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センスをアップする『東大ファッション論集中講義』

隠されたものは、クッションの中にあるばかりではなく、カメレオンのような風景に対する平滑を、ほどこす事もある。

空間はあるが、何もかもが素通りして、見る事が出来ない。

あるはずのものが無い。

本書で取り上げられるミロのヴィーナスの両腕は、失われた部分にこそ価値がある。これは何らかの(映画の)ショットを形成するのだろうか。想像力に訴えかけるからだろうか。

両腕は虚空にあり、その深刻なたたずまいはファッションなのかもしれない。

パターンとしての、ショットは、大げさな身振り手振りを、時には必要とするが、これは多分に劇的なものだろう。

(あらゆる)ゴッドファーザーは、静かに演技をする。

そのファッション自体が、自己を表現し、それゆえに生きるという事もある。

ヘンリー8世は、ヘンリーというだけあって変だ。変8というゴロで覚えていました。

芸人さんがいうような、受験の暗記法は、マルクス・アウレリウス・アントニヌスと勢いで覚えるのもある。

ヘンリー八世は赤いイギリス人だ。

マルクス・アウレリウスは、私は王だと云う。

エリザベスは、私達と共にある。

これは何か。

映画の世界観が、主観の(例えば)監督の深層心理と、客観のシステムとしての認識になる。

そのため映画の一連の体系が、私の身体にフィットするかという事を、オートマチックに判断しなければならない。

ショットの法則は、全体の中で意味をなすため、ルールの設計図は権力を持たず、マニュアルやハウ・ツーは、都度参照されるものでなく、モード(ファッション)を考えます。

そのためイマジナリーを超えたショットは、完全に時間のテクノロジーとして文脈依存となります。

それを間違うと、すべてが無意味に見えてしまう。

これは、これではない。

服飾は、設計図に切れ目を入れて、それを組み合わせ、コピーされた布が覆う行為だ。

私の身体に切り取り線はない。まだそのバージョンではなく、あれば外科医の特権である。

本書では、第12講「批評と研究」が、特に読み応えがありました。

この本は、ラスボスは学問としてファッションの浅さ。

これが、その浅さゆえに、一般と主流から離れた分野をていねいに見直していく契機となって、例えばサブカルチャーの一般化というような変化に対して、人生の問題を捉える視座が豊かになっていった。

そのようなすぐれた思想や批評が、日本で育まれていった。とりわけ前世紀後半から現代にかけてです。

変化(HK)として、過剰な部分が表現に向かっていく傾向は、パーソナリティを超える。

この同時性は、全てを裁断して、同時に何かを紡ぐ。始まりは、テクストとして固定化されたモード(ファッション)概念だった。

アンチ半ズボン(サン・キュロット)は、時間をともなうファッションの難問だ。

皮膚感覚や身体を伴わないと成立しない。

マイルス・デイビスの最高のアルバムが、ネフェルティティで無いにせよ、等しく連続する瞬間はある。

ドライブ・マイ・カーの際には、ストーンズを、というは家訓だ。(レット・イット・ブリード)

それから、青の時代としてユーミンであるが、人類はダンスする存在である。

それで、ロックのパーティは、ダンスする場として、ちょっと特殊だねとか、プログレッシブはコラージュとして使おうとか、考える。アレンジメントがある。

この場合は、用途が、時代に映えるものを模索しなければならないが、一寸先を意識しなければならない。

モード(ファッション)に対するコードに敏感にならなければならない。

歴史学は、現代からの視座に限定される。だから難しい。

ヘンリー八世を、どのように捉えるかという事は、彼自身はファッションよりも奇抜だったということ。王である。(※注)

エリザベス、偉大な女王は、女王として振る舞わなければならないからです。

これは過去。

映画『攻殻機動隊』では、身体の欠如がテーマになる。まず、マネキンのモチーフは、ファッションの成分としてイメージのみになってしまう。

自己の不安は、そこにある。

この不安は、ネット(たどり着けない何か)に解消されるが、現実との断絶が解消されなければならない。

「像としての身体」は、衣服としてモード(ファッション)として、テクストが指示される事によって、雑誌やメディアと、おしゃべり(チャッター)から形成される。

そのため、その豊かさは、アンチ資本主義とは区別され、テクストの豊潤な海は、資本主義を持続させる。

(ファッションプレートは見本用版画です。これはコピーのコピーという概念が存在しなければ成立しない。)

そのエンジンとして、映画は欲望について、クールに描き続ける。

ここで、ファッションとしての身振りは、メタ的に、その「身振りの身振り」に発展する。学問が走り出す。

続編『イノセンス』では、人形あそびと、主体から客体へとコントロールされる自己が、つけ加えられている。

ここでもネット(たどり着けない何か)は、この少佐の世界は、アンリアルである事それ自体が強調される。

現実は、ネットにたどり着けない以上は、夢からのウェークを検討し続けなければならない。

物語は設計図が、裁断され、それはコピーされるように再構成される。

真に忘却を免れるものは、動的な何か。それは存在や非存在に文脈依存しないもの。常に時代に依存する何かに対する柔軟性である。

とにかく、ファッション(モード)がいろどる内面と外面の一致にこそ、目をこらし、そこで始まる何らかを、捉えなければならない。

一枚の布は、それを完全に覆うクッションのカバーとして、それは時として縫いぐるみと呼ばれるかもしれない。

それで、何らかのジャポニズムは、マイルスの「ジャケット」に象徴されるだけでなく(例えば石岡瑛子、例えば三宅)、それは時代に依存していた何らかの、うごめく闇を等しく封じ込めたものは、絶えず変化を先どる何かである。

最近パルコの映画館は、次の作品が上映されていた。

一、攻殻機動隊、押井。
二、chime、黒澤清。
三、ロブスター。

必ず忘却を免れるものは、ふつふつとわき、その永遠性を作品にきざみ続ける。

わたしたちは、常にセンスをアップする瞬間にいる。

作品はそれによって、自らを有機的な「生」へと高める訳です。

(以上、この文章は『東大ファッション論集中講義』平芳裕子についての書評です。)

注∶ヘンリー八世

現代につながる英国を作ったという意味では偉大な王だ。現代では、偉大な王であるという点で、その存在は、あまりにもシンクロし過ぎてしまう。

人気者と、それに結びついた権力の問題は、まさにモード(ファッション)が表すものですが、視点という意味で、それを規定する。

この辺りの裏コード(テーマのメタファー)ではないでしょうか。

本書の、アート史と文化史のまとめが、とても分かりやすいです。

フランスのジャポニズム(マネ)が、ファッション史に反復されていく過程が面白いです。

睡蓮(モネ)大国日本には、訳がある。

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