一方で単一の、幾重にも安全装置がしかけられている事により、持続可能は予期される。中央にとって地域の問題(内部の外部)を、コンサルする能力が試される。実は、結構な無理ゲーです。
倫理の問題は、この哲学の問題は、常にそこに潜むのは、おおらかさを持ち、その点では議論の問題をハイブリッドに解決するかもしれない。(この点では、ハイブリッドは、組み合わせの可能性をもっと追求しなければ成立しません。)
D.完全無欠なやつ
つくられたものとしてシステムは、台本のように機能する訳ですが、台本は、ゆらぐ不確実な存在としてテクストがある。
能力は、多義的な文脈であってもテクストとして、1から10まで辞書に登記されれば、用法の出現率により、文脈のみになってしまう。
四象限分析ABCDは、学問としては、絶対に手に入れる事の出来ない何か(ここ、ここではない)を示すが、同じようなツールとしてコンサルタントが用いるのは、(ここ、ここではない)は、二項対立というよりも、一元論的なここ、根源的な正解が強調されてしまう。
たどり着く事の出来ないものを、ゴールとして設定していきたい。
権力は、あらゆるものから意味を免れた存在さながら、コトダマのように定位してしまう。
得てして、スーパーヒーローは、強調に対する過剰であるとされ本当の正解は、ピンポンであると(遊動、ゲームの、いないいないバーの反復)、対立の正と反の動的な何か。
その営みの中で、正しく対象を目の前に結ぶ事を焦点が合うと呼ぶ。
デスティニー。
コンサルサミットみたいなPRイベントの大ホールで、グローバルカンパニーの勝ち組が、熱烈なプレゼンを開始して、意味よりも意気、これは気合の部分でアピールしていたので、2分で退席してしまった。
(これは趣味判断の問題ですが、論理的なプレゼンでないと、私の場合は、そこに問題点を見出す事が難しい。自己啓発本的な良心も見出す事が出来るはずです。)
それから、別のブースでホテルマンが、取り留めのないスピーチが退屈だったけど、最後に涙が止まらないようなエピソードを聞いて、我慢も大事だと思ったよ。
お客様のニーズは、ご要望の裏にあります。
先読みしてお持ちしましょう。
1お話し頂いたら10やりましょう。自分に言い聞かせる。
優しさは無駄になっても、裏切らない。これは、よく言う、自発的に行動する気が利く労働者とは別ですね。役者に台本は要りません。
それから、スピードについて同期するという事が、人格のタイプ分析のようなコンサル的な視点が欠けていると上手くいかない。柔軟さです。
コンサル重視と自己啓発本は、その全体を意図しないと、評価出来ない。
問題は、コンサルからクライアントの上司という流れは、共謀関係となる。このときコンサルでは無い事が強調され、コンサルで無い事(部下)は、本来的なコンサルでなければならない。
本当の私は、これがしたいのです。本当のこれを意識しないとダメになる。
権力関係は、パワーが常にせめぎあい、コンサルは非コンサルによってコンサルされる以外ない。これで社会というか人生の問題となる。
現実の問題で、それを無視するならば、錯覚や目隠しを要する。これは暴力だ。
管理の問題は、この暴力を絶えず反復しなければならない。
まとめ
スピードはアクセルを踏み込む回転速度でも、歯車の半径から考えるギアの違い、自動車のマニュアルのミッション部分とか、こういう事もある。
こういうスピードとギアの違いをファッションとして考える。
『輪るピングドラム』荻野目リンゴは、女子校生である。
その飛躍は、先読みなしに、このような表現は存在しないのですと、倫理の審級は、私の手の中にあるとデスティニーはある。
デスティニーは、システムの中にあり、同時にシステムの外にあると言う意味で人間が重視される。
スクエアなスクール・バッグに、ぬいぐるみ2個。缶バッチの数々。キャンバスの背景に、フレームアウトするスティッチと、フレームインするちいかわ。
バスで通学のワンシーンです。やがて、ぬいぐるみは手放すかもしれない。
連続する瞬間に、規則は、例えば重力のような大きな枠組みとしては作用する。
コントロールしようとしたら、リンゴは破裂してしまう。バステッド。
されど、グレープフルーツのグレープにも毒がある事を忘れてはいけない。
これもコンサル。だから難しいのです。